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第36回 みらいつくり哲学学校 『存在と時間』第2篇第6章「時間性と、通俗的な時間概念の根源としての時間内部性」

2021年1月21日(木) 10:30~12:00で、第36回となる「みらいつくり哲学学校オンライン」を開催しました。

 

奇数回、偶数回合わせて、2020年度の哲学学校の最終回でした。

 

偶数回はマルティン・ハイデガーの『存在と時間』を課題図書にしています。

 

今回は、第2篇第6章「時間性と、通俗的な時間概念の根源としての時間内部性」を扱いました。

 

まず第78節でハイデガーは、これまで自らが行ってきた時間性の分析は不完全なものであったと述べます。

 

なぜならそれは、「すべての生起は『時間の内で』経過するという『事実』を考慮せずに遂行された」からだと言います。

 

そのため本章では、その「時間内部性」というものと、それが生み出す「通俗的な時間概念」というものについて分析すると述べます。

 

第79節では、現存在が時間についてどのような配慮的な気遣いをしているかということから分析を始めます。

 

現存在は、以下のような配慮的気遣いをしています。

 

「そのときには」 ⇒ 予期 (「いまはまだない」がひそんでいる)

「あのときには」 ⇒ 保有 (「いまはもはやない」がひそんでいる)

「いまは」    ⇒ 現成化

 

通俗的な時間概念においては、現成化が特有の重みをもっているとハイデガーは言います。

日常的な現存在は、いつも「いまは・いまは」と言い、現在をもとに配慮的な気遣いをしているのです。

 

ここでハイデガーは、「日付け可能性」というあらたな用語を定義します。

ひとは、太陽の動きにしたがって、つまり日の出や日の入り、そしてそれによっておこる昼や夜という区別にしたがって時間をとらえています。

 

「時間は、ひとが『昼間のあいだ』営んでいるものにもとづいて、日付けを打たれる」 と言うのです。

 

そしてハイデガーは、こんな風にも書いています。

 

「『漫然と生きながらえる生活』においては、現存在は、おのれが純然たる『いまは』の絶え間なく持続する連続に沿って走っているのだとは、けっして了解していない」

 

平均的日常性における現存在は、この「いまは」という「現在」が絶え間なく持続するといったあり方をする「時間」の「内部」にいるのだということには気づいていないということですね。

 

また、このような「非決意」の状態にある現存在は、以下のように自らを了解していると言います。

 

「現成化することのうちで出会われるところの、またさまざまに変わりつつ押しよせてくる、最も身近のあれこれの出来事や偶発時にもとづいて、おのれを了解する」

「多忙をきわめて配慮的に気遣われたものにおのれを喪失しつつ、非決意の人は、そうしたものにおのれの時間を失っている」

「だからこそ彼にとって性格的な語り方は、『私には時間(ひま)がない』である」

 

色々なことで多忙にしているとき、ついつい口癖のように「時間がない」と言っていたことを思い出すと、ぐさっと刺さりますね。

 

一方で、「決意」した「本来的実存」にとっての時間については、以下のように書いています。

 

「本来的実存が、決意性においてけっして時間を失わず、『つねに時間(よゆう)をもっている』」

「決意性の時間性はその現在に関しては瞬視という性格をもっている」

「瞬視が状況を本来的に現成化するとき、この現成化のはたらきは、それ自身が指導するのではなく、既在しつつある到来のうちに保持されているのである」

「瞬視的実存は、自己の本来的な歴史的不断性という意味での運命的に全体的な伸び拡がりとして時熟する」

 

 

第80節では、「公共的な時間」というものについての分析から始めます。

 

ハイデガーの言う「公共的な時間」とは、「世界内部的な道具的存在者や事物的存在者がその『内で』出会われるところの、まさにその時間」だと言います。

 

「公共的な時間」の特徴は、「有意義性の構造をあらわにする」ということです。

第1篇第4章でやったように、「有意義性の連関」は「世界の世界性」でしたから、「公共的な時間」は「世界性」に関連しているということですね。

 

この「公共的な時間」を測定するものが「時計」です。

 

ひとはこの時計を見ながら、「時間を読み取る」と言います。

「時間を読み取る」ということが実際に意味するのは、「いまはこれこれの時間だ、いまは何かをすべき時間だ、何かをするには時間がまだある」と考えることであり、「時計を見つつ時間に順応すること」は、本質上、「今を言うこと」であると言います。

ここでもやはり、「現在」が重視されているのですね。

 

第81節では、これまで分析してきた「時間内部性」と「通俗的な時間概念」というものがどこから生まれてきたのかということを分析します。

 

ここでハイデガーは、「今・時間」という用語を出し、

 

・「今ここに」どの今においても」「ただちにもはや今ではない」「わずかにまだ今ではない」というかたちでおのれを示す、そのような仕方で時計使用において「看取された」世界時間

 

であると定義します。

 

