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第21回 みらいつくり哲学学校 「第11章 幸福論の射程(その2) 幸福論の教え1」開催報告

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21/11/17

 

2021年11月16日(火) 10:30~12:00、第21回となる「みらいつくり哲学学校オンライン」を開催しました。

奇数回は、渡邊二郎著『人生の哲学』を課題図書にしています。

今回取り扱ったのは、「第11章 幸福論の射程(その2) 幸福論の教え1」です。

レジュメ作成・報告は、哲学学校に初回から全て参加してくださっている和田さんが担当しました。

 

今回と次回は、4名の哲学者の幸福論を基に、幸福について考えていきます。今回は、アランとラッセルの内容を見ていきます。

 

アランの幸福論

 

アランは現代フランスの哲学者です。アランは幸福であることを社会的義務と捉え、「社会的儀礼の勧め」を説きました。

アランの『幸福論』は、「プロポ(哲学断章)」と呼ばれる短いコラムのような形式で書かれていて、『幸福論』は93編のプロポからなっています。今回の本文の内容は、このプロポの内容を著者が抽出して書いたものと言えます。

 

アランはまず、私たちの心の動揺を過大視せずに、ときにはそれが身体の変調に由来していることがある点を指摘しました。

 

そして、肉体を鍛えることによって、心を統御することの大切さを説いていきました。

気分と戦うには、「姿勢を変えて適当な運動をやってみる必要」があり、「微笑したり、肩をすくめたりすることは、心配事に対する対策として知られている」とアランは言います。

 

また、デカルトを引き合いに出し、「情念」が「私たちの肉体のうちで起こる運動に依存している」点を指摘しています。

 

アランによれば、「実際には、幸福であったり不幸であったりする理由は大したことではなく、全ては私たちの肉体とその働きにかかっている」といいます。

 

「深い悲しみ」も「肉体の病状」に由来するのがつねであり、病気でないかぎり、「心痛」はやがて「安らぎの時間」に道を譲るとし、

「悲しみは病気にすぎず、病気として我慢しなければならず」、そうすればやがて「心は

休まる」と述べます。アラン曰く、「誰でも、風向きや胃の具合で、気分が変わる」のだそうです。

 

「肉体の運動に対する正しい理性の支配」を確立し「よく統御された肉体」を訓練して作り上げれば、「行動」が身についてきます。身体の健康に注意した上で、心を平静に保つよう努力すれば、たいていの物憂さは消えてゆきます。

このことから、「最大の不幸は、ものごとを悪く考えることではないか」とアランは述べています。

 

健全な体に健全な精神が宿ることを弁え、健やかな明朗さを伝播させ合い、社会的秩序を維持すべきだとアランは考えています。

なので、「もしもあなたがいやな人間に会ったなら、まず笑顔を見せてあげることが必要だ」と言います。

そうした行動を各々が続けていくことで、秩序正しい、節度ある社会をつくり出します。

また、「礼儀のほうが、気分よりも本物であり」、「感情を救うものは、制度なのである」と言います。

 

そのためには、自分を律する義務意識や意志力が強くなければなりません。

「人間は、意欲し、創意工夫をこらすことによってのみ幸福である」「どんな職業もみな、自分が支配しているかぎりは愉快である」とアランは述べています。

 

こうして、「予見しがたい新しい材料にもとづいて、すみやかにある行動を描き、そしてただちにそれを実行するならば、そのことによって、人間的生は申し分なく満たされて」ゆきます。

大切なのは、意欲された行動においては、人は、あえて苦しみさえも喜んで引き受ける、という点です。

 

また、人間はもらった楽しみに退屈し、自力で獲得した楽しみのほうをはるかに好みます。何よりも人間は、行動し征服することを好みます。なので、行動を伴わない楽しみよりも、むしろ行動を伴う苦しみの方を選ぶのである。いやいやながら我慢するのではなく、行動すること、これが肝要である。とアランは言います。

 

それゆえ、人間は、幸福であるべく自力の努力を重ねなければなりません。

不幸になるのは、むずかしいことではない。むずかしいのは、幸福になることである。だからといって、幸福になろうと努力しない理由にはなりません。

 

「人生」には、「生き生きとした楽しみ」がたくさんあります。そして「すべての不運や、とりわけ些末(さまつ)な事柄に対しては、上機嫌に振る舞うこと」が肝心です。

物事を気持ちのいいシャワーのように受け流すこと、偏執的であるよりは、無頓着であること、観念を変えさえすればいいのであるとアランは述べます。

 

アランは、苦しみの中にいるときには以下のように振る舞うそうです。

◆「男らしく振る舞い、生命をしっかりと掴まえること」

◆「敵と立ち向かう戦士のように、不幸に対して、私の意志と人生を結び直すこと」

◆「そして死者については、できるかぎりの友情と喜びをもって語ること」

 

他人に対しても自分に対しても親切であること、他人の生きるのを助け、自分自身の生きるのを助けることこそは、真の思いやりです。親切は喜びである。愛は喜びである。とアランは言います。

 

アランは「私はあなたに上機嫌を望む。これこそは、提供したり受け取ったりすべきものであろう。真の礼儀は、すべての摩擦を和らげる伝播してゆく喜びのうちにある」と言います。

 

礼儀とは習慣であり、気楽さ。優雅さとは、誰をも不安がらせず、傷つけもしない、幸福な表現と動作だと言えます。

そのため、人間は、自分の考えていることを言いたければ、感情にはやるのを抑えて自分をしっかりと掴んでいなければなりません。

 

こうして、慎み深く、礼儀を守って、愚痴をこぼさず、親切さと喜びを分かち合うように努力すること、こうしたしっかりした大人の振る舞いの交換が幸福を作り出すとされます。

