Works

第20回 みらいつくり哲学学校 「第5章 活動(28~30節)」開催報告

前回の報告はこちら

ー ー ー ー

2021.11.11

 

2021年11月9日(火) 10:30~12:00、第20回となる「みらいつくり哲学学校オンライン」を開催しました。

偶数回は、ハンナ・アレント著, 清水速雄訳『人間の条件』を課題図書にしています。

今回取り扱ったのは、「第5章 活動(28~30節)」でした。

 

28節の内容からです。

 

まず最初に、出現の空間というものが出てきます。これは、人びとが言論と活動の様式をもって共生しているところでは必ず生まれるものです。

これは、人間の手の仕事が作り上げる空間と違い、この空間を生み出している運動が続いている間だけしか存続しません。

 

権力は、暴力の用具のように貯蔵し、いざというときのために保存しておくことはできません。ただそれが実現されている間だけ存在する物といえます。

 

活動し語る人びとの間に現われる潜在的な出現の空間が、公的領域を存続させます。

 

権力(パワー)とは常に潜在的能力(パワー・ポテンシャル)と言えます。権力を実現することはできますが、それを完全に物質化することはできないからです。

権力は、数あるいは手段という物的要因と、無関係であると言えます。

 

権力が発生する上で欠くことのできない唯一の物質的要因は、人びとの共生であるといえます。また、都市の創設というのも、権力の最も重要な物質的前提条件と考えられます。

 

権力は、人間本性や人間の肉体的存在の中に、物理的限界をもちません。権力の唯一の限界 は、他の人びとの存在だといえます。人間の権力は、最初から多数性という条件に照応しているからです。

権力は、それを減じることなく、分割することができる。とアーレントは述べています。

 

人間生活の条件のもとで、「権力」に代わりうるもの「実力(暴力)」と言えます。その一方で「体力」は「権力」にたいして無力であると言えます。

 

実力(暴力)とは、人間だけがその仲間にたいして行使しうるもので、一人あるいは少数の人びとが暴力手段を手にすることによって独占的に所有することのできるものです。

 

実力あるいは暴力は、権力を滅ぼすことはできますが、権力の代替物になることはできません。

実力と無権力の政治的結合によって、暴政が生まれます。

 

この暴政を発見したモンテスキューは、暴政は孤立に依存しており、多数性の条件に対立していると述べています。

また、出現の空間である公的領域に留まるのに必要な権力を発展させる能力を欠いているとも言っています。

 

暴力というのは、体力よりも権力を破壊するほうがやさしく、常に被支配者の無能力を特徴としています。

また、被支配者は、共に活動し語るという人間的能力を失っています。

 

一方、体力は、他人と共有できない、個人に与えられた自然の贈り物で、権力よりはうまく暴力に対処することができます。体力を滅ぼすことができるのは権力だけです。

 

権力が腐敗するのは、強者を破滅させるために弱者が団結するときで、権力への意志(ホッブズ~ニーチェ)は弱者の最も危険な悪徳であるとアーレントは述べています。

 

近代の最良の創造的な芸術家、思想家、学者、工芸家たちは、暴力への激しい渇望を示しています。これは、社会によって体力を奪い取られようとしている人びとの当然な反応であると言えます。

 

権力は、公的領域と出現の空間を保持するものですが、人間の工作物の活力の源泉でもあると言えます。

 

各人が生まれることによってもたらすことのできる新しい「始まり」を世界の舞台の中に持ち込む活動なしには、「日の下には新しいものはない」とアーレントは述べています。

 

権力なしには、公的な活動と言論によってもたらされた出現の空間も、生きた行為、生きた言葉と同じように素早くかき消えてしまいます。

 

西洋の歴史において権力にたいする信頼というのは、短命なものでした。

一方、出現の空間に伴う光輝に対するプラトン的、キリスト教的不信というのは、長続きしました。

また、近代の「権力は腐敗する」という確信は一般的であると言えます。

 

