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第5回 みらいつくり哲学学校 「第3章 生と死を考える(その3) 永遠性の問題」開催報告

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2021年5月25日(火) 10:30~12:00、第5回となる「みらいつくり哲学学校オンライン」を開催しました。

 

奇数回は、渡邊二郎著『人生の哲学』を課題図書にしています。

 

今回取り扱ったのは、「第3章 生と死を考える(その3) 永遠性の問題」です。
レジュメ作成・報告は、家庭医の大久保先生が担当しました。

この章では、主に生死を越えた存在・永遠性について扱われていました。

 

 

筆者は、神や仏のような絶対的な永遠性を預かる「生死を超えたもの」は存在しないのか?という疑問から今回の話を展開します。

 

「生死を超えたもの」の問題を考えるにあたっては、「宗教的なもの」を除いて考える必要があるとします。あくまで、人生に関する「哲学」の立場からこのことを考えます。

 

哲学と宗教、時間と永遠、有限者と絶対者などの問題は、東西の思想史のすべてで関わっているというくらい考察が加えられてきています。

 

それら目下の目的は、「死によってすべてが灰燼に帰してしまうのかという、私たちの素朴な懐疑と煩悶に対し、ささやかな自省を加えてみること」にあります。

 

近代ドイツの大哲学者カントは「生死を超えたもの」について、「自由」「霊魂不滅」「神の存在」の三つの問題に集約できると言います。

 

・「自由」:自由が存在しないとすべてが必然的な因果法則によって支配され、人間の行為の責任を問うことが不可能になる。そうなれば、人間は人格的存在者で善悪を考え、責任をもって道徳的に振る舞う存在者でなければならなくなってしまう。
そのためには自然法則に左右されず、自由をもって道徳法則に則って自律的に理性的に行為する必要があるという矛盾が生じる。このことから、自由はこの世の中に存在しなければならない。

 

・「霊魂不滅」:人間が生きるその努力の過程が「死」とともに断ち切られ、徒労の試みとして雲散霧消することは無惨。だが、それではあまりにも切ないため、霊魂不滅を信じ、要請せざるを得ない。

 

・「神の存在」:人格的完成を目指す道徳的努力は必ずしも報われるとは限らない。    これに報い、「幸福」をさずけてくれるような「神の存在」も信じ、要請せざるを得ない。

 

この3つの理念が実践的に要請されざるを得ない立場を理性信仰と呼びました。

 

カントの哲学は、
「自由」にもとづいて、「善」を目指して、必死に生きる人間の営為が、けっして徒労ではなく、「霊魂不滅」のものであり、しかも「神の存在」に裏打ちされ、「幸福」の保証されたものであることを、「信」じ「要請」しようとする、「生きがい」を説論とする哲学
であると言えます。

 

カントのこの考えに対して、ヘーゲルやキルケゴールは独断的ないし教条的な形で「神あり」とする立場で非難しました。

 

プラトンの霊魂不滅論では、死後の「ハデス」の国や「神話」、「輪廻転生」に関する古代的な信仰が引き合いにでてきます。

 

ですが、その議論の本質は、死に対して覚悟を定め、死をも超えて生きるべき永遠不滅の人間的魂の在り方、人間の本来的生き方を説論、勧告するところに核心があります。

 

プラトンが書き残した、ソクラテスと弟子たちが交わした対話的議論の主要な論点では、

・真実にもとづいて生き、真実を探求しようとする「知を求める者(哲学者)」は、「死にゆく人のあとを追うことをねがい」、「すすんで死をむかえ」、「死に直面してなんらおそれをいだくことはなく」、死後の最大の善を期待して従容として死ぬもの。
・自殺を勧めるものではない
・「死」とは「魂が、肉体から離れ分かれること」もしくは、「魂の、肉体からの解放と分離」
・ただしく知を求めるひとたちは、まさに「死ぬことを練習している」

 

なかでも、「魂がまさにそれ自身においてあるものとして、肉体のいたるところから、ひとつに凝集し、結集するように慣れさせること」が重要だと言います。

 

筆者は、ソクラテスが人間の魂が自己自身の「本来的なあり方」へと目覚めて、自己徹底することを、人間の最重要な課題とみていることから、人間の本来的実存への覚醒は霊魂不死の問題の核心であると述べます。

 

ソクラテスとプラトンの時代から、生あるかぎり、否、未来永劫にわたって、魂の「世話」が大事であるという主張が終始展開されています。

 

これらを現代的に解釈すると、
「死にさらされた人生を、曇りない眼で見つめつつ、純粋な魂となって、本来的な自己であることを全うすべく、全力を尽くして生きることを勧告する人生の教え」
と言えるのではないかと、筆者は述べます。

 

次に、永遠性への視界を拓く原点として、ニーチェの「運命愛」を挙げます。

 

運命愛とは、
・何事であれ現にそれがあるのとは別な風であってほしいなどと思ってはならない
・将来に対しても、永遠にわたってけっして、そう思わないこと
・やむをえざる必然的なものを愛すること
というものだそうです。

 

いかなる苦労、悲嘆におそわれようとも、「これが人生だったのか、よし、それならばもう一度」と覚悟を新たに、日々人生を取り返しつつ、自己本来固有の必然性を生き抜くこと=運命愛以外に、人生の意味が掴み取られ花開くことはない。と筆者は言います。

 

私たちの人生は、どこから来てどこへ向かって行くのか、定かには見通しえない、謎の一生で、多くの人々の生と死は尽きることのない繰り返しです。

 

ニーチェはこのことを、「永遠回帰」と呼びました。

 

このことから、筆者は「この永遠回帰の人生を引き受け、肯定して、それを果てしなく生き抜くことをほかにして、どこにも人生は存在しえない」といいます。

 

最後に、ヘーゲルとシェリングの復活の思想を挙げます。

 

それらを通して、甦りと復活と新生と永遠の生命こそは、人間の組み尽くしえない希求の根本源泉であると言わなければならないとして、この章は終わりました。

 

第3章では、様々な哲学者達と筆者の論考から「生死を越えた存在・永遠性」を捉えました。

 

今回レジュメを作ってくれた大久保先生は、著者と哲学者の対話形式で分かりやすくまとめてくれました。

 

ディスカッションの時間は、

 

・この章を読んで、疑うことの重要性を感じた

・哲学と科学の接点はどこなのだろうかという疑問

・「全力を尽くして生きること」が書かれているが、それは本当に可能?

・魂について、輪廻転生するとしたら、魂の単位は?総数は?

 

といった話題が挙がりました。

 

生と死を考えることは、大切なことだと改めて感じました。次回からは「愛について」です。
どんな内容が扱われるか、楽しみですね。

 

次回、第6回(偶数回)は、6月1日(火)10:30~12:00、ハンナ・アレントの『人間の条件』より「第2章 公的領域と私的領域(7~9節)」を扱います。

第7回(奇数回)は、6月8日(火)10:30~12:00『人生の哲学』より、「第4章 愛の深さ(その1) 愛と、呼びかけてくるもの」を扱います。

 

レジュメ作成と報告は、「みらいつくり大学」教務主任の宮田直子が担当します。

 

参加希望や、この活動に興味のある方は、下記案内ページより詳細をご確認ください。
皆さまのご参加をお待ちしております。

 

 

執筆:吉成亜実(みらいつくり研究所 リサーチフェロー兼ライター)

 

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