Works

第32回 みらいつくり哲学学校 『存在と時間』第2篇第4章「時間性と日常性」(後半)

かなり前になってしまいましたが、2020年12月15日(火) 10:30~12:00で、第32回となる「みらいつくり哲学学校オンライン」を開催しました。

 

偶数回はマルティン・ハイデガーの『存在と時間』を課題図書にしています。

 

今回は、第2篇第4章「時間性と日常性」の後半部分を扱いました。

 

本章の前半部分でハイデガーは、時間性として到来、既在性、現在をあげました。

これらの時間性は「脱自性」という性質をもち、それによって現というものが「明るくされている」といいます。

 

後半部分の最初、第69節「世界内存在の時間性と、世界の超越の問題」においてハイデガーは、世界というものを時間的に分析していきます。

 

(a)配視的な配慮的気遣いの時間性

 

現存在が自らの周りにある道具を気遣うとき、それは「配視的な配慮的気遣い」と呼ばれます。

この、現存在の道具への気遣いの時間性は、「予期しつつある保有」という特徴をもつと言います。

その道具がどのような目的で使われるものかということを過去の経験から知っており、その使用方法を忘れていない、という意味でしょうか。

 

ときに、そういった道具は「壊れている」ことがあります。このような「利用しえないもの」の持つ特徴をハイデガーは「欠落」と呼びます。

 

その他、「不意打ち」をする道具的存在者とか、「抵抗」する道具的存在者といった例をハイデガーは出しますが、要するに、現存在の周りにはさまざまな道具的存在者があり、それぞれに道具としての有意義性はありながらも、現存在はそれらすべてを道具として用いることができるわけではない、といったような意味でしょうか。

 

(b)配視的な配慮的気遣いが世界内部的な事物的存在者の理論的暴露へと変様することの時間的意味

 

次にハイデガーは、配視的な配慮的気遣いのうちの「理論的態度」、つまり「学的研究」について分析します。

 

普段道具を使うとき、現存在は道具的存在者を実践的に「操作」しています。

その「操作」を中止して、その道具的存在者に「滞留」を続けるということが「理論的な研究活動」なのだと言います。

 

ここで注意が必要なのは、ハイデガーはこの実践と理論について、このように書いてあるということです。

 

「実践にはその種別的な視(「理論」)が固有であるのと同様に、理論的研究もそれ固有の実践なしではない」

 

「実践と理論の関係」というのは、社会科学における非常に大きなテーマですが、ハイデガーはこれら二つを分けることのできないものとして捉えているということです。

 

理論的研究において現存在は、道具的存在者を「として」構造で捉えています。

この「として」についてはハイデガーは、「了解および解釈一般と同様に、時間性の脱自的・地平的統一のうちにもとづいている」と言います。

 

例としてハイデガーは、ハンマーを挙げます。

 

たとえば、ハンマーを使って仕事をしようと思ったのだが、そのハンマーが上手く使えないほどに重かったとしましょう。

そのとき現存在は、ハンマーが「重さ」という性質をもっているということに気づきます。

さらには、「ハンマーを道具として使うときに、どのくらいの重さが適しているのか」「柄の部分はどのような形であれば使いやすいのか」といったことを考えます。

これらはすべて「理論的な研究」ということになりますね。

 

ハイデガーは、「学」というもの時間性で捉えた場合、「企投」であると考えられると言います。

例として数学的物理学を挙げていますが、運動や力などを量的に分析する際、「自然というものを数学的に企投している」というのです。

 

こういった学的な企投のはたらきをハイデガーは、「主題化」と名付けます。

 

研究をする際、まずは自分の「問題関心」に始まり、それを実際にどのような方法で研究するかということを考え、それを一文でまとめたものを「リサーチ・クエスチョン」と言ったりしますが、この「リサーチ・クエスチョン」をつくることが主題化ということができるでしょうか。

 

ハイデガーはこの主題化について、以下のように述べています。

 

主題化のめざすところは、世界内部的に出会われる存在者を、それがそれ自身を純然たる暴露に「対して投げかけてくる」ことができるような仕方で、言いかえれば、客観となることができるような仕方で、解放することにある

