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第35回みらいつくり読書会_開催報告

古典を読む。
世界を旅する。
みらいをつくる。

 

第35回みらいつくり読書会を開催しました。

【日時】
2021年10月25日(月)16:00〜17:00
【課題図書】
J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』
【参加者】
6名(うちラジオ参加3名)
【板書記録】

アメリカ文学第5弾はJ.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』。
「らい麦畑でつかまえて」という日本語訳タイトルを耳にしたことのある人も多いのではないでしょうか。

私は、高校生の頃にこの作品を一度読んだことがありました。
今回、改めてこの作品を手に取ってみて、33歳になった私は、昔読んだことは覚えていても、何が書かれていたのかについては全く覚えてはいませんでした。
10代だった私は、「わけのわからない」物語の展開に戸惑いながら、作者が何を言いたいのかを想像することができずに読み終えたのだと思います。

改めて本作を読んでみると、25年前とは全く違う印象を受けました。
主人公ホールデンが抱く社会に対する反発心とその裏側にある傷つきやすさ。
それらに、10代の頃の私は共感することができなかったはずなのに、今ではその危うさを尊いとすら思うようになっていました。

作品は変わっていません。変わったのは私自身なのだと思います。

最近、「なぜ世界文学を読んでいるのだろう」と考えることがあります。

暇だから?
みらいつくり大学の活動だから?
「文学」が自分にとっての「救済」だから?

どれもすっきりしません。
「暇」なんて実感はないし、みらいつくり大学の活動だから読んでいると言い切るのには抵抗があります。

しかし、『絶望読書』の頭木さんのように、「文学が自分にとっての慰めであり励ましである」というほど、生命をかけて読んでいるかというとそうでもないような気がします。

去年の今頃だったでしょうか。
私は「何を批判しようとしたのか」と考えながら作品を読むと楽しいことに気がつきました。
それ以来、その視点は読書をする際に不可欠なものとなりました。

しかし、最近「何を批判しようとしたのか」だけでは捉えきれない何かがあることに気がつき始めています。
「作者本人も無意識に行った何かがある」と言えばよいのでしょうか。
「『作者』がどう書いたかだけではなく『私』がどう読むかも大切だ」と言えばよいのでしょうか。
まだ言葉にできませんが、この先にある何かが、私が文学を読む理由につながっているような気がしています。

あ、読書会の報告ではなく、雑記になってしまった…?
でもサリンジャーと無関係ではないような気がしています。
(ちょっと強引すぎるかな…?)
 

【事務局】
みらいつくり研究所 松井
(matsui-ka@kjnet.onmicrosoft.com)

*ラジオ参加も大歓迎!
「ちょっと議論には加われない」「その時間は作業しているから」
そんなみなさんにおすすめの「ラジオ参加」。
zoomのカメラをオフにして、ラジオみたいに聞き流す。
そんな「学び」があっていい。そんな「参加」があっていい。
興味のある方はぜひ事務局にお問い合わせください。