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第26回 みらいつくり哲学学校 「第6章 <活動的生活>と近代(38~40節)」開催報告

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2022.1.12

 

2022年1月11日(火) 10:30~12:00、第26回となる「みらいつくり哲学学校オンライン」を開催しました。

 

偶数回は、ハンナ・アレント著, 清水速雄訳『人間の条件』を課題図書にしています。

 

今回取り扱ったのは、「第6章 <活動的生活>と近代(38~40節)」でした。

 

まずは38節の内容です。

近代哲学は、デカルトの「すべてを疑うべし」という懐疑で始まりました。

懐疑は、近代の哲学と思想において中心的地位を占めており、近代以前のギリシア人は「驚き」が中心だったのと対照的です。

 

デカルト以降、懐疑がすべての思想を動かす原動力となりました。また、ガリレオの発見(望遠鏡)が実際に物理的な世界観を変えたともいえます。

これらの新しい知識は、製作する<工作人>が積極的に割り込んできた結果得られた物とも言えます。

 

それ以前人間は、自分が肉体と精神の眼で眺めたものに忠実でありさえすれば、リアリティと真理は、おのずから感覚と理性にその姿を現わすであろうと信じていたが、結局、その間、人間はずっと欺かれていました。

 

真理にしろリアリティにしろ、与えられるものではなく、いずれもそのままの姿では現われず、むしろ現象に干渉したり、現象を取り除くことによって、ようやく真の知識が得られるかもしれないということだったからです。

 

理性と理性への信仰は、ただ一つの感覚知覚に依存しているのではなく、共通感覚(常識・コモンセンス)という第六番目の最高の感覚によって結びつけられ支配された五感全体こそ、人間をその周りのリアリティに適合させるものであるということをはっきり仮定してはじめて成り立つものです。

 

デカルト的懐疑の特徴は、普遍的性格として、思考も経験も一切のものがこの懐疑を免れえないといいます。

キルケゴールは理性からではなく、懐疑から信仰へ跳躍しました。これにより、近代宗教の中心部に懐疑が持ち込まれました。

 

真理にかんする伝統的概念として、真に存在するものはそれ自身に従って現われ、人間能力はそれを認めるのに十分であるという二重の仮定にもとづいていることが明らかにされました。

真理が自ら現われるというのは、古代の異教徒とヘブライ人、さらにキリスト教哲学と世俗哲学に共通した信条でした。

 

新しい近代哲学が非常に激しく、憎しみをもっているのではないかと思われるほど激しく、伝統に反対し、ルネッサンスによる熱烈な古代の復活と再発見を容赦なく攻撃したのはこのためです。

 

デカルト的懐疑の発見は、単に存在と現象をはっきりと分離しただけでなく、それよりももっと悲惨なことに、世界と宇宙にたいする人間の信頼に大打撃を与えました。

 

人間の感覚が知覚するものはすべて眼に見えない秘密の力によってもたらされます。この秘密の力は、ある一定の装置や工夫に富む器具によって発見されるというよりむしろ活動中を捕らえられるものです。

 

この著しく効力をもつ存在をいくら暴露してみても、それは単に幻覚にすぎず、その現象から引き出される結論は幻想にすぎないということが明らかになります。

 

デカルトの哲学にとりつく二つの悪夢として、以下が挙げられています。

①人間生活のリアリティと同時に世界のリアリティが疑われている

②人間は自分の感覚と理性を信じることはできないという新しい発見によって明らかにされた

 

デカルト的懐疑の結果、確実性の問題というものが起こってきました。例えば、宗教で失われたものとして、救済や来世にたいする信仰ではなく「救済の確かさ」があげられます。

これはすべてのプロテスタント諸国で起こりました。救済の確かさが失われた結果、誠実さを求める新しい前例のない熱狂が生まれました。

 

それに伴い、近代の初頭には道徳の基準は根本的に変化し始めました。

この変化は近代の最も重要な人間集団である新しい科学者たちの必要と理想によって促されたものです。

イギリスでは、学会と王立アカデミーが道徳的影響力をもつ中心となりました。

そこにいる科学者たちが、実験と器具によって自然を罠にかけ、自然が無理やりにでもその秘密を洩らすような方法と手段を発見するために組織されていました。

 

以前、真理は「理論(セオリー)」[観照]の中にありました。

「理論」というのは、ギリシア人以来、自分の眼の前で展開するリアリティに関心をもち、そのリアリティを眺める人の観照という意味でした。

近代では、成功の問題がそれに取って代わり、理論の実験が「実践的」問題になりました。

その実験が有効か、有効でないか、ということが問題になり、理論は仮説となり、仮説の成功が真理となって行きました。

 