この「今・時間」は、「日付け可能性と有意義性というこれら両構造を『現出』させず、隠蔽する」と言います。

つまり、「世界時間を水平化し隠蔽する」というのです。

「今・時間」には、「中断もなければ隙間もない」、そして、「時間は無限であるというのが主要なテーゼである」と言います。

 

「今・時間」の内部にいるということは、つきつめると現存在が自身から「逃避している」ことになるとハイデガーは言います。

そしてそのことは、「死」からの逃避、言いかえれば「世界内存在の終わりから眼をそらす」ということも意味していると言います。

 

このような状態にある「世人」は、「けっして死亡することがない」と言います。

世人は、「終わりまでにはまだ依然として時間がある」というのですが、そこで表明されているのは「失ってもよいという意味での時間をもっていること」だとハイデガーは言います。

 

これまでの分析でわかったように、通俗的な時間了解においては、時間という根本現象をのうちに見てとっており、しかも「切断されてしまった純然たる今」のうちに見てとるということで、これをひとは「現在」と名付けています。

 

これに対して、第4章で分析したような「脱自的・地平的な時間性」においては、第一次的に到来から時熟するというように時間を了解していました。

 

第82節は、このような通俗的な時間概念と「精神」との関係性について分析したヘーゲルの時間概念について検討するのですが、ちょっとここは長くなるので割愛します。

 

ちなみに土畠は、北海道大学公共政策大学院に在籍していた2009~2013年、ヘーゲルにはまっていた時期がありました。

一度、神奈川で開催された「ヘーゲル学会」というものにも参加したことがあります。

ヘーゲルの哲学、ハイデガーの哲学と比べても本当に難しい…。

今回改めてヘーゲルの『精神現象学』の関連個所を読んでみましたが、やっぱりハイデガー以上に何言ってるのかわからないですね(笑)

 

でも、ヘーゲル哲学は、その後のマルクスの思想とか、ハーバーマスなどに代表されるフランクフルト学派などにも大きな影響を与えているので、哲学史においては非常に重要です。

 

でもちょっと今回は割愛…。

 

『存在と時間』既刊部の最終節となる第83節「現存在の実存論的・時間的分析論と、存在一般の意味への基礎的存在論的な問い」では、これまでの分析をまとめた上で、まだ解決されていない問いをあげて終了しています。

 

既刊部では、現存在の存在全体性の根源的構造というものを分析し、その地平として「時間性」というものを見出して分析しました。

 

しかしながら『存在と時間』のそもそもの目標は、現存在のみならず、すべての存在者に関する「存在問題一般の仕上げ」というものでした。

 

アリストテレスなどの古代の存在論から、デカルト、カントに至るまで、これまでの存在論では「事物概念」をもとに考察してきたとハイデガーは批判します。

 

それに対してハイデガーは、「存在一般の理念」というものについて探究するわけですが、そのためには「問いと答えの確たる地平」というものが必要でした。

 

『存在と時間』においてハイデガーはその地平としての「時間性」というものを見出しましたが、「われわれの根本的探究は、途上にある」と言います。

 

ハイデガーはその探究の目指すところについて、

 

「脱自的な時間性自身の或る根源的な時熟の仕方が、存在一般の脱自的企投を可能化するにちがいない」

 

と述べ、以下のような問いを挙げて終わります。

 

Q. 時間性がこのように時熟するときの様態はどのように学的に解釈されるべきであろうか?

Q. 根源的時間から存在の意味へと一つの方途が通じているだろうか?

Q. 時間自身が存在の地平としてあらわになるのであろうか?

 

この問いへの分析については、ハイデガーが『存在と時間』を公刊した直後、1927年の夏学期にマールブルク大学で行った講義である『現象学の根本問題』において、不十分ではあるもののなされています。

 

日本のハイデガー研究者として著名な木田元先生らにより、作品社から2010年に日本語訳が出版されていますので、関心のある方はぜひそちらも手に取ってみてください。こちらも約600ページと大著ですが、講義録なので、『存在と時間』よりずっと読みやすいです。

 

参考までに、『現象学の根本問題』の章立てを載せておきますね。

 

第1部 存在に関するいくつかの伝統的テーゼについての現象学的批判的な論究

第1章 カントのテーゼ 「存在はレアールな述語ではない」

第2章 アリストテレスにまで遡る中世存在論のテーゼ 「存在者の存在構造には<何であるかということ>、つまり本質存在と、可能な事物的眼前存在、つまり事実存在が属する」

第3章 近代存在論のテーゼ 「存在の根本様態は、自然の存在つまり広ガリノアルモノと、精神の存在つまり思考スルモノである」

第4章 論理学のテーゼ 「すべての存在者はそのつどの存在様態には関わりなく『である』によって語られうる」。繋辞としての存在

 

第2部 存在一般の意味についての基礎存在論的な問い。存在の根本諸構造と根本諸様態

第1章 存在論的差異の問題

 

 

『存在と時間』既刊部の最後で出された問いに対する分析は、第2部の方ですね。

とはいえ、なぜ第1章しかない…。

第1部の方は、『存在と時間』の最初の方で宣言された「これまでの存在論の破壊」に相当するものです。

 

