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第17回 みらいつくり哲学学校 「第9章 自己と他者(その3) 他者認識と相互承認」開催報告

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21/10/8

2021年10月5日(火) 10:30~12:00、第17回となる「みらいつくり哲学学校オンライン」を開催しました。

 

奇数回は、渡邊二郎著『人生の哲学』を課題図書にしています。

今回取り扱ったのは、「第9章 自己と他者(その3) 他者認識と相互承認」です。

レジュメ作成・報告は、みらいつくり研究所 所長の土畠先生が担当しました。

 

私たちは世間的な共同存在のなかで、諸連関の交差点に立ながら、さまざまな役割を担って、複雑な対人関係を取り結びながら、生きています。

そうした自他の交渉連関のなかで、込み入った対人関係や、他者との心理的葛藤のなかに立たされ、人生の修羅場=この世の「地獄」とも言える対他関係の渦中に巻き込まれ苦悩することになる。

というような話を前回はしていました。

 

今回は、他者認識というところから自己と他者について見ていきます。

 

共有できない「痛み」というのは、両者を分かつ深淵が口を開いていることの証拠であるといえます。

こういった違いがあるということは、差異性とよばれています。

「他者認識」の可能性の問題は、他者との相互理解にもとづく交流の可能性の根拠への問いにほかならなりません。

 

他者認識について深めるため、筆者はまずディルタイとフッサールという哲学者の文献を引用します。

 

ディルタイは、自分の「体験」を必ずなんらかの形で「表現」すると述べています。

その表現を通して、他者の「内的なもの」を追体験的に捉え直すことを行っています。

 

外的表現と私との間には、内面化の働きが活性化し始め、ひとごとならぬ「ひとつの生関係」が成立します。

それの最たるものが文献や文書で、生の了解の最も重要な手段であるといえます。

 

ここで筆者はいくつかの疑問点をあげます。

①自己と他者とを最初から「同一」の人間性においてあるものと前提しかかっているのではないか

②他者の内的なものは、追体験することが可能なのか?

③自己と他者との共通性と差異性はどこにあるのか?

④ディルタイの他者認識はあまりにも「心理学」的ではないか?

⑤「了解」や「解釈」の作用を、学問論から離れて、人間のあり方そのもののうちから捉え直す必要があるのでは?

 

一方フッサールは、感情移入ということを主にとらえました。

フッサールの考えの出発点としては、私と同じく「主体」として働く他者が捉えられねばならないとしています。

これを「第二の自我」ととらえ、「他我」がいかに構成されるのかを明らかにしなければならないと述べています。

 

ここからは、いくつかの用語について紹介します。

・「対化」=「類比的統覚」:他者を私とよく似た身体をもったものとして捉えること

・共現前化:「共にそこに存在している」はずのものを「表象可能にする」働き

 

これらのことから他者を、「第二の自我」、「私自身の類比物」、「私の自己の変容」などとも捉えられるといいます。

 

とは言え、私はあくまでも「ここ」におり、他者は「あそこ」にいる。他者を自らの同質のものとしてとらえるのは難しいのではないかと、筆者は疑問を呈しています。

 

ここで考えなければならないのは、他者の異質性というものです。

 

ディルタイ:追体験的な了解や解釈

フッサール:対化や共現前化による感情移入的な他者認識

⇒どちらも、自己から発し他者へと向かってその意味転移を拡大して、自分と異質の他者をも同一ないし共通の枠組のなかに引き入れて、これを類比的に共感し直すという「自己拡張的」な他者認識であるといえます。

 

他者から発して自己へと向かって、他者が強烈に入り込んできて、自己はその他者に取りつかれ、自分がすっかり失われ、自己のなかに他者が乗り移ってきて、自己がその他者になり変わってしまうような「他者癒合的」な、憑依に近い没我の対他関係もまた存在するのではないか?という疑問も生まれます。

 

そのように自己が他者へと、他者が自己へと変身し、自他の境界が曖昧となる癒合があります。

 

現在の私のうちには、いまの自分の眼から見れば自分自身とは思えないような「過去」の異質の「変容」しきった私自身が、「想起」の形で生き続けているとフッサールは述べてます。

 

この他、フッサールは時間と他者として

・異質な過去の自己を現在へと統合しながら、いわば自己を時間のなかで繰り広げる「自己時間化」のありさまで自分を構成している

・私は「自己疎外」によって、私自身のうちに、他者が「一緒に現前」するようにされうる

・他者との「感情移入」=「高次の段階」での「現在を越え出てゆく」働き

 

ということも述べています。

 

フランスの現象学者メルロ=ポンティ『幼児の対人関係』の中で、幼児の反応や自他の分離について見ています。

 

幼児は、自分と他者の身体を同一視しています。そこから成長して「他者知覚」に至ります。

鏡像(鏡に映る自分の姿を知覚すること)の習得と並行して、幼児には、他者と自己とを癒着させる融合的な共同性(癒合的社会性)が活発になってきます。

他者と自己とを癒着させる融合的な共同性は、大人でもあると言います。

 

例えば嫉妬です。嫉妬は自己と他者の未分化であり、自分も他人と同じようになりたいというジレンマの中で、大人になっても他者と癒合しているということがあります。

 

また心理的な硬さとして、 物事を白黒はっきり両極端に判断するということも、「両義性」が欠如している状態であると言えます。これは、自分の中にある葛藤や矛盾を見つめるということをしないで、 他の人に転嫁している状況です。

