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第9回 みらいつくり哲学学校 「第5章 愛の深さ(その2)葛藤を秘めた人間」開催報告

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21/6/24

 

2021年6月22日(火) 10:30~12:00、第9回となる「みらいつくり哲学学校オンライン」を開催しました。

奇数回は、渡邊二郎著『人生の哲学』を課題図書にしています。
今回取り扱ったのは、「第5章 愛の深さ(その2)葛藤を秘めた人間」です。
レジュメ作成・報告は、みらいつくり研究所 学びのディレクターの松井翔惟が担当しました。

この章では更に、愛について掘り下げていきます。

 

まずはじめに、筆者は愛の心の広さとして、「私たちの愛の心の及ぶ範囲は広く、その対象には果てしがない」と述べます。

そして、私たちの愛の思いが深ければ深いほど、私たちの思い通りにはならない人生の厳しい現実は、苦痛と悲愁を私たちの内に生み出します。

 

「愛」という字の成り立ちを見てみると、「心が強く打たれて息が詰まるような思いになり」「元気のない足どりで静かに行くこと」というような、人間の切なく悩む心のあり方が、深く刻み込まれていることがわかります。
また、ニーチェも「愛には苦悩がつき纏う」と言っています。

 

こうしたことから筆者は、愛という現象は「明るく朗らかな、希望にみちた、軽快な振る舞い」を想像しがちですが、それは、幼稚な錯覚である。と言います。

 

また、ドイツの文豪ゲーテは『ファウスト』のなかで、人間のうちには「二つの魂」が住んでいて、人間はその間で引き裂かれ、その葛藤の焔の燃え滾る苦しみから救い出されることを望みつつ、容易にはそれを果たしえないという現実を、有名な詩句で歌っています。

 

ゲーテと同時代に生きた哲学者シェリングも、人間が野生の活力にみちた「我意」と、我を放棄した無心の「愛」との間に引き裂かれた存在者であることを語っています。

 

シェリングの考え方によれば、人間のあり方の最も深い根底には、「情念」が熱い焔を燃え滾らせており、
次にその上に、それが意識化された欲望の形で意思となって現れて「精神」の次元を構成し、
最後に、その上に、人間のうちの本当に善いあり方である愛の「心」が花開くとされています。

 

この3つのあり方の中には、さらに3つのあり方が存在します。

「情念」は、感情・憧憬・欲望

「精神」は、我意・意思・悟性

「心」は、
・「憧憬」と「我意」に働きを及ぼすと、「芸術と詩歌」が生まれる
・「感情」と「悟性」に働きを向けると、「哲学」が生じ、そのとき「高次の心に服従した悟性」である「理性」が目覚める
・「欲望」と「意志」に関係して働くと、「道徳」が生まれる
・「心」がまったく純粋に、いっさいの関係なしに働くと、そこに、「愛」の本質が発揮された「宗教」の領域が成り立ってくる

 

このようなシェリングの思想には、激しい「我欲」と、神々しい「愛」との間に引き裂かれた、葛藤にみちた悩み多き人間の姿が見事に活写されていると、筆者は述べます。

 

この辺りは、報告者の松井さんが表にまとめてくれています。
興味のある方は、メンバーページ(※要登録 https://futurecreating.net/#member)からご確認ください。

 

次に愛を、スウェーデンの神学者ニーグレンの「アガペー」と「エロース」の対比を切り口に考えてみます。

 

ニーグレンは著書『アガペーとエロース』で、「キリスト教の愛」は、本質的に「アガペー」であり、それはギリシアのプラトンに発する「エロース」としての愛とは根本的に「対立」し、かつ「相違」すると見て、両者の「混同」を戒め、両者の峻別を厳しく説きました。

 

ニーグレンによると、アガペー的愛に対立するエロース的愛が、「感覚的な愛」ではなく、「最も洗練された精神的な形」のエロースとして受け取られています。

言い換えれば、エロースとは、人間の魂が、精神の高みに登ろうとしてなす、最高の憧れや努力や熱意の意味と解せられています。

 

ですが、このように高尚で気高い理想や価値を目指して努力するエロース的愛でさえも、その限界があります。それはキリスト教的なアガペー的愛の深さには及ばないとニーグレンは述べます。

