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第34回 みらいつくり哲学学校 『存在と時間』第2篇第5章「時間性と歴史性」

2021年1月7日(木) 10:30~12:00で、第34回となる「みらいつくり哲学学校オンライン」を開催しました。

 

偶数回はマルティン・ハイデガーの『存在と時間』を課題図書にしています。

 

今回は、第2篇第5章「時間性と歴史性」を扱いました。

 

個人の人生を歴史としてとらえるのであれば、その始まりは「生誕」であり、その終わりは「死」ですよね。第5章の冒頭、第72節でハイデガーは突然「誕生」について言及します。これまで「死」の方については、第2篇第1章などで詳細に分析してきましたが、「誕生」についてはここで初めて言及しています。

 

現存在の「生の連関」というものは、この「生誕と死との間の存在」として捉えることができるのだと言います。

 

…と言いながら、ハイデガーはやはり「誕生」についてはあまり詳しい分析をしないんですよね。この「誕生」については、ハイデガーの弟子でもあり愛人でもあったハンナ・アーレントが詳しく分析しているようなので、それは来年度の哲学学校のお楽しみということで。

 

ハイデガーは、この「誕生と死の間」において現存在が持つ「伸び拡げられつつおのれを伸び拡げるという種別的な動性」のことを、現存在の生起(せいき)と名付けます。

 

そして、現存在の生起には、開示と解釈が属していると言います。

 

現存在の「歴史性」について分析する上で、ハイデガーは注意をします。

 

それは、

 

現存在が「歴史の内に立っている」ゆえに現存在は「時間的」に存在するのではなく、

 

現存在はおのれの存在の根拠において時間的に存在するゆえにのみ、この存在者は歴史的に実存するのであり、また実存しうる

 

ということです。

 

第73節では、歴史の「通俗的了解内容」について分析します。

 

私たちは普通、「歴史」というものを「過去となったもの」として、以下の4つの意味でとらえていると言います。

 

①もはや事物的に存在していない、あるいは事物的に存在してはいるが「現在」へとおよぼす影響をもっていない

②過去からの由来を意味する

③「時間の内で」変転する存在者の全体を、なかでも、人間、人間的諸集団、およぼそれらの「文化」の変転や運命を意味する

④伝承されてきたものである

 

これら四つを「歴史の通俗的理解」としてまとめると、

 

歴史とは、実存しつつある現存在の時間の内で生ずる種別的な生起のことであって、しかもそのさい、相互共存在のうちで「過去となって」いながら、同時に「伝承されて」いて、さらに影響をおよぼしつつある生起が、強調された意味において歴史とみなされている

 

となると言います。

 

このような定義は、それらが種々の事件の「主体」としてに人間に関係しているということによって一つの連関をもっていると言います。

 

ハイデガーはここで、「博物館に保存されている古代の遺物、たとえば家具」を例にあげます。

 

この家具は、ただのモノとして展示されているのではなく、その時代にそれを道具として使っていた人間との関係も含めて展示されているわけですね。

 

第74節では、「歴史性の根本機構」について分析されます。

 

現存在は、現事実的にそのつどおのれの「歴史」をもつ、あるいはもちうると言います。

 

現存在は日常性において、「愉楽や軽率や回避」などという、「最も身近に押し寄せてくる諸可能性の限りない多様性」に埋没し、現存在の極限の可能性としての「死」からも逃げてしまっています。

 

現存在が真の意味で歴史的になるためには、「死に向かって自由である」ことが必要になり、それによって現存在は「実存をその有限性のなかへと突き入れる」と言います。

 

この有限性をつかみとることで、現存在は「運命」のなかに入っていくのだとハイデガーは言います。

 

運命は、本来的な決意性のうちにひそんでいる現存在の根源的な生起だとハイデガーは定義します。

 

そして、「このような生起のうちで現存在は、死に向かって自由でありつつ、相続されたものであるにもかかわらず選びとられた可能性において、おのれをおのれ自身に伝承する」と説明しています。

 

現存在は、死という自らの有限性を受け止め、その上で自らに与えられた状況の中で「選択するということを選択する」わけですが、そのことにより「おのれ自身に引き渡されていることの無力を引き受け、開示された状況のさまざまの偶然に対して明察をもつにいたる」のだと言います。

 

この運命的な現存在は、世界内存在という特徴も合わせもちます。世界の中には、他者たちも含まれます。ということで現存在は、他者たちと共なる共存在において実存するわけですが、このような現存在の生起は、共生起であり、全共同運命として規定されると言います。

