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2021.10.21
2021年10月18日(火) 10:30~12:00、第18回となる「みらいつくり哲学学校オンライン」を開催しました。
偶数回は、ハンナ・アレント著, 清水速雄訳『人間の条件』を課題図書にしています。
今回取り扱ったのは、「第5章 活動(25~27節)」でした。
まずは25節の内容です。
言論者であり行為者である人間というのは、「正体(フー)」というものをはっきり示すとアーレントは述べます。
ですが、それは言葉で表現することは難しいものです。その人が「だれ」(who)であるかを述べようとする途端、わたしたちは語彙そのものによって彼が「なに」(what)であるかを述べる方向に迷い込んでしまうためです。
その結果、その人の特殊な唯一性というのを表現することが難しくなっています。
つまり、ある人物の生き生きとした本質を、言葉で定着させようとしてもできないということです。これは、人間事象の領域全体とも関係があると言えます。
活動と言論は暴露的性格を持っています。活動や言論を通して、その人の人格やアイデンティティが現れているということです。
活動と言論には以下のような特徴があります。
・人びとに向けられているので、人びとの間で進行する
・この物の世界とは、物理的に人びとの間にある
・この物の世界から、人びとの特定の客観的な世界的利害(インタレスト)が生じてくる
・この利害は、なにか「間にある」(inter-est)ものを形成する
活動と言論は、人びとの間にあって、人びとを関係づけ、人びとを結びつける何物かを形成するものであると考えられます。
活動と言論の過程では、結果や最終生産物をあとに残すことができません。
しかし、それが触知できないものであるにもかかわらず、この介在者は、私たちが共通して眼に見ている物の世界と同じリアリティをもっています。
わたしたちはこのリアリティを人間関係の「網の目(ウェブ)」と呼んでいます。
私たちが共通して眼に見ている物の世界と同じリアリティは、人間関係の「網の目」であると言えます。
言論による「正体」の暴露と活動による新しい「始まり」の開始は、常に、すでに存在している網の目の中で行われます。
言論と活動は、新しい過程を出発させます。この過程は、最終的には新参者(人間)のユニークな生涯の物語として現われていきます。
ただ、活動はほとんどその目的を達成しないといいます。人間関係の網の目の中では、無数の意志と意図が葛藤を引き起こしています。そのため、誰か特定の人の目標を達成することはない、ということです。
だれでも、活動と言論を通じて自分を人間世界の中に挿入しそれによってその生涯を始めます。
それにもかかわらず、だれ一人として自分自身の生涯の物語の作者あるいは生産者ではないとアーレントは述べています。
言論と活動を始めた人は、活動者であり受難者であるという意味で、物語の主体ではあるが、物語の作者ではありません。
生から死に至る個体の生命は最終的に、「始まり」と終わりをもつ物語として語ることができるといいます。
一連の出来事は全体としてユニークな意味を持つ物語を作り上げます。そしてこの行為者は、たしかにある場合に物語の主体である「主人公」であると言えます。ですが、「主人公」が物語の作者ではないという点に注意が必要です。
ですが、かつてプラトンは「舞台の背後の見えざる手(神)によって物語は書かれている」と考えていたそうです。
活動の結果である物語は、虚構の物語と混同されています。虚構の物語は作者を明らかにするものであり、虚構の物語は「作り上げられる」もので真実の物語は「作られるのではない」といいます。
真実(人間)の物語とは、私たちが生きている限り関与しているもので、いかなる作者をももっていません。この物語が暴露する「ある人(自分)」だけが主人公だといえます。
活動と言論を通じてそれを事後的に触知できるものにすることができる唯一の媒体、それが真の物語です。
その人がだれ(who)であり、だれであったかということがわかるのは、ただその人自身が主人公である物語(その人の伝記)を知る場合だけです。
「ドラマ」という単語は、ギリシア語の動詞「活動する」からきています。
ドラマが完全に生命を与えられるのは、それが劇場で演じられるときで、演劇というのは真実の物語を表現していると言えます。
物語の筋を再演する俳優と語り手だけが、物語そのものの意味、物語の中に姿を現わすと言えます。
ギリシア悲劇の物語の方向は、物語の普遍的意味とともに、合唱隊(コロス)によって明らかにされています。
次に26章の内容です。
活動は製作と違って、独居においてはまったく不可能です。
活動と言論は、行為の網の目と他人の言葉に取り囲まれ、そのような行為の網の目や他人の言葉と絶えず接触しています。
活動というものは、一人の人物が行う「始まり」から、人びとが大勢加わって、ある企てを「担い」、「終わらせ」、見通して、その企てを達成する過程があります。
創始者は指導者の役割を担っており、それはやがて支配者の役割に変化します。
活動は、一切の制限を解き放ち、一切の境界線を突破するという固有の傾向、際限のなさがあります。
人々の集まりとしての政治体にともなう制限や境界線として、
①無制限性
②不可予言性(アンプリディクタビリティ)
というものがあります。
製作の完成品を判断する光は、職人の眼が前もって知覚しているイメージやモデルによって与えられています。
一方で、活動の意味が完全に明らかになるのは、ようやくその活動が終わってからになります。