 

つまり、主題化は客観化することだ、というのですね。

 

ハイデガーは、「主観」と「客観」という表現をかなり慎重に使います。

それは、デカルト的な二元論に陥らないようにするためです。

 

ハイデガーはここでも、「客観化」について重要な留保をつけます。

そこで出てくる概念が「超越」です。

 

ハイデガーは、以下のように述べます。

 

事物的存在者の主題化 = 自然の学的企投が可能になるためには、現存在は主題化された存在者を超越していなければならない
⇒ 超越は、客観化にあるのではなく、客観化が超越を前提しているのである

 

ムムム…という感じですね…。

 

この「超越」については、次の部分で説明されます。

 

(c)世界の超越の時間的問題

 

第1篇第4章の「世界の世界性」のところで扱ったとおり、ハイデガーのいう世界とは、道具的存在者の「有意義性の統一」でした。

 

現存在は、世界内存在という特徴をもちます。

つまり、「現存在は実存しつつおのれの世界なのである」。

 

そしてこの世界が、実存論的に、および時間的に「可能性」をもつということは、時間性が脱自的統一として地平といったようなものをもっていることのうちにひそんでいる、と言います。

 

また、「脱自態には、脱出の『行き先』が属している」として、それを「地平的図式」と名付けます。

 

つまりハイデガーは、世界や、そこに存在する現存在を、静的にとらえているのではなく、「時間性」という要素を含めて動的(ダイナミック)に捉えているということですね。

 

この「地平的図式」についてハイデガーが書いていることを列記します。

 

●現存在が、本来的にであれ非本来的にであれ、そのうちで到来的におのれに向かって到来する図式 = おのれのためという目的性

到来の地平においては、そのつどなんらかの存在しうることが企投されている

●現存在が、被投的なものとして、そのうちでおのれ自身に情状性において開示されている図式 = 被投性が直面している場面、ないしは引き渡しが委ねられている場面  = 既在性の地平的構造(※~するために)

既在性の図式においては、「すでに存在している」が開示されている

 

●おのれという目的のために実存しつつ、被投されたものとしてのおのれ自身に引き渡されて、現存在は、何かのもとでの存在として、同時に現成化しつつあるのである  = 現在の地平的図式は手段性によって規定されている

現在の地平においては、配慮的に気遣われたものが暴露されている

 

諸脱自態の図式の地平的統一が、手段性の諸関連と目的性との根源的な連関を可能化する
⇒ 時間性の脱自的統一の地平的な機構を根拠として、そのつどおのれの現である存在者には、開示された世界といったようなものが属している

 

現存在が時熟するかぎりにおいて、なんらかの世界も存在する
⇒ 現存在は、おのれの存在に関して時間性として時熟しつつ、時間性の脱自的・地平的な機構を根拠として、本質上、「なんらかの世界の内で」存在している
⇒ 世界は、事物的に存在しているのでもなければ、道具的に存在しているのでもなく、時間性のうちで時熟するのである
⇒ 世界は、諸脱自態のおのれの外へと脱け出ている脱自とともに「現にそこに存在している」
⇒ いかなる現存在も実存していないなら、いかなる世界も「現にそこに」存在していないのである

 

道具的存在者のもとでの現事実的な配慮的に気遣いつつある存在、事物的存在者の主題化、およびこの事物的存在者を客観化しつつ暴露すること = すでに世界を前提している
= 言いかえれば、世界内存在という在り方としてのみ可能なのである
⇒ 脱自的時間性の地平的統一にもとづきつつ、世界は超越的である
⇒ 世界がすでに脱自的に開示されているからこそ、世界のほうから世界内部的存在者が出会われうるのである
⇒ 現存在が、そのときそのとき、何を、どのような方向において、どの程度まで、またどのように暴露し開示するかということだけが、たとえ現存在の被投性の諸限界内においてであるにせよ、現存在の自由にできることがらなのである

 