 

この全共同運命ということが意味するのは、共同体の、つまり民族の生起であると言います。

 

なぜかここで突然「民族」という用語が出てくるんですよね。のちにハイデガーがナチスに入党し、一時的であるとはいえヒトラーに接近するということを含めて考えると、この「民族の生起」はハイデガーがすでに(ゲルマン)民族の特殊性みたいなものを重視していたのか…などと思ってしまいますね。

 

そしてまた、

 

伝達と闘争とのうちで全共同運命の力ははじめて自由となる

 

とも書いてるんです。なんかやっぱり怪しいですね…。

 

このあとハイデガーは、この運命というものを、時間性に連関させて以下のように言います。

 

「本質上おのれの存在において到来的であり、したがって、おのれの死に向かって自由でありつつ、死に突きあたって打ち砕けておのれの現事実的な現へと投げ返されうる存在者のみが、言いかえれば、到来的なものとして等根源的に既在しつつ存在している存在者のみが、相続された可能性をおのれ自身に伝承しつつ、おのれの固有な被投性を引き受けて、「おのれの時代」に向かって瞬視的に存在することができる」

 

「本来的であって、同時に有限的な時間性のみが、運命といったようなものを、すなわち本来的な歴史性を可能にする」

 

つまり、運命というものは、本来的な時間性を持つのであって、それこそが本来的な歴史性なのだということですね。

 

そしてここでハイデガーは、「取り返し(反復)」という概念を導入します。訳者の渡辺二郎さんによれば、この「反復」という概念は、デンマークの哲学者キルケゴールの概念から引用したものなんだそうです。

 

取り返し(反復
・おのれを伝承する決意性の様態
・この様態によって現存在は明確に運命として実存する
・歴史は、現存在の存在の仕方として、おのれの根を本質上到来のうちにもっている

現存在の本来的歴史性

先駆的決意性のうちにひそんでいる生起に適合させて歴史性として特色づけられたもの

到来のうちに根ざしている伝承取返し

 

第75節では、「世界・歴史」というものについて分析がなされます。

 

現存在はその平均的日常性においては、公共的な相互共存在と言うあり方で、「世界」の方から、つまり現存在の周りにあるモノやコトから自らを配慮的に気遣っています。そういったものとともに起こることをハイデガーは、「さまざまな業務、企業、突発事、災害」なのだと言います。

 

「世界」というものは、「地盤」でもあり「舞台」でもあって、「日常的な実業」にともに属していると言います。

 

このような「世界」において現存在は、「個々の現存在の成功、行き詰まり、身上の変化、「総計」を、われわれは、差しあたっては、配慮的に気遣われたものの進捗、現況、変化、有効などから算出」しているのだと言います。

 

このような「世界」の視点からみた歴史のことをハイデガーは「世界・歴史」と呼び、例として「指輪」を挙げます。指輪というのはモノではありますが、「それを誰が、どんな目的で、どんな状況で、誰に、どんな風に渡したか」という意味が常に付与されているわけですね。

 

しかしながら現存在は普段、日常的現存在として

 

・毎日「起こる」種々さまざまのことのなかに、気を散らしている
・おのれ自身へと立ち帰ろうとするには、気散じと、ちょうどいま「起こった」ばかりのことの無連関とから、おのれを取り集めてこなければならない

 

のだと言います。

 

こういったものの帰結として生まれる「非本来的な歴史性」の特徴は以下のようなものだと言います。

 

非本来的な歴史性
・宿命の根源的な伸び拡がりは秘匿されている
・世人自己として現存在は、頼りない変わりやすさで、おのれの「今日」を現成化する
・最も身近な新奇なものを予期することによって、そうした現存在はいちはやく古いものを忘却してしまっている
・世人は選択を回避する
・諸可能性に対し盲目であるために世人は、既在したものを繰り返すことができず、むしろ世人は、既在した世界・歴史的なもののうちの残存している「現実的なもの」、つまり、残り物やそれに関する事物的に存在している報告を、たんに保有して維持するだけなのである
・今日を現成化することのなかに自己喪失してしまっているので、世人は「過去」を「現在」から了解する

 

それに対してハイデガーの言う「本来的歴史性」や「運命としての決意性」は以下のような特徴をもつと言います。

 