普遍的懐疑のデカルト的解決として、真理から誠実さへ、リアリティから確かさへの転換が起こりました。

 

 

次に39章の内容です。

 

内省とは、自分の魂や肉体の状態にたいする人間精神の反省ではなく、意識の意識そのものの内容にたいする純粋に認識的な関心です。

 

近代哲学では、人間は、ただ自分自身とのみ係わり合うということを、内省の中で確かめていました。

自然科学によって、人間は自分以外のなにかと出会い、それを知り、理解できるかどうか、疑い始めました。

 

デカルトは、内省という彼の新しい方法によって得られる確実性は「われあり」の確実性だと信じました。

意識の純粋な働きは感覚と理性に与えられる世界のリアリティを確かめることはできないが、感覚作用と推理のリアリティ、つまり、精神の内部で進行している過程のリアリティは、疑いもなく確証することができるとデカルトは述べました。

 

デカルトとライプニッツは、神の存在ではなく神の善性を証明する必要がありました。(弁神論)

その中で「欺く神」という、神が誠実かどうか考えるという概念がうまれました。

 

デカルト的内省は、巧みな解決法であり、この哲学は、近代の精神的・知的発展に非常に重要なものとなりました。この哲学は、

①世界の物をすべて意識の流れと意識過程に浸してしまう手段として、非リアリティの悪夢を用いた

②普遍的懐疑を防いで確かさを得ようとするデカルト的方法は、新しい物理学から引き出された最も明白な結論と完全に一致していた

 

デカルト的理性は、次のような「暗黙の仮定」にしっかりと支えられています。

「精神は、精神が生み出し、ある意味で、精神の内部に留まっているものだけを知ることができる」

デカルト的理性の最高の理想は、近代が理解しているような数学的知識(精神が生み出す形式)だと言えます。

 

共通感覚とは、かつては、まったく私的な感覚作用をもつにすぎない他のすべての感覚を共通世界に適合させていた感覚でした。この共通感覚は、今や、世界となんの関係もない内部的能力になりました。

 

ホッブズ、デカルトは、理性を「結果を計算に入れるもの」と考えました。<理性的動物> というのは、<「結果を計算する」ことのできる動物>ということもできます。

 

アルキメデスの点の発見に含まれている難問として、人間は、その宇宙的な世界観を自分の現実の環境に適用しようとした途端、自分が、単にこれまでと変わっているばかりか逆さまにさえなっている世界に住んでいることに気づきました。

 

この問題を、デカルトは次のように解決しようとしました。

①アルキメデスの点を人間自身の内部に移し、最終的な引証点として人間精神そのもののパターンを選ぶ

②それによって人間精神に、精神自身の産物である数学的定式の枠内でリアリティと確かさを保証する

③ここで周知の「科学を数学に還元すること」によって、感覚的に与えられるものは、数学方程式の体系に置き代えられ、すべての現実的関係は、人工的なシンボル間の論理的関係に解体される

 

近代科学が観察したいと願う現象や対象物を「生産するという任務」を果たすことができるのは、この置き代えによります。

 

最後に40節の内容です。

 

デカルトは、アルキメデスの点を人間精神の内部に移動させました。

これにより、人間はどこに行こうと、アルキメデスの点を自分自身の内部にしまって持ち歩くことができるようになりました。したがって、地球の住人であるという人間の条件から、まったく自由にはなったと言えます。

 

今日、最大の勝利感に酔っているはずの自然科学者に突きつけられた難問の中に、近代の初めから哲学者を悩ませてきたのと同じ悪夢が見られます。

①質量とエネルギーの方程式のような数学的方程式は、もともとは、ただ現象を説明するためのものであり、いろいろに説明できる観察可能な事実と一致するものであった

②非ユークリッド数学の体系は、もともと、それが応用できるものだとか、経験的に意味を持つものだとか、そんな考慮は一切なしに発見されたもの

 

「このような応用の可能性は、すべてのものに開かれており、純粋数学から最も縁遠い構成物にさえ開かれているにちがいない」という結論も出てきます。

 

近代以降の私たちの物理的世界観として、存在は、まったく秘密に満ちていて、けっして姿を現わさないものでした。その一方で存在は、極めて強力で、すべての現象を生み出す物でもありました。

 

