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第36回みらいつくり読書会_開催報告

古典を読む。
世界を旅する。
みらいをつくる。

 

第36回みらいつくり読書会を開催しました。

【日時】
2021年11月8日(月)16:00〜17:00
【課題図書】
スコット・フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』
【参加者】
6名(うちラジオ参加3名)
【板書記録】

アメリカ文学第6弾はフィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』でした。
ああ、もやもやする。
読み終えて数週間が経ちましたが、いまだにもやもやしています。


作品中に出てくる「色」が印象的です。
家柄としても職業としても「伝統」的なトムが乗る車は「青色」ですが、「虚構」的で成り上がりのギャツビーの乗る車は「黄色」です。
トムを含めた伝統的な人々が暮らす場所はイーストエッグ、そして成り上がった人々、ギャツビーが住んでいる場所はイーストエッグです。
イーストエッグにあるトムの家にある「緑色」の灯りを、ギャツビーは湾を挟んで向かい側のウェストエッグから見つめています。

「灰色の土地」には、エックルバーグ博士が描かれた看板があります。「神の目」として描かれたその看板のエックルバーグ博士は、「青色」の目をしており、「黄色」のメガネをかけています。

ギャツビーは、過去を捨てて、デイジーに出会います。その出会いについて第八章にはこう描写されています。

「ジェイ・ギャツビーとしての未来がいかに輝かしいものであれ、現在の彼は語るべき過去を持たぬ文無しの青年であり、軍服という魔法のマントはいつその肩からすべり落ちてしまうかもしれないのだ。」p.268,『グレート・ギャツビー』村上訳,中央公論新社

この物語において、「過去」「現在」「未来」も重要な鍵概念です。

まだなんともすっきりしません。
それでも、「色」を頼りにしながら、現段階での「読み」を記録しておこうと思います。

戦争や、禁酒法などの国策、発展していく都市と一層寂れていく地方に暮らす人々の間に生まれる格差。
そんな時代のうねりの中で、「伝統」と「そうでないもの」に溝ができる。過去を捨て、虚構の上に未来を築こうとしたギャツビーの哀しみは、その純粋さゆえだったようにも思います。

最後に、ニックは、ギャツビーがデイジーの桟橋の先端に「緑色」の灯火を見つけた姿を想像し、かつての船乗りが新世界としてアメリカ大陸の鮮やかな「緑」を発見した様子と重ねながら、ギャツビーに思いを馳せます。

「緑の灯火」とは「未来」であるとニックは言います。

「ギャツビーは緑の灯火を信じていた。年を追うごとに我々の前からどんどん遠のいていく、陶酔に満ちた未来を。それはあのとき我々の手からすり抜けていった。」p.325,前掲

そして続けます。

「でもまだ大丈夫。明日はもっと速く走ろう。両腕をもっと先まで差し出そう。…そうすればある晴れた朝にー」p.325,前掲

本書の最後の一文は以下のように書かれています。

「だからこそ我々は、前へ前へと進み続けるのだ。流れに立ち向かうボートのように、絶え間なく過去へと押し戻されながらも。」p.326,前掲

「青色」で表された伝統と、対比される「黄色」で示された伝統ではないもの。

(「伝統」と対置されるのは本来「革新」であるように思いますが、本作においてそれが当てはまるかはわかりません。)

そして「緑色」は「青色」と「黄色」の中間色です。
ギャツビーは、緑の灯火を信じていました。
でも、それは、我々の手からはすり抜けてしまう「未来」でした。
中間色の「緑色」で示された「希望」「未来」を純粋に見つめるギャツビーに、語り手であるニックは、そして読み手である私は憧れるのかもしれません。

ここまで書いてもまだモヤモヤは残ったままです。
33歳の私はこんな読み方をしました。
「みらい」の「私」はどんな読みをするのでしょうか。
私たちはずっと一つの作品にとどまってはいられません。
『グレート・ギャツビー』に限らず、各作品を、また今度、二度目に訪れる旅先として期待しつつ、「世界文学の旅」を続けようと思います。

みらいつくり研究所 松井

【事務局】
みらいつくり研究所 松井
(matsui-ka@kjnet.onmicrosoft.com)

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