世界の構造を規定している有意義性の諸関連は、なんらかの無世界的な主観によって或る素材のうえに蔽いかぶせられた諸形式の網目細工ではない
⇒ むしろ現事実的現存在は、脱自的におのれとおのれの世界とを現の統一において了解しつつ、これらの諸地平から、これらの諸地平の内で出会われる存在者のほうへと復帰する

 

すみません、まとめられないのでただただ列記しました…。

 

ハイデガーはここで、「超越」と「主観」「客観」についても、下記のように述べて注意を促します。

 

「超越問題」
・どのようにして主観というものは客観というものへと踏み出てゆくのか、という問いへと変えられることはできない
・問われなければならないのは、存在者が世界内部的に出会われることができ、出会われるものとして客観化されることができるということ、このことを何が存在論的に可能化するのかということなのである
⇒ 世界の脱自的・地平的に基礎づけられた超越へと還帰することによって、その答えは与えられる

 

「主観」が実存しつつある現存在として実存論的に把握され、そうした現存在の存在が時間性にもとづいているとすれば、世界は「主観的」であると言わなければならない
⇒ しかし、そのときにはこの「主観的」な世界は、時間的・超越的な世界として、あらゆる可能的な「客観」よりも「いっそう客観的」なのである

 

第70節 現存在にふさわしい空間性の時間性

 

この章の最後で、ハイデガーは再び「空間性」の分析を行います。

 

空間性を時間的に考えるとき、

 

・現存在は空間を取り入れている

・実存しつつ現存在は、そのつどすてに、なんらかの活動空間の場を許容してしまっている

 

とハイデガーは言います。

 

現存在がおのれに空間を許容するはたらきについては、第1篇第4章「世界の世界性」の中での空間性に関する分析ですでに述べたとおり、方向の切り開き(布置)と遠ざかりの奪取(距―離)というものによって構成されていると言います。

 

そして、

 

・現存在が空間を許容することには、おのれの方向を切り開きつつ、方域(方面)といったようなものを暴露することが属している

 

というのですが、この方域については、

 

・方域:環境世界的に道具的に存在していて、所在の場所を定められうる道具が、そこに属するのに適していることの可能な、そうした帰属すべき場所のこと

 

・おのれの方向を切り開きつつ方域を暴露すること:可能的な彼方と此方とを脱自的に保有しつつ予期することにもとづく

・おのれに空間を許容すること:方域についての方向を切り開かれた予期として、等根源的に、道具的存在者や事物的存在者を近づけること(遠ざかりを奪取すること)

 

として整理しています。

 

これらをまとめて、

 

・現存在は時間性として、おのれの存在において脱自的・地平的であるゆえに、現事実的にまた不断に、その場を許容されたなんらかの空間をたずさえることができる

 

と述べています。

 

またハイデガーは、「現事実的な状態ないしは状況における此所(ここ)」というものは、「空間上の位置」ではなく、「最も身近に配慮的に気遣われた道具全体の圏域がもっているところの、方向の切り開きおよび遠ざかりの奪取において開かれた活動空間」と表現します。

 

第71節 現存在の日常性の時間的意味

 

本章の最後でハイデガーは、本章のタイトルにもなっている「時間性と日常性」についての分析に戻ります。

 

「日常性」とは、「現存在が差しあたってたいていそのうちにおのれを保持している存在様式」のことです。

 

以下、ハイデガーによる日常性の時間的分析を列記します。

 

日常性という表現
・現存在がそのうちで「毎日」おのれを保持しているところの、まさにその実存する様式
・「一生涯の間」現存在をあまねく支配しているところの、いかに実存するかの或る特定の仕方
「差しあたって」とは、現存在が公共性という相互共存在において「あらわに」存在しているときの在り方
・現存在が「何ということもなくどうやら無事にその日その日を生きている」仕方
習慣にひたることの愉楽が属している
・日常性は、現存在がおのれのために世人を「主人公」(英雄)として選んでおかなかったときですら、現存在を規定している
・この存在する仕方には公共的な公開性が帰属している
・色あせた無気分という情状性
・日常性で息苦しい「悩みを感じ」、その息苦しさのうちに沈み込むと、さまざまの用事にかまけて気をまぎらわそうとして、新しい気散じを求めるという仕方でその息苦しさを回避することがある
・しかしまた実存は、瞬視において、たとえ日常を消滅させることはけっしてできないにせよ、日常を支配することもある