本来的歴史性
・決意性の生起を、つまり諸可能性の遺産を先駆によっておのれに伝承しつつ取り返すこと
・気散じの非不断性とは対立する自己の決意性は、それ自身において、伸び拡げられた恒久性なのである
・こうした恒久性のうちにおいて現存在は、運命として、生誕と死とこれら両者の「間」とをおのれの実存のなかへと「編み入れて」保持している
・しかもそのさい、現存在は、そのような不断性において、おのれのそのときどきの状況の世界・歴史的なものに向かって瞬視的に存在する

 

運命としての決意性
・状況に応じて要求されて、或る特定の決意を放棄するということに向けられた自由
・実存の恒久性は中断されるのではなく、まさしく瞬視的に確証される
・これらの諸瞬間は、到来的に既在しつつある取り返しというすでに伸び拡げられている時間性から発現する

 

 

第76節では、こういった「歴史性」を学問的に探究する「歴史学」を実存論的に分析します。

 

ここでハイデガーは、ニーチェの『反時代的考察』(1874年)という著作から、歴史学の三つの種類をあげます。

 

①記念碑的歴史学:現存在は、或る選ばれた可能性を決意しつつ開示することのうちで、到来的なものとして本来的に実存する。決意しつつおのれのほうへと復帰することによって現存在は、取り返しつつ、人間的実存のさまざまの「記念碑的」な可能性に向かって開かれている

 

②好古的歴史学:現存在は、既在しているものとして、おのれの被投性に委ねられている。

 

③批判的歴史学:現存在は、到来と既在性との統一において現在として時熟する。現在は、今日を本来的に開示するのだが、しかもそれは瞬視としてなのである。しかし、この今日が、或るつかみとられた実存可能性を到来的に取返しつつ了解することにもとづいて解釈されているかぎり、本来的な歴史学は、今日の現成化の否定となる。言いかえれば、今日の頽落的な公共性から悩みつつおのれを解き離すこととなる。記念碑的・好古的歴史学は、本来的な歴史学としては、必然的に「現在」の批判なのである

 

そして、歴史学のあり方について、以下のように述べます。

 

・歴史学の実存論的・歴史的根源の具体的叙述は、この学を構成している主題化を分析することにおいて遂行される
・歴史学的主題化は、その主要部分を解釈学的状況の形成のうちにもっているのだが、解釈学的状況は、歴史的に実存しつつある現存在が現にそこに既在していた現存在を取り返しつつ開示しようと決意することによって、開かれる
・歴史的実存の本来的開示性(「真理」)にもとづいて、歴史学的真理の可能性と構造とが開陳されるべきである

 

第77節では、前節で述べた歴史学のアプローチについての探究を始めたものとして、ハイデガーの一つ上の世代であるヴィルヘルム・ディルタイの歴史学の考え方を挙げます。

 

ディルタイは、人間を対象とする「心理学」の方法論について、当時主流であった新カント派における「自然科学の知見を人間にも適応する」という考え方に反対します。そこでディルタイは、人間を「歴史的存在」としてとらえるということを行い、「心理学」や「精神科学」を基礎づけようとしたのです。

 

といっても、ディルタイのその取り組みは、不完全なものであったとハイデガーは批判します。というより、そのような批判を行った、ディルタイの友人でありかつ批判者であったヨルク伯という人による考えに賛同するのです。

 

ディルタイとヨルク伯の間で交わされた「往復書簡」というものが当時公刊されたのですが、ハイデガーはそれに大きな影響を受け、それに関する長大な論文を執筆しました。

 

また、それに関する講演も行っており、「カッセル講演」(『ヴィルヘルム・ディルタイの研究活動と歴史学的世界観をもとめる現代の争い』)として日本語にも翻訳されています(後藤嘉也訳、平凡社ライブラリー)。

 

この第77節は、その7割ほどがヨルク伯の「書簡」からの引用となっており、『存在と時間』の中でも非常に特殊な部分です。『存在と時間』の完成については、時間が無い中、未完成であるにも関わらず公刊しなければならなかったという事情があり、それによるものとも考えられますが、逆に、ハイデガーがどれだけディルタイの取り組み(とヨルク伯によるその批判的協働)に影響を受けたかということの現れでもあるのでしょう。

 

 

 

今回のディスカッションでは、この哲学学校の共同主催者である三田村さんが、「私はここが重要だと思った」という第76節の箇所を挙げてくれました。

 