このようにハイデガーは、「存在一般の問い」については、著書や講義で自らの計画に従って作業を始めるものの、いずれも「途上」で終わっています。ただ、後期になってもハイデガーは、この「存在一般の問い」について思索を続けています。

 

ハイデガーの人生における「思索」が、いつも「途上」にあったと言えるでしょうね。

 

 

今回のディスカッションは、「節分」についてのコメント、『鬼滅の刃』についてのコメントから始まりました。このあたりはさすがみらいつくり哲学学校(笑)

 

ディスカッションの中心となったのは、自らの「いのち」とその「有限性」に関する話題です。

 

・自らの「いのち」の「有限性」を受け入れるということが「決意性」につながるのではないか。

・たしかに自分は「決意性」をもって施設を出たけど、でも自分は健常者の方々と同じような「世人」になりたかった

・重症心身障害児・者は、自らの「いのち」や「死」をどう了解しているのだろうか?

・重症心身障害児の息子は、友人の死を知った後、翌日に突然学校で大泣きした。おそらく、彼なりに友人の「死」を了解したんだと思う

・そのような「ズレ」は誰にでもある。それは、「既在の取り戻し(反復)」なのではないか?

 

 

ハイデガーの思索と同様に、みらいつくり哲学学校の今年度最終回も、やはり新たな「問い」を生むことで終わりました。

 

 

これで、『存在と時間』の既刊部、全83節が終了です!!

 

2020年5月から、隔週で開催してきた「偶数回」。

 

もう少し日常の生活に近い形で「哲学」を考える奇数回と比較して、本格的な哲学書を読む偶数回については、徐々に参加者が少なくなるだろう、もしかしたら自分一人になるかもしれない、一人でもZoomでレジュメを報告してそれについて自分で語って録画をみんなに共有しよう、そんな風に思っていました。

 

実際には、偶数回についても私を含む6名の「レギュラーメンバー」が、最後までついてきてくれました。

 

私以外の5名についてはおそらく、人生で初めて「哲学書を最初から最後まで一冊全部読む」という経験だったのではと思います。

 

もともと哲学を学んでいた私にとっても、やはりハイデガーはかなり理解が難しく、参加者からの指摘やディスカッションの中での気づきが本当に多くありました。

 

その他、ときどき参加してくださった方、ラジオ参加してくださった方、録画で観てくださっていた方、合計すると30名近い方々が、それぞれの形で「ともに哲学する」ということに参加してくださったことになります。

 

新型コロナウイルスのパンデミックの影響を目の当たりにし、「いまこそどのような人にも哲学が必要だ」と思って始めた「みらいつくり哲学学校」。

 

ひとまず最初の一年をやり遂げることができて、感慨深いです。

 

 

みらいつくり哲学学校は、来年度も開催予定です。

 

今年度同様、奇数回と偶数回にわけて開催しようと思っています。

 

今年度とは違って、少しゆっくり、毎週ではなく隔週で開催を…と前回までの報告で書きましたが、それじゃあ一年で全30回が終わらないことに…。そんなことに今さら気づく…。ということで、隔週とはいかないまでも、時々休みを挟みながら今年度よりはちょっとゆったりと進めていけたらと思っています。

 

奇数回の「哲学入門」については、今年度の偶数回で扱ったハイデガーの『存在と時間』の訳者(中公クラシックス版)である渡邊二郎さんの『人生の哲学』(角川ソフィア文庫,2020年)を課題図書にしようと思っています。「人生の根本問題に向けて」というテーマで、全15回、「生と死を考える」「愛の深さ」「自己と他者」「幸福論の射程」「生きがいへの問い」という5つのカテゴリーで、ハイデガーをはじめとした様々な哲学に言及しながら書かれています。

 

偶数回の「哲学書」については、ハンナ・アーレントの『人間の条件』(志水速雄訳,ちくま学芸文庫, 1994年) にしようと思っています。

(ドイツ語からの訳書は『活動的生』森一郎訳, みすず書房, 2015年)

 

今年度のハイデガーの「弟子」でもあり「愛人」でもあった、こちらも20世紀を代表する哲学者/政治学者/社会学者であるアーレントの代表作ですね。

 

『存在と時間』よりは非常に読みやすい本だと思います。

 

こちらは、全部で45節あるので、15回で分けて毎回3節ずつ読み進めていこうと思っています。

 

2021年度のスタートは、4月6日(火) 10:30~12:00の予定です!

 

通常参加のほか、カメラ&マイクオフでZoomに参加する「ラジオ参加」、Youtubeのライブ配信(限定公開)で参加する「ライブ配信参加」、記録動画を視聴する「録画参加」など、どのような形でも参加できます!

 

このような時代だからこそ、いっしょに「哲学」してみませんか?

 

ご連絡、お待ちしています!!

 

みらいつくり哲学学校 担当者

土畠智幸     brotom1977@gmail.com

 

 

 

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