2020年12月1日(火) 10:30~12:00で、第30回となる「みらいつくり哲学学校オンライン」を開催しました。
偶数回はマルティン・ハイデガーの『存在と時間』を課題図書にしています。
今回は、第2篇第4章「時間性と日常性」の前半部分を扱いました。
ハイデガーはいつも、「さしあたりたいてい」という「日常性」から分析を始めます。
第2篇第4章では、第1篇第5章ですでに分析された「現の開示性」について、「時間性」という観点から、「日常性」という視点で分析を行います。
第1篇第5章Aでは、「現の開示性」の契機として、
①了解
②情状性(気分)
③語り
という3つが挙げられました。
これらの開示性が、「さしあたりたいてい」つまり「日常性」にある状態、その人固有ではなく他の人と変わらないような「世人(せじん)」あるいは「ひと」という状態として、「B. 頽落(たいらく)」というものが挙げられていました。
今回の第2篇第4章 第68節 「開示性一般の時間性」においては、なぜか
(a) 了解の時間性
(b) 情状性の時間性
(c) 頽落の時間性
(d) 語りの時間性
ということで、「頽落」が「語り」の代わりに入っています。
「語りの時間性」については、あまり深くは分析されていません。
今年(2020年5月)に出版された、第2篇の詳細な注解書(実は他にあまりない。他は第1篇の注解書がほとんど)である須藤訓任『「存在と時間」第2篇評釈 本来性と時間性』においても、「語りの時間性」に関する部分について
「どうも、本節は投げやり的というか、及び腰的になっている気配がある。テーマに本気になっていない。あるいは、本気になったら、その先に拓けてくる問題の重大さに怯えて、蓋をしてしまったとでも言ったらよいのだろうか」(p.368)
と書かれています。
ということで今回は、上記(a)~(c)についてまとめてみたいと思います。
(a) 了解の時間性
了解というのは、到来(将来)へと自らを企投することでした。
本来的な到来というのは 先駆 と表現されました。
これに対して非本来的な到来とは何だろうか、その時間性とはどのようなものだろうか、というのがここで分析されます。
ハイデガーは非本来的な到来のことを 予期 と呼びます。
予期ってなんとなく、「到来(将来)」からきているような気がしますよね。
でもハイデガーは、予期においては、
「配慮的に気遣われたもののほうから現存在は、おのれへと向かって到来する」
のだと言います。
この際現存在は、「ひと」「世人自己」として気遣いをしていると言うのです。
ちなみにここでハイデガーは、「期待」というのも「予期」にもとづいている、つまり「非本来的な到来」だと言っています。
ちなみにハイデガーは、「現在」というものについても本来的なものと非本来的なものを区別します。
本来的な現在のことを 瞬視(瞬間) と呼びます。
この瞬視について
「瞬視は、本来的に現に何かと向き合い現成化するという意味での現在として、道具的存在者や事物的存在者のありさまで『なんらかの時間の内で』存在しうるものを、はじめて出会わせる」
と説明しています。
これに対して非本来的な現在は 現成化(現在化) と呼びます。
この現成化とは、「没瞬視的で非決意的」なものだとされます。
次に、「既在」についてみてみましょう。
本来的な既在については 取返し(反復) と呼んでいます。
この取返し(反復)については
・おのれの単独化のうちへと被投された最も固有な自己のほうへと復帰すること
・おのれがすでにそれである存在者を、決意しつつ引き受けるということ
と説明しています。
それまでの自分自身を、それそのものとして受け止める、みたいな感じなんでしょうか。
これに対して非本来的な既在は 忘却 と呼ばれます。
この忘却については
・配慮的に気遣われたものを現成化しつつそこから汲み取られた諸可能性をめがけて、非本来的におのれを企投すること
・忘却という、既在性の一つの固有な「積極的な」脱自態(脱出)は、最も固有な既在に直面して、おのれ自身を閉鎖しつつ、そこから脱走するという性格をもっている
と説明されます。
ここまでのところをまとめると
本来性 / 非本来性
到来 先駆 / 予期
現在 瞬視 / 現成化
既在 反復 / 忘却
という表になりますね。
(誰かWordpressで表をつくる方法を教えてほしい…)
(b) 情状性の時間性
つぎに、情状性(気分)の時間性です。
ここでは、代表的な情状性のいくつかについてその時間性が分析されます。
まず初めに、情状性の時間性のベースは、「既在性」にあるということをおさえておく必要があります。
前節 (a)了解の時間性 のベースが「到来」にあったのと異なりますね。
まずは 恐れ の時間性です。
恐れとは、非本来的な情状性でした。
ハイデガーは、恐れの時間性は「予期」であると言います。
そしてまた、恐れの実存論的・時間的意味は「自己忘却」によって構成されていると言います。
恐れの時間性は「予期しつつ現成化する一つの忘却」とまとめられます。
「非本来的な時間性」が3つそろった感じですね。
これに対して根本情状性である 不安 の時間性については、
・不安は、最も固有な、単独化された被投性の純然たる事実のほうへと連れ返す
・不安の現在は、最も固有な被投性のほうへとおのれを連れ戻すことのうちに保持され落ち着いている
と言います。「不安においては落ち着いている」というのも、変な感じですけどね。
このようにハイデガーは、恐れに対して不安を重視するわけですが、といっても、
・しかし、不安のこの現在は、必ずしも、決意において時熟する瞬視という性格をもっているわけではない
・不安は或る可能的な決意の気分のなかへと連れ込むだけなのである
・不安の現在自身が瞬視として可能であり、また不安の現在のみが瞬視として可能なのだが、そうした不安の現在は、瞬視を、まさに跳躍させようと保持しているのである
と言います。
「不安において現存在は、決意を迫られている(本来的な現在を生きるかどうかを迫られている)」
みたいな感じで理解できるでしょうか。
ハイデガーは不安に特有な時間性を
・不安が根源的には既在性にもとづいており、既在性のうちからはじめて到来と現在が時熟するということ
・不安は不気味さによって心を奪い去られているが、現存在を「世界的な」諸可能性から奪い返すだけでなく、同時に現存在に、或る本来的な存在しうることの可能性を与えるのである
・不安の到来と現在は、取り返し可能性のほうへと連れ返すという意味での根源的な既在しつつ存在していることのうちから時熟する
・不安は、「空しい愚劣な」諸可能性から解放し、本来的な可能性に向かって自由に開放させるのである
と説明します。
不安と恐れという情状性を比較して、
・第一次的にはなんらかの既在性にもとづいているとはいえ、気遣いの全体における両者それぞれに固有な時熟に関しては、両者の根源は異なっている
・不安は決意性の到来から発現し、恐れは喪失的な現在から発現し、恐れは、こうした現在を恐ろしげに恐れ、その結果、こうした現在の手に落ちて頽落するにいたる
と述べています。
その他の情状性として 希望 と 無関心 が挙げられます。
「希望」というとなんとなく良いイメージを持ちますが、ハイデガーはあまりそういった捉え方をしません。
光文社古典文庫訳の解説(第7巻 p.363)によると
「希望は明るい到来を考えることで現存在の心を軽くするのであるが、それはすでに重くされた現存在の気分を軽くする役割を果たすのである。だからこそ逆に「希望という情状性が、既在しつつ存在しているという様態で、心の重荷とかかわりつづけている」と言える」
とのことです。
無関心については
・この色あせた気分こそ、最も身近な配慮的な気遣いから生ずる日常的な諸気分における忘却の威力を最も強烈に実証する
・その日暮らしは、忘却しつつおのれを被投性に引き渡すことにもとづいており、非本来的な既在性という脱自的意味をもっているのである
・大あわての