 

エロースとアガペーとの対立の根本にあるのは、「人間中心的な人生・世界観」と、「神中心的な人生・世界観」との対立です。

 

ニーグレンの「アガペー」理解の具体は「神を愛し、隣人を愛する」というキリスト教の言葉から始まり、この言葉がイエスによって説かれたときの、まったく新たな「アガペーのキリスト教的な観念」こそが肝要であるとされます。

 

そのときに、「人間の神に対する新しい関係」、「神との交わりの新しい道」が提起されました。

 

ニーグレンは「神から愛される人々が、どれほど神の愛に値するかということは、問題になら」ず、愛に関しては、「愛することが神の本性」なのだと言います。

 

ニーグレンの考えるキリスト教的アガペーの四つの特質として、以下のようなものがあります。

・自発的であって、誘発されないものである
・人の功績にかかわりがなく、人間の善や立派さが全く考慮に入れられていない
・創造的である
・神御自身の人間に至る道であり、神との交りの道を開くものとなる

 

このように、アガペー的愛とは、「無条件な自己投与」とされます。

 

一方で、キリスト教的アガペーと対比されるギリシア的なエロースについては、どう考えられるでしょうか。プラトンの『饗宴』という対話篇を読むと、さまざまな側面がエロースには付随し、豊かな意味内容が含まれていたことが分かります。

 

『饗宴』内では、6名の説が挙げられています。それぞれを簡単にまとめると以下のようになります。

 

・パイドロスの説
恋(エロース)をすると、人は、醜いものを恥じ、美しいものに対して功名を競う心を目覚めさせられ、こうして、恋(エロース)は、道徳的な純化の働きをなす。

 

・パウサニアスの説
女性の肉体だけに恋い焦がれ、きわめて移り気にその官能にだけ惑溺する低俗な恋もありうることが、率直に認められ、告白されている。

 

・エリュクシマコスの説
万物の生命活動の基本のあり方として、自然的欲求の充足や、その活力の調和ある発展という意味合いにおいて捉えられることになり、医学や音楽の狙いとも結びつくものとされることになる。

 

・アリストパネスの説
自分の半身を求める恋情という形で、日常卑近に芽生えてくる。

 

・アガトンの説
詩文や芸術を愛好する若々しく繊細な精神が、生い育ってゆく

 

・ソクラテスの説
真の知を愛し求める精神的情熱としてのエロース

 

このように、エロースには沢山の見方や考え方があります。

 

ギリシア的エロースとキリスト教的なアガペーの愛、この2つの愛はどう関係し合うのか、愛の問題をどのように考えるべきであるのか、という点については、章を改めてさらに考え直してみたい。

として、この章は終わりました。

 

 

 

ディスカッションでは、まず「半身」というキーワードに関連する話題がありました。

 

『ぼくを探しに』という本は、自分にぴったりのかけらを探す話ですが、最終的にぴったりのかけらを自ら手放し、またかけらを探しに行ったそうです。この本を通して、半身を見つけたら終わりなのか?愛した先に何が?ということを感じたそうです。

 

次に、「自分のパートナーを自分の半身と感じている?」という質問がありました。ここから、結婚や恋愛に関する話題が広がったり、愛は結婚のような形以外にも、家族・兄弟・友人など、様々な形があるよねという話になりました。

 

 

皆さんの結婚観は、個人的にとても参考になる話でした。真っ昼間から繰り広げられる赤裸々トーク、興味のある方はぜひ覗いて見てください。

 

次回、第10回(偶数回)は、7月6日(火)10:30~12:00、ハンナ・アレントの『人間の条件』より「第3章 労働(13~15節)」を扱います。
第11回(奇数回)は、7月13日(火)10:30~12:00『人生の哲学』より、「第6章 愛の深さ(その3) 愛の諸相」を扱います。
レジュメ作成と報告は、家庭医の大久保先生が担当します。

 

参加希望や、この活動に興味のある方は、下記案内ページより詳細をご確認ください。

 

皆さまのご参加をお待ちしております。

 

 

執筆:吉成亜実(みらいつくり研究所 リサーチフェロー兼ライター)

 

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