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21/10/27
2021年10月26日(火) 10:30~12:00、第19回となる「みらいつくり哲学学校オンライン」を開催しました。
奇数回は、渡邊二郎著『人生の哲学』を課題図書にしています。
今回取り扱ったのは、「第10章 幸福論の射程(その1) 老年と、幸福への問い」です。
レジュメ作成・報告は、哲学学校に初回から全て参加してくださっている和田さんが担当しました。
幸福ということが何を意味するにせよ、幸福について切実な思いを籠めて問いを発するのは、どのような状況においてであろうか、という問いからこの章は始まります。
若い時にも、幸福とは何かと問います。ですが、若い時の幸福への問いは、ほとんどが「人生をどのように生きたらよいのか」「いかに人生を生きるべきであるのか」といった『人間の生き方一般への問い』であることが多いです。
けれどもそれらは、定かには見通せない茫漠とした未来像にすぎぬことがほとんどであり、やがて人は、この世の中が思いどおりには運ばぬことを知らされ、容易ならぬ実人生の重みを実感するはずです。
そうした実人生の遍歴のさなか、やがて死の影の迫るときにこそ、人は改めて、ほんとうの意味で、「人生とは何か」「生きるとは何か」「幸福とは何か」と問わずにはいられなくなります。
幸福への問いが真剣に問われるのは、人生遍歴を経た老人においてこそであると言わねばならないように思う。と筆者は述べています。
幸福への問いは、まさにこうした実人生の労苦と不幸のただなかでこそ、初めて痛切な思いとともに立ち昇ってくると言えます。
カントは、「人はまずもって…立派な道徳的人生を築かねばならず、…神の授けたもう至福を望むことを許されうる」と説きました。
しかしその努力と精進の人生が、苦悩のみを送り届けてきたとき、人はどれほどの悲痛な叫びを上げなければならないのでしょうか。
それは、『旧約聖書』の「ヨブ記」が示すとおりで、「ヨブ記」には実人生の不条理のなかに立つ者の絶叫と苦悶が刻み残されているといいます。
人はみな熱烈に幸福を求めてやみませんが、「この地上では現実に幸福は見つからないものだと完全に確信した瞬間は、およそひとが経験する最も痛ましい瞬間である」とヒルティも述べているように、「”幸福”という言葉には、”ゆううつな”響きがある」と言えます。
つまり、幸福への問いは、ほんとうには不幸の境涯でのみ発せられ、そこには失われた、あるいは不在の幸福への嘆きが、隠されている。と筆者は述べます。
かつてダンテは「幸なくして幸在りし日をしのぶよりなほ大いなる苦患(なやみ)なし」(『神曲』)と歌いました。これは、幸福な人は、幸福への問いを発しないという意味です。
ヒルティは幸福への問いのうちには、自己の存在の根源を、見つめ直す苦しみが、秘められている。といっています。
「いつまで生きるのか知らない」し、「いつ死ぬのか知らない」し、「どこへ行くのか知らない」。こうして、「一切は空だ」との意識が迫ってきます。
死の影のもと、老いのなかで、幸福の問題を問い直すことは、哲学の永遠の課題であると言わねばなりません。
人生を振り返り、幸福について冷静に思いをめぐらし、生きる意味に関して思索しうる点にこそ、死の迫りくる老境の特権があるとさえ言えます。
「哲学の慰め」こそは、逆境と不遇における人生の支えとなりうるでしょう。
加えて、老成と知恵は、無関係ではありません。それは、年輪を経た円熟と、平静な熟慮の時でもあるからです。
こうした意味で、私たちはまず、幸福に関し思いをめぐらしうる最も大切な時期である老年について、まさに老年賛歌とも言うべきショーペンハウアーの見解に耳を傾けながら、老境の問題に一瞥を投じてみなければならない。と筆者は述べます。
ショーペンハウアーによれば、
子供の頃には「人生は、遠くから眺められた劇場の装飾のように見えてくる」もので、
青年期になると「欲求が目覚め、幸福を追求するが、容易には希望が叶えられないためほとんどの場合『不満足』」であると言えます。
ですが、人生も後半に入ると「すべての幸福はたわごとであり、これに反し、苦しみこそは現実のものである」という「認識」が、多少なりともはっきりとしてきます。
若者は「人間社会から捨てられた」と感じますが、年を取ると「人間社会から脱却した」と感じ、この世の中では何も得るものはないことを知るようになります。
老人は、どうにか我慢できる現在に満足し、ものにこだわらない態度をもち、たんに苦痛がなく、わずらわされない状態を好むようになるといいます。
それにも増して重要なのは、老年(人生の終わり頃)においてこそ、人生の認識が円熟してくるという点です。
「人生」は「刺繍した布地」に似ていると、ショーペンハウアーは述べています。
誰でも人生の前半においてはその表側を見、後半においてはその裏側を見ることになります。刺繍の裏側はあまり美しくはないけれども、教えるところは表側より大きいものです。