・歴史学の主題は、一回限りしか生起しないものでもなければ、そのうえに浮遊している普遍的なものでもなく、現事実的に実存にもとづいて既在した可能性なのである。
・こうした可能性は、超時間的な範例という血の気のうせたものに転倒されるなら、そのものとして繰り返されはしない、言いかえれば、本来的に歴史学的に了解されはしない。
・現事実的な本来的歴史性のみが、決意した運命として、現にそこに既在していた歴史を開示することができるのだが、それは、取り返しにおいて、可能的なものの「力」が、現事実的実存のうちへと打ちこんでくるというふうに、言いかえれば、現事実的実存の到来性となってその実存へと到来するというふうに、開示するのである。

 

「歴史学」というものが探究しているのは、「可能性」なのだということ、そしてその「可能性」は、「現事実的実存に到来として打ちこんでくる」というのですね。

 

私はここの箇所は読み飛ばしてしまっていたので、三田村さんの指摘によって教えられました。

 

ハイデガーのいう「歴史学」は、これもハイデガーのいう「解釈学」の一種であると言えると思いますが、私はこれまであまり「歴史学」や「解釈学」に興味を持てませんでした。

 

しかしながら、「歴史学」の探究するものが「可能性」であり、それは私たち自身も含む「現事実的実存」に「到来として打ちこんでくる」のだと言うことを学び、「歴史学」に非常に興味をもつようになりました。

 

ハイデガーがディルタイの歴史学の方法について言及した前述の『カッセル講演』をもう一度読み直したほか、ディルタイの著作として入手しやすい『体験と創作』(上下巻、岩波文庫)を購入してみました。

 

余談ですが、年末年始は皆さんと同じく「ステイホーム」だったので、ネットフリックスで『ラスト・キングダム』という、9世紀のイングランドを舞台としたイギリスのドラマをずっと観ていました。その延長で、イギリスの歴史に興味をもち、色々と書籍を購入して読んでいたところだったのですが、今回の「歴史学」に関する学びを受けて、それらへの取り組み方が変わったように思います。

 

 

他の参加者によるコメントや指摘が大きな「学び」のきっかけになる。

大学などでの学びでも同じだとは思いますが、多様なバックグラウンドの方々が参加する哲学学校の大きな特徴だなとあらためて思いました。

 

 

次回の偶数回は、2021年1月21日(木) 10:30~12:00です。

第36回として、第2篇第6章「時間性と、通俗的な時間概念の根源としての時間内部性」を扱います。

 

2020年5月から始まったみらいつくり哲学学校、これまで一回も休むことなく毎週続けてきましたが、残すところ奇数回、偶数回それぞれ1回ずつとなりました。

 

今のところの予定は

 

第35回 1/14(木) 10:30-12:00 (奇数回最終回)

第36回 1/21(木) 10:30-12:00  (偶数回最終回)

 

となっています。

 

 

 

哲学学校は、来年度も開催予定です。

 

今年度同様、奇数回と偶数回にわけて開催しようと思っています。

 

今年度とは違って、少しゆっくり、毎週ではなく隔週で開催を…と前回までの報告で書きましたが、それじゃあ一年で全30回が終わらないことに…。そんなことに今さら気づく…。ということで、隔週とはいかないまでも、時々休みを挟みながら今年度よりはちょっとゆったりと進めていけたらと思っています。

 

奇数回の「哲学入門」については、今年度の偶数回で扱ったハイデガーの『存在と時間』の訳者(中公クラシックス版)である渡邊二郎さんの『人生の哲学』(角川ソフィア文庫,2020年)を課題図書にしようと思っています。「人生の根本問題に向けて」というテーマで、全15回、「生と死を考える」「愛の深さ」「自己と他者」「幸福論の射程」「生きがいへの問い」という5つのカテゴリーで、ハイデガーをはじめとした様々な哲学に言及しながら書かれています。

 

偶数回の「哲学書」については、ハンナ・アーレントの『人間の条件』(志水速雄訳,ちくま学芸文庫, 1994年) にしようと思っています。

(ドイツ語からの訳書は『活動的生』森一郎訳, みすず書房, 2015年)

 

今年度のハイデガーの「弟子」でもあり「愛人」でもあった、こちらも20世紀を代表する哲学者/政治学者/社会学者であるアーレントの代表作ですね。

 

『存在と時間』よりは非常に読みやすい本だと思います。

 

こちらは、全部で45節あるので、15回で分けて毎回3節ずつ読み進めていこうと思っています。

 

 

 

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