 

メルロ=ポンティは、身体というものを大事にしていました。

自己と他者とは連続した共通の身体性ということは、間(共同)身体性を生きているということになります。

 

次に、エマニュエル・レヴィナスを引用します。

共同性ではなく他者との直面として、

 

・「他者との根源的関係を表すべきものは前置詞の「共に」ではない」

・媒介する者もなしに、絶対的な断絶を含みつつ、「我と汝」とが「面と向かって相対峙するあり方」こそが真の対他関係

 

そこには、調和的共同性を打ち破る、他者の他者性の深淵が口を開いている。というように述べています。

 

また、レヴィナスは孤独について、「私たちが存在し実存しているときそこには「孤独」が染みついている」と言っています。

孤独の影を背負った「存在から脱け出すこと」は可能なのかという疑問を持ちます。

伝統的には、知や認識の作用によって克服されうると考えられてきました。

 

その哲学が基盤に置いた理性は、ただ、認識の首尾一貫した「自己同一的なもの」のなかにとどまり、すべてを自己へと「同化」していたにすぎないのではないかと考えます。

 

レヴィナスは死について、

・「苦悩」を介して「死」と関係するに至った「存在」のみが、「他者との関係が可能となる場面に身を置く」

・死はけっして現在ではなく、死への私たちの関係は「未来への独自な関係」

ととらえています。

 

死は引き受けることはできませんが、死と違って、私たちが「引き受ける」未知の、神秘な、未来としての他者が存在しています。

 

他人と面と向かって相対峙し、ある顔貌と出会うといいます。

面と向かって相対峙するあり方という状況こそは、時間の実現そのものです。

 

責任というものについて考える時、「他人に対する責任」が重要で、つまり他者の「顔貌」に接することであるといえます。

他者の「顔貌」に接することは、「思惟」に取り込めぬ「汝」と出会うことです。

そこから、「汝、殺すなかれ」という「倫理的要求」を聴き取り、応答し、責任を取ることが生まれてきます。

 

レヴィナスは、『全体性と無限』(1961年)の中で

・「顔貌の接近のなかには、神の観念への接近もまた確かにある」

・知の「全体性」を拒み、他者との出会いのなかから神という「無限者」と向き合う

ということを述べていました。

 

ここまで自己と他者について考えてきましたが、自己と他者は、人生の究極において、自分の「良心」に照らして、絶対の真実と信ずる道を歩まねばならず、ついには袂を分かち、相互に敵対する関係に陥ることが多いといいます。

 

ヘーゲルは『精神の現象学』で、「精神」の章の最後で「良心」論について書いています。

良心には、行動する良心と批評する良心の2つがあるといいます。

行動する良心は、自己確信にもとづいて自分が絶対的真理だと思う行動に直ちに踏み出すもので、

批評する良心は、普遍性を重視するものといえます。

「批評する良心」にとっては「行動する良心」は「悪」「偽善」となります。

この対立と葛藤は、最終的には和解と宥和するものであると述べます。

 

二つの良心が、自己に固執することをやめ、赦し合うことで、「相互承認」が成立します。

 

今回はこのような内容でした。

 

ディスカッションでは、本文で登場したメルロ=ポンティの『幼児の対人関係』に関連した内容が多く語られていました。

子育てを経験している参加者から、「本文には赤ちゃんは人が笑っている様子を見て笑顔になっているとあったが、マスクをして笑うと子どもも笑う。目を見て判断しているのか?」「障害のある長男は、笑顔や声掛けに対して笑顔が返ってくることはなかった。そこで、自分とは異なる存在だと気づき、その子やその後生まれた子との向き合い方を考えるようになった」「自分とは異なる性格の子供とのかかわり方について」などの話がありました。

そこから、親子関係で悩んでいる参加者の話や、他者との関わり方などの話にも広がっていきました。

 

次に出てきたのは、本文にも出てきた「共に」という部分についてです。本文では「共に」というあり方は、他者との根源的関係を表すべきものではないとありました。その部分について、参加者はどのように考えているか? という話題にもなりました。

また、過去、現在、未来の自分は同じ自分なのか?という問いもでました。過去の自分と今の自分は全く違うと感じている人もいれば、同じ自分だと感じている人もいました。

 

 

自分と他人との関わりについては、恐らく誰もが一度は悩みを持つものかと思います。哲学的にその問いについて考えてみると、新しい見方もできるかもしれませんね。

 

 

 

次回、第18回(偶数回)は、10月19日(火)10:30~12:00、ハンナ・アレントの『人間の条件』より「第5章 活動(25~27節)」を扱います。

第19回(奇数回)は、10月26日(火)10:30~12:00『人生の哲学』より、「第10章 幸福論の射程(その1) 老年と、幸福への問い」を扱います。

レジュメ作成と報告は、哲学学校に初回から全て参加してくださっている和田さんが担当します。

 

10月12日(火)10:30~12:00からは、「360分de読む 100分de名著」という番外編が開催されます。

番外編の課題図書は、『NHK100分de名著 カール・マルクス『資本論』 2021年 1月』です。

詳細は、こちらのページをご覧ください。

 

 

参加希望や、この活動に興味のある方は、下記案内ページより詳細をご確認ください。

皆さまのご参加をお待ちしております。

 

執筆:吉成亜実(みらいつくり研究所 リサーチフェロー兼ライター)

 

 

 

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