「私たちを愛してくれる人たちのために私たちがなしうる最良のことは、やはり自分が幸 福になることである」そして「あらゆる幸福は、意志と抑制のものである」とアランは述べています。

 

アランの幸福論を通した筆者の考えは以下の通りです。

アランの幸福論には、深刻な人生観や世界観の影はあまり見られません。みずから常に作り出すように努力して生きることを説く、社会的儀礼を基本にした幸福論であるといえます。

 

そこにこの幸福論の特徴と限界もあると筆者は述べています。まかり間違えば、偽善に転じかねない危うさももっているためです。

しかし、それが「無作法」で「自己制御のきかない」「気分屋」や「大げさな悲観主義者」を厳しく窘たしなめる意味を含むことは、確かであろうとまとめています。

 

次に、ラッセルの幸福論です。

アランとは違い、内攻的にいろいろな悩みを抱えて鬱屈した気分に囚われている青年たちに向けて、自分の関心を外部へと振り向け率直に新鮮な興味に駆られて明朗闊達に生きることを勧める、活動的人生観の表現となっています。

ラッセルは前半で不幸の原因(8つ)を論じ、後半で幸福の原因(4つ)を論じています。

 

不幸の原因としては、

 

①内向的自己没頭

「自分自身と自分の欠点」ばかりを気にし、「あまりにも深く自己没頭」している人のことです。そうした人が「幸福に至る唯一の道」は、自分に「無関心」となり、「注意を次第に外部の事物に集中するように」する「外的な訓練」以外にはないといえます。

この自己没頭にはさらに「罪人」、「ナルシスト」、「誇大妄想狂」の三つのタイプがあります。

②ペシミズム

「太陽のもと、新しいものは何ひとつない」と嘆き「すべては空である」と思うことです。うペシミズムは、「自然の欲求があまりにもたやすく満たされるところから生まれる感情」にすぎず、幸福や善は、「孤独」の瞑想(めいそう)のうちにではなく、「協力」し合った人間社会の なかでの活動に求められねばなりません。

③競争意識

④「退屈」を避け、「興奮」を求めること

⑤疲労

⑥ねたみ

⑦被害妄想

⑧周囲

自分の属している集団の慣習としっくりいかない人々」は、「職業の選択」においても、「気心の合った仲間の得られるチャンス」のある道を選ぶべきで、「環境が愚かであったり、偏見にみちていたり、残酷である場合には、それと同調しないことこそ、美徳のしるしである」と言えます。

 

一方、幸福の要因としては、大きく4つの点にまとめられます。

 

①友好的な関心

友好心にもとづいて、自分の関心や興味を外部へと向けて追及し、我を忘れて、その客観的関心ごとに没頭し、ひいては仕事への活動に従事することが幸福を約束するとラッセルは考えています。

②愛情の問題

人生において愛されているという感情は、他の何物にもまして熱意を促進します。

③気晴らし

人生においては、やはり時には気晴らしが必要である。つまり、「余暇を満たし」「緊張を解きほぐしてくれる」ような「小さな関心事」でもって気晴らしをすることは、それなりに重要だとされます。

④努力と諦め

ラッセルは、努力し、かつ限界を知って諦めることが大事であると述べています。「絶望」するような諦めはよくないですが、「不屈の希望」に根ざした諦めは良いと言います。

 

ラッセルの幸福観をまとめると、「たいていの人の幸福」は、「食と住、健康、愛情、成功した仕事、そして仲間から尊敬されること」にあるとされています。

 

ラッセルの幸福論は、自然主義的な人間に根ざし、外向的活動の進めによって、溌剌(はつらつ)とした生き方を作り出し、健全かつ幸福に生きることを教える実際的な人生論となっていると筆者は述べています。

 

今回はこのように、幸福についてまとめられていました。

 

 

ディスカッションでは、まず初めに今回の内容は分かりやすい・面白いという方と、退屈だったという異なる感想を持った方がいることが分かりました。今回の内容はアランとラッセルが述べていた幸せのなり方など、ある種答えのようなものが書かれており、それが分かりやすいと思う人もいれば、哲学には「問いを見つける」ことを求めている人には退屈に思えているようでした。

論点としては、「この2人の幸福論は自身の変化や意識の変容をもとめる、マッチョな理論のように思う。そうではない幸福論は無いのか?」というものや、「幸福と不幸の総和は0になるなど、幸不幸のバランスが取れているものと考えているか?」というものがあがりました。

幸福と不幸のバランスについては、「自身の身の置き場によって受け取れるものが異なるだろうと思う」「周囲から今つらいとしても、いずれその分の幸福が訪れると言われていて、その言葉に違和感があった」「幸福・不幸ということで自分の人生を判断したことがない」など、様々な意見が出ました。

このように、今回は幸せや幸福論について話し合うことができました。

 

前回は、「幸福とは何かを考えている人は、幸福ではない」とありました。ですが、今回の内容を踏まえると、幸福とは何かを落ち着いて考えることができる時点で、ある程度は幸福な状況にあるのではないかと思いました。

 

 

次回、第22回(偶数回)は、11月30日(火)10:30~12:00(急きょお休みになる可能性あり)、ハンナ・アレントの『人間の条件』より「第5章 活動(31~34節)」(いつもと違い今回は4節分です)を扱います。

第23回(奇数回)は、12月7日(火)10:30~12:00『人生の哲学』より、「第12章 幸福論の射程(その3) 幸福論の教え2」を扱います。

レジュメ作成と報告は、哲学学校に初回から全て参加してくださっている和田さんが担当します。

 

 

参加希望や、この活動に興味のある方は、下記案内ページより詳細をご確認ください。

皆さまのご参加をお待ちしております。

 

執筆:吉成亜実(みらいつくり研究所 リサーチフェロー兼ライター)

 

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