若いときには、自分たちの人生行路のなかで重要な出来事や人物は、太鼓やラッパの鳴りもの入りで登場すると思っています。しかし、年を取って回想してみると、重要な事件や大事な人物は、すべて、まったく静かに裏口から気づかれぬうちにそっと忍び込んできたことが分かると筆者は述べます。
また、このように「人生の終わり頃」になってようやく、自分自身の人生の「目標」を、世界や他者との連関において、ほんとうに「認識し、理解する」ようになれるそうです。
若者にとっては、「人生」は「無限に長い未来」であるのに対し、年を取ればとるほど、私たちは時間をますます惜しむようになります。人生の短さは、長生きしなければ分からないと言えます。
その反面、老年になると「退屈」は退散し、「苦痛を伴うもろもろの情熱」も黙り込み、「全体としての人生の重荷は、若い時よりも実際軽くなる」ようです。
ただし、そのためには「健康」が保たれていていなければならないし、何ほどかの貯えが必要です。
この二つの条件が保たれていれば、『老年は、人生のうちできわめて凌ぎやすい時期である』といえます。
老年になって初めて人は、自分で見てきたものに「豊かな意味、内実、信頼感」を与えることができるようになります。この意味で、「老年」こそは「哲学のための時期」だと言えます。
若者は、激情に引き摺りまわされて苦しむのが定めです。
それに引き代え、「冷静になった老年」には、激情はやみ「ものごとを観照する趣き」が備わってきます。それは、「認識」が多くなり、「幸福」になることです。
プラトンは、「老人は、それまで人を駆り立てた「性衝動」から解放されるから「幸福」だ」と述べました。筆者はこの考え方を肯定しています。
「老年は平静の時である」と言えます。こうして「すべては空である」という考え方によって、賢明さと、精神的落ち着きと、そこからくる幸福とを味わいます。
老年になると、「経験、認識、訓練、熟慮」によって
「正しい洞察」が増え、「判断」の磨きも加わり、ものごとの「連関」も明瞭となり、あらゆる事柄において「全体を総括する展望」を獲得するようになります。
「この世のすべての事物が空しいものであり、この世のあらゆる壮麗さが虚ろであること」を、人は直接的に正しく、しっかりと確信するようになります。
「老齢となってゆく者の根本特質は、迷妄から醒めていることである」。そして「きわめて高齢に達することがもたらしてくれる最大の利益は、安らかな死である」であり、そのとき人は、いわば、『死ぬのではなく、生きるのをやめるだけ』なのです。
ショーペンハウアーは、老年においてこそ人生の真相が見えて、諦めや達観、自足や円熟が得られ、人の世の幸福と不幸を公正に見渡しうる境涯が開けてくることを打ち明けています。
人生遍歴を経た老成の円熟期は、「老年は哲学の時であり、哲学の慰めの実る時である」と言えます。
筆者は幸福の意味について、
人は、良好な生活環境作りに、絶えざる注意と監視を怠ってはならず、「生きがいの追求」こそが、「幸福」を約束する鍵となると述べています。
しかし、前述の二つの幸福が、真の幸福を約束するかどうかには、疑問がつき纏うとし、最終的には、神によって嘉(よみ)せられてこそ人間は最高の至福に到達しうるであろうとして今回は締めくくられました。
ディスカッションでは、
まずはじめに本文で「幸福への問いが真剣に問われるのは、人生遍歴を経た老年においてこそである」というように書かれていた部分について、本当に老年にならなければ分からないのか?という疑問が多くあがりました。
その後、幸せの基準は何なのか?といった論点が挙がり、いつでも学び続けている人や楽しそうな人を幸せそうだと思うという意見や、様々なことを選択できる状態、人に何かを与えることができた時に幸せだと感じる人がいました。
幸せな人は幸せについて考えないという文から、「まさに今幸せとは何かを考えていて本文の内容が刺さった」という方や、「年を取ると諦められる、感性が鈍るから、そういう思いを持たなくなるのではないか」と言った分析もなされました。
このように、様々な角度から老いや幸せについて話し合うことができました。
最近、真剣に幸せとは何かを考えています。最近は猫を飼うことではないかと思いはじめています。
次回、第20回(偶数回)は、11月9日(火)10:30~12:00(急きょお休みになる可能性あり)、ハンナ・アレントの『人間の条件』より「第5章 活動(28~30節)」を扱います。
第21回(奇数回)は、11月16日(火)10:30~12:00『人生の哲学』より、「第11章 幸福論の射程(その2) 幸福論の教え1」を扱います。
レジュメ作成と報告は、哲学学校に初回から全て参加してくださっている和田さんが担当します。
参加希望や、この活動に興味のある方は、下記案内ページより詳細をご確認ください。
皆さまのご参加をお待ちしております。
執筆:吉成亜実(みらいつくり研究所 リサーチフェロー兼ライター)
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