トゥキュディデスという歴史家が伝えているペリクレスの言葉として、

人間は、同時的にそしていわば同じ一つの身振りで、自分の偉大さを演じそして救うことができるという最大の確信に満ちている

というものがあります。

 

そのような演技は、それだけで権力を生むのに十分であり、それを保持してリアリティとするのに格別<工作人>による変形の物化を必要としないという最大の確信に満ちています。

 

権力にたいする信念として、

①活動は<活動的生活>のヒエラルキーの最高位にのぼり

②言論が人間生活を動物生活から決定的に区別するものとして取り上げられた

という特徴があります。この二つの事柄によって政治は尊厳を与えられ現在まで続いていると言えます。

 

人間の活動(アクション)の判断基準は偉大さという基準しかありません。

人間が達成できる最大のことは、生きた行為と語られる言葉です。

アリストテレスのエネルゲイア(現存性、現実態)という観念が概念化されました。

この観念によって、目的を追わず、作品を残すことなく、ただ演技そのもののうちにこそ完全な意味があるすべての活動力を指しました。

 

次に29節の内容です。

 

古代人による政治の評価は、以下のようなものでした。

①人間(ユニークな区別をもつ各個人)は言論と活動の中で自らの姿を現わし、自らを確証する

②これらの活動力は、それにふさわしい耐久性をもっている

公的領域は、人間の手になる仕事とか人間の肉体の労働というよりは、もっと特殊に「人間の作品」であると言えます。

 

人間が達成できる最大のものは、人間自身の出現です。このことを、現存化といいます。

 

<工作人>と<労働する動物>は、非政治的な存在で、活動と言論は怠惰にすぎず、怠惰なおせっかいか無駄なおしゃべりにすぎないと非難するものです。

 

<工作人>:世界をもっとも有益でもっとも美しくするという観点

<労働する動物>:生命をもっと安楽でもっと長くするという観点

工作人と労働する動物には、このような観点があります。

 

人間の感覚がリアリティをもつためには、人間は、単に与えられたままの受け身の自分を現存化しなければなりません。

現存化は、自分を変えるためではなく、自分をはっきりと際立たせ、完全に存在させるため行うものです。

 

次に、世界からの阻害という単語が出てきます。

アーレントは、労働をしている人は世界から阻害されていると考えています。交換市場で出会う人びとは、人格としてではなく、生産物の生産者として出会うからです。

それによって、人間としての人間が排除され、私的なるものと公的なるものとの古代的関係が驚くほど転倒されているといいます。人びとが自分自身を示すことができるのは、家族との私生活の中か、友人との親密な関係の中だけであるといえます。

 

それは、人間の非人格化であり、生産者の社会に固有のものです。

 

この非人格化を最もよく説明するのは天才の現象です。

ルネッサンスから19世紀の終わりまで、近代は天才こそ最高の理想と考えられていました。

ですが、労働社会が起こり、20世紀になって、天才と呼ばれることへの抗議が始まりました。

天才の作品は、職人の生産物とは違います。

天才の作品には、活動と言論においてのみ直接表現されるような差異性と唯一性の要素を含んでいます。

 

近代における天才への敬意は、偶像礼拝といってもよいほどになりました。

それでも、ある人の「正体(who)」はその人自身によっては物化できないことから、天才の偶像化は、商業社会で一般的な他の教説と同じような人間的人格の低落を秘めています。

 

ある人の「正体(who)」というのは、その人がなしうることや生産しうるものよりも偉大であり重要です。ただ野卑な人だけが、卑屈にも、自負を自分のしたことに求めるものだといえます。

 

天才の中にも、創造的天才というものがあります。作品にたいする人間の優位が実際には逆になっていて、このような状態は天才の栄光ではなく苦境であるといえます。

 

最後に30節の内容です。

 

労働こそ、反政治的な生活様式であるといえます。なぜなら、

・この労働の活動力の場合、人間は、世界とも他人とも共生せず、ただ自分の肉体と共にあって、自分自身を生かし続けるためにむきだしの必要と向かい合っているから

・労働における共同性には、真の多数性を特徴づける印がなに一つなく、ユニークな人格の間の関係と比較することができない

からです。

 