一体何事が起こったのかよく知っているのは、参加者よりも歴史家のほうであると言えます。
最後に27節です。
活動は非常にもろいものであると考えられます。それをギリシア人はどう解決していたのでしょうか。
結果を予言できないということと、活動と言論の暴露的性格には密接なつながりをもちます。
活動と言論によって人間は自己自身を暴露しますが、その人は自分が何者であるのか知らないし、いかなる「正体(who)」を暴露するか、前もって予測することもできません。
古代人の言葉に、「死ぬ前にはだれも幸福(エウダイモン)であるとはいわれない」というものがあります。
「幸福(エウダイモニア)」とは、
束の間の気分にすぎない喜び、人生の一定の期間に現われるだけでそれ以外のときには姿を消す幸運ではなく、
生命そのものと同じように、永続した状態を指します。
人格の不変のアイデンティティの特徴は、以下のようなものがあります。
・活動と言論の中に現われるが、触知できない
・触知できる実体として、そのアイデンティティが知られ、理解されるのは
、ようやく物語が終わってから
・人間の本質(正体)が現われるのは、生命がただ物語を残して去るときだけ
つまり、アイデンティティや「幸福(エウダイモニア)」は、自身の死後に他者から語られることによって初めてそれらが認められるものである。ということです。
トロイ戦争で活躍したアキレウスの物語も、物語作者、詩人、歴史家に依存していると言えます。
活動の脆さにたいするギリシア人の独創的で前哲学的な救済手段として、ポリスの創設があります。
人びとの共生(シュゼーン)を価値あるものにする「言葉と行為の共有」というギリシアの前ポリス的経験と評価から成長し、そこに依然として根をもっていました。
ポリスの二つの機能として
①本来なら家を去らなければめったに得られない異常な経験を、永続的に人びとに与えることができたし、もともとそれが目的で作られていた
これによって、「不死の名声」を獲得する機会をふやすものと考えられました。また、すべての人が自らを際立たせ、行為と言葉によって、他人と異なるユニークな自分の「正体(who)」を示す機会をふやすものと考えられました。
こうして、日常生活の平凡な出来事を異常なものにしていきました。
②活動と言論の空虚さを救う救済手段を与えること
名声に値する行為が忘れさられることなく「不死」となる機会は多くありませんでした。
ポリスとは、活動した人びとが自分たちの行った善い行為や悪い行為を、詩人たちの援助を受けることなく、永遠に記憶に留め、現在と将来にわたって称賛を呼びさますためのものだといえます。
ポリスという組織は、一種の組織された記憶で、死すべき活動者にある保証を与えます。
このことから、ポリスにおいては、リアリティが欠けていないと、アーレントは述べています。
ポリスは、ある一定の物理的場所を占める都市=国家ではなく、共に活動し、共に語ることから生まれる人びとの組織です。
活動と言論は、それに参加する人びとの間に空間を作ります。
この空間は、最も広い意味の出現(アピアランス)の空間であると言えます。
私が他人の眼に現われ、他人が私の眼に現われる空間であるということです。
すべての人が行為と言葉の能力をもっているにもかかわらず、ほとんどの人たちはこの空間に住んでいない。とアーレントは指摘します。
この空間を奪われることは、リアリティを奪われることに等しく、人間にとって世界のリアリティは、他人の存在によって、つまり他人の存在が万人に現われていることによって保証されるものです。
今回は、このように活動について分析していました。
ディスカッションの時間は、アイデンティティや「幸福(エウダイモニア)」についての話題がメインとなっていました。本文では、自身の死後に他者から語られることによって初めてそれらが認められるものである。という記述がありました。
「自身の死後に」「他者が語ることで」という2つのポイントで、「それは本当に死後でなければわからないのか?」「人目にさらされるというのが重要なポイントなのではないか」などといった疑問や感想があがりました。
なかでも、障害があり長期入院を経験したことのある参加者からは、「自分が死んだとき、周囲から勝手に私の人生を良いものだったと語られるのが嫌だと感じていた。皆さんは、他者に自分の人生を物語として語られることをどう考えるか」という話が出ました。参加者には医療職の方もおり、自身の考えや、医療職はそのように言いがちであるというような話がでました。
皆さんは、自分のアイデンティティは何か答えられますか? また、それを見つけたいと思いますか?
アーレントは、死後にならなければ分からないと言っていましたね。私にはよくわからないし、考えてもいません。
次回、第19回(奇数回)は、10月26日(火)10:30~12:00『人生の哲学』より、「第10章 幸福論の射程(その1) 老年と、幸福への問い」を扱います。レジュメ作成と報告は、哲学学校に初回から全て参加してくださっている和田さんが担当します。
第20回(偶数回)は、11月9日(火)10:30~12:00、ハンナ・アレントの『人間の条件』より「第5章 活動(28~30節)」を扱います。
参加希望や、この活動に興味のある方は、下記案内ページより詳細をご確認ください。
皆さまのご参加をお待ちしております。
執筆:吉成亜実(みらいつくり研究所 リサーチフェロー兼ライター)
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