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第33回 みらいつくり哲学学校 「尊厳論エッセンス」開催報告

2020年12月22日(火) 10:30~12:00、第33回となる「みらいつくり哲学学校オンライン」を開催しました。

 

奇数回は、大阪哲学学校編『生きる場からの哲学入門』を課題図書にしています。

 

今回は、哲学学校の共同主催者である障害当事者のあいさんがレジュメ作成および報告を担当してくれました。

 

 

テーマは、「尊厳論エッセンス」でした。

 

筆者は、様々な哲学者の言葉を通して尊厳というものを哲学していきます。

 

 

「男性と女性」のように違いのある両者が平等といえるのはなぜか、という問いからはじまります。それは両者に「尊厳」があるからだと筆者はいいます。

 

尊厳の中には、人間だけが持ちうる「有責的尊厳」があると述べます。

 

有責的尊厳とは「存在しているものの求めに責任をもって応答し、それを実行することを自己存在の自覚的合目的性とすること、これが人間の崇高なる義務」であるといいます。

 

この義務とは、一般にイメージする他者からの強制的義務のことではなく、内発的義務のことを指します。

 

最首悟(さいしゅさとる)は、内発的義務を「自発的に内発的に、これは義務と思うようなこと」であるとし、人は他の人のために何かを行うことに一番深い喜びを感じるのではないか、と語っています。

 

このことからも、人は「誰かが困っていたら助けねばならない」というような、求めに応じて行動する義務があると自覚して生きる。それができる人間には有責的尊厳があるということです。

 

尊厳はあらゆる概念を超越した「最高善」であり、人間以外も、すべての存在者が有していると筆者は考えます。この世界の存在者すべてが尊厳をもっていて、誰も奪うことはできないものといえます。

 

尊厳という言葉の語源は、ギリシア語の「デコマイ」から来ていますが、概念語として

 

使いはじめたのはキリスト教とされています。

 

また、トマス・アキナスをはじめとする哲学者達の言葉から、「人間は理性と自律があり特別な存在のため、尊厳がある」と考えられていたことが分かります。

 

これらの定義は現代に当てはめにくく、以下のような疑問が浮かびます。

 

・人間以外の生命あるもの、なきものに尊厳はあるのか

・無脳症児、脳死状態などといった理性と自律をもたない人びとに尊厳はあるのか

 

筆者はこの疑問に対して、人間も、他の生物も無生物もすべてのものが自然から生まれ、結びつき、消えていきながらこの世界をつくっていて、その生命力(逆接的生命力)に尊厳がある。ゆえに、存在するものすべてに尊厳があると導きます。

 

 

現代社会では、自然災害やテロ、グローバル化によって生じる貧困、環境破壊などが、命の軽さと尊厳の空虚さを露呈させている現状があります。

 

グローバル化は、ごく少数の富者がその権力によって、貧者の存在自体を自由に操作・抹殺する自由を可能としました。筆者はこれを、存在者からの尊厳の「根こぎ」と言い表しています。

 

シモーヌ・ヴェイユは、人間は、根(自然)から切り離されると尊厳に辿り着けない存在であるとし、グローバル化を批判します。

 

根こぎの対義語として、「根づき」があります。ヴェイユのいう根とは、コミュニティのことを指します。「根づき」とは、地域の人々、仕事、言語、食、習慣、文化などが含まれたその場所の大地に根をはり人と関わりながら生活することで、人間を形成していくことです。

 

グローバル化によってコミュニティの特色は消えていき、根とは関係なく、支配権力の富や資本によってつくられた文化が、そうと気づかぬうちに人々に強制させます。

 

この「根こぎ」に対し、筆者は

 

「自然の逆接的生命力に根づいた地域、共同体として根づきを再建することが、グローバル化時代における尊厳の再生につながる」

 

と述べ、尊厳についての哲学は締めくくられました。

 

 

今回報告をしてくれたあいさんは、非常に分かりやすくレジュメをまとめてくださりました。

 

 

 

ディスカッションの内容は、

 

今回の内容は話が前後したり、様々な引用があったりして難しかったという感想や、本文には偶数回で課題図書になっている本の著者ハイデガーも登場していたことから、「我らがハイデガー」と盛り上がったりしました。

 

論点としては本文の「すべての存在に尊厳がある」ということから、「全体論的な考えは危ういのではないか」といった意見や、根を持とうとしない人達や、根づけない人達はどうすればいいのだろうかという話題から議論が広がりました。

 

根づけない人々については、 コミュニティ論の視点からニュータウンを作った事例について、その成功は完成した町ではなく、住民が町をどう維持していったかという点が評価されたという話がありました。このことから、コミュニティは人工的に作るのではなく自然発生的にできるものではないだろうかという意見がありました。

 

また全てのものに尊厳があるとしてしまうと、例えばコロナウイルスにも尊厳があるということで尊重しなければいけないことにもなる。という点からも、全てのものに尊厳を当てはめるのはやはり危険で、どこかで線引きをする必要があるのではないか。しかし、その線をどこで引くかという点も難しい問題だという話になりました。

 

今回は難しい内容でしたが、尊厳について考えるのは議論がいくらでも広げられるので面白いね。という話になって、今回は幕を閉じました。

 

 

一見、全てのものに尊厳があるというのは良いことのように思えます。ですがそうしてしまうと様々なことがうまく回らなくなってしまうかもしれないということを今回の議論で気づきました。

 

今回の内容は前回と同じか、それ以上に複雑な内容でこの報告を作るのは非常に大変でした。レジュメを作成してくれたあいさんが非常に分かりやすくまとめてくれたので、なんとか出来上がってよかったです。

 

 

第35回(奇数回最終回!)は、1月14日(木)10:30~12:00『生きる場からの哲学入門』より、「生活の吟味としての哲学―ソクラテスの弁明を読む」を扱います。

 

レジュメ作成と報告は、医療法人稲生会の理学療法士、羽根川哲夫が担当してくれます。

 

今年の哲学学校は今回で最後、今年度の哲学学校もあと3回で終了です!

 

終わると思うと寂しいですが、来年度のセカンドシーズン?も楽しみですね。

 

 

当日参加だけでなく、希望があればアーカイブ動画も共有できます。ぜひ、ご連絡ください。

皆さまのご参加をお待ちしております。

 

執筆:吉成亜実(みらいつくり研究所 リサーチフェロー兼ライター)