私たちはこのような存在の最後の秘密をつかまえるために、器具による感覚的経験さえ含め、すべての感覚的経験を超え、現象を超越しようとします。そうすると必ず、同じパターンが極大宇宙と極小宇宙の両方を同じように支配しており、器具に現われる表示は、いずれも同じであるのがわかります。

 

しかし、私たちの発見したものは極大宇宙にも極小宇宙にも関係がなく、私たちの扱っているのは、ただ、私たち自身の精神のパターンにすぎないのではないかという疑いにとらわれてしまいます。

 

デカルト的懐疑は、論理的にはガリレオの発見の最もありうべき結果です。

しかし、物理学が数学化され、知るための感覚が絶対的に放棄されたために、最終段階に至って、意外な、しかし十分考えられる結果が現われました。

人間が自然に問いかける問題はいずれも数学的パターンに転換されて答えが戻ってきますが、このような数学的パターンにたいしてはどんなモデルも適切ではありません。(モデルというものは、人間の感覚的経験にならって作られなければならないから)

 

この点で、人間の条件に固有の、思考と感覚的経験の結合が、復讐しているとアーレントは述べています。

 

テクノロジーは、近代科学の最も抽象的な概念が「真理」であることを立証しています。

しかし、それが立証しているのは、人間は常に人間精神の結果を応用することができるということです。

自然現象を説明するためにどのような体系を用いようと、人間は常にそれを製作と活動の指導原理として採用することができるということ、これだけです。

 

近代科学と近代数学における悪循環としては以下のようなものがあります。

①科学者はまず実験を準備するために仮説を立てる

②その仮説を実証するためにこの実験を用いる

このような企て全体を通じて、科学者は明らかに仮説的な自然を扱っていることが分かります。

 

実験の世界では、常に人工的なリアリティとなりうるようにみえます。

そのために、製作し活動する人間の力、世界さえ創造する人間の力は増大しました。しかし残念なことに、そのおかげで今ふたたび人間は、以前よりもっと強力に自分自身の精神の牢獄の中に閉じ込められ、人間自身が作り出したパターンの枠の中に閉じ込められている。とアーレントは述べています。

 

現代科学が扱っている宇宙は、表現することのできないもので、今や、このような物質的な物さえ、非物質的な「物」と同じように「想像不可能」だということが言えます。

感覚的に与えられる世界の消滅とともに、超越的世界も消滅し、それと同時に、概念と思考を用いて物質的世界を超越する可能性も消え失せます。

 

デカルトの普遍的懐疑は、今や、物理学そのものの中心部に達しました。

問題は、この物理的宇宙が、純粋に推理してみても、想像することもできず、考えることもできないものであるということです。

それが明らかになったとき、人間の精神内部への逃亡は完結するとして、今回の内容は終わりました。

 

 

ディスカッションの時間は、まず初めに今回の内容全般についての感想があがりました。

今回はアーレントなりの哲学史のようなもので、アーレントの引用していたデカルトは、デカルトの本来伝えたい内容ではなかったのではないかというものや、

共通感覚や内省と言った用語も出ていたことから、今回は参加されなかった心理士をされている参加者から心理学的な目線での話も聞きたかったという声がありました。

その後は、共通感覚というキーワードについて掘り下げました。

古代に使われていた意味での共通感覚と現在の共通感覚の意味の違いについての話題や、

空はなぜ青いのかというような問いから、青も人によりとらえ方が異なり、共通感覚をどのように捉えていくのかという話題などに広がりを見せました。

 

絵を描くことが好きな私は、昔空の絵を描いた際に「私にはこの色に見えていて、これが綺麗だと感じているが、人によって色の見え方は異なるはずだ。何を持って綺麗とするのだろうか?」と、一人考えていました。まさか数年後に、同じような話題でこうして話すことになるとは思いませんでした。

 

 

次回、第27回(奇数回)は、2022年1月18日(火)10:30~12:00『人生の哲学』より、「第14章生きがいへの問い(その2)時代の現実のなかで」を扱います。レジュメ作成と報告は、みらいつくり研究所 リサーチフェロー兼ライターの吉成が担当します。

第28回(偶数回)は、2022年1月25日(火)10:30~12:00、ハンナ・アレントの『人間の条件』より「第6章 <活動的生活>と近代(41~43節)」を扱います。

 

参加希望や、この活動に興味のある方は、下記案内ページより詳細をご確認ください。

皆さまのご参加をお待ちしております。

 

執筆:吉成亜実(みらいつくり研究所 リサーチフェロー兼ライター)

 

 

 

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