この社会性は、平等に依存しているのではなく、同一性(sameness)に依存しています。

 

同一性というのは、・労働と消費に依存する社会に一般的に見られ、そのような社会の画一性に表現されています。

共同労働においては、労働者の集団は、労働の生物学的リズムによって統合されています。これにより、労働の労苦と困難は和らげられますが、労働にとっての最良の「社会条件」というのが、かえって人間がアイデンティティを失うような条件であるという問題もあります。

 

同一性は、平等と同じ意味としてとらえられがちですが、異なるものです。

 

平等は、公的領域につきもので、等しくない者の平等であるといえます。

等しくないからこそ、これらの人びとは、特定の目的のために「平等化」されます。

 

死の前の平等と神の前の平等については、平等化要因が必要ではありません。

なぜなら、すでに同一性(生と死)が支配しているからです。

 

<労働する動物>は、自分を際立たせる能力を欠き、活動と言論の能力を欠いているといえます。

 

労働者階級における二つの傾向としては、

①労働組合運動:次々と勝利を重ねてきた

②人民の政治的熱望:自分自身の要求を思いきって提出するたびに敗北してきた

このように考えられています。

 

労働者の事実上の解放として、公的領域への参加を認められ、公的に姿を現わしました。

だからといって、彼らが同時に社会に加わることが認められ、社会の重要な経済行動でなにか指導的役割を果たしたということではありません。

しかし、人間事象の領域にただ姿を現わし、自分を他人から区別し、自分を際立たせるだけでも、決定的な役割を果たしているとアーレントは述べています。

 

初期の労働運動のパトスは、社会全体にたいする闘争に起因するもので、比較的短期間のうちに、しかも非常な逆境のもとで、巨大な潜在的権力を獲得しました。

 

労働運動が公的舞台に現われたとき、それは、人びとがその中で社会のメンバーとしてではなく、人間として活動し語った唯一の組織でした。

ですが現代では、労働運動の政治的・革命的役割はどう見ても終わりに近づきつつあるといえます。

階級社会が大衆社会に代わり、日給や週休が保証つきの年休に変わるにつれて消滅しました。

 

今回は、このように活動について分析していました。

 

 

ディスカッションの時間は、本文にあった「出現の空間とはどのようなものか」という話から始まりました。空間といわれると部屋のようなものを想像するが、そうではなくアクティビティなのではないかという意見や、出現の場という表現のほうが適切なように感じるという意見があがりました。

また、本文の「権力は減ずることなく分割可能」というのは、具体的にどのような状況なのかという話や、

共生社会というワードに関連して、共生社会という言葉が聞こえている間は共生社会が実現されているとは言えない。最近よく耳にするSDGsという言葉も、世界から見ると日本だけで大きく発信されている言葉らしいというような、現代の問題に関連した話題にも広がっていきました。

 

今回は、特に難しかったです。権力と実力(暴力)と体力の関係性はジャンケンのようにも見えましたが、どれがグーなのか、パーなのかというところまでは理解できませんでした。

 

 

次回、第21回(奇数回)は、11月16日(火)10:30~12:00『人生の哲学』より、「第11章 幸福論の射程(その2) 幸福論の教え1」を扱います。レジュメ作成と報告は、哲学学校に初回から全て参加してくださっている和田さんが担当します。

第22回(偶数回)は、11月30日(火)10:30~12:00、ハンナ・アレントの『人間の条件』より「第5章 活動(31~34節)」(いつもと違い今回は4節分です)を扱います。

 

参加希望や、この活動に興味のある方は、下記案内ページより詳細をご確認ください。

皆さまのご参加をお待ちしております。

 

執筆:吉成亜実(みらいつくり研究所 リサーチフェロー兼ライター)

 

 

みらいつくり哲学学校オンラインについてはこちら↓

2021年度哲学学校のお知らせ

 

次回の報告はこちら