 

 

コロナ禍においては、現存在はこの「日常性」という仕方ではいられなくなっている、と言えるでしょうか。

「ニュー・ノーマル(新たな日常性)」という言葉が一時期よく用いられましたが、はたしてそれは肯定的に捉えられるようなことなのでしょうか。

 

ハイデガーは本章の最後に、次の第5章、第6章を先取りするような内容の記述をして終わっています。

 

・現存在は、おのれの時間を過ごしつつ、毎日毎日「時間」を計算に入れ、その「計算」を天文学的・暦法的に規制する
・われわれが、現存在の日常的な「生起」と、この生起において現存在によって配慮的に気遣われた「時間」計算とを、現存在の時間性の学的解釈のなかへと引き入れたときにはじめて、方向定位は十分に包括的なものとなって、その結果、日常性そのものの存在論的意味を問題化することができるにいたる

 

 

今回のディスカッションでは、「世界の超越」のところに関連して、なんと「能の舞台」の話になりました。

 

日本の伝統芸能である「能」の舞台では、柱があって、屋根があって、それによって「結界」というものがつくられているとのこと。屋外で能の舞台をやるときにはもちろん柱はないのですが、能を観ていると「柱(結界)」というものが見えてくることがあるんだそうです。

 

ハイデガーの「世界」を考えるとき、この能における「舞台」のようなものと考えるとわかりやすいかも、という意見が出ました。

 

哲学学校のレギュラーメンバーには建築家がいるのですが、建築においては「空間などというものはない」というテーゼがあるんだそうです。

また、アインシュタインは「空間というのは、物があってエネルギーがあるということだ」と述べていると言います。

 

こういったことが、今回の章でハイデガーが初めて持ち出してきた「活動」という概念と関係しているかもしれない、といったような議論になりました。

 

ハイデガーと「能」が関連づけられて議論される。

みらいつくり哲学学校ならではの議論だなと思います。

 

 

次回の偶数回は、2021年1月7日(木) 10:30~12:00です。

第34回として、第2篇第5章「時間性と歴史性」を扱います。

 

 

2020年5月から始まったみらいつくり哲学学校、これまで一回も休むことなく毎週続けてきましたが、残すところ偶数回2回、奇数回1回となりました。

 

今のところの予定は

 

第34回 2021/1/7(木) 10:30-12:00 (偶数回)

第35回 1/14(木) 10:30-12:00 (奇数回最終回)

第36回 1/21(木) 10:30-12:00  (偶数回最終回)

 

となっています。

 

 

 

哲学学校は、来年度も開催予定です。

 

今年度同様、奇数回と偶数回にわけて開催しようと思っていますが、来年度はもう少しゆっくり、隔週の開催にしようと考えています。

 

奇数回の「哲学入門」については、今年度の偶数回で扱ったハイデガーの『存在と時間』の訳者(中公クラシックス版)である渡邊二郎さんの『人生の哲学』(角川ソフィア文庫,2020年)を課題図書にしようと思っています。「人生の根本問題に向けて」というテーマで、全15回、「生と死を考える」「愛の深さ」「自己と他者」「幸福論の射程」「生きがいへの問い」という5つのカテゴリーで、ハイデガーをはじめとした様々な哲学に言及しながら書かれています。

 

偶数回の「哲学書」については、ハンナ・アーレントの『人間の条件』(志水速雄訳,ちくま学芸文庫, 1994年) にしようと思っています。

(ドイツ語からの訳書は『活動的生』森一郎訳, みすず書房, 2015年)

 

今年度のハイデガーの「弟子」でもあり「愛人」でもあった、こちらも20世紀を代表する哲学者/政治学者/社会学者であるアーレントの代表作ですね。

 

『存在と時間』よりは非常に読みやすい本だと思います。

 

 

 

みらいつくり哲学学校オンラインについてはこちら↓

「みらいつくり哲学学校 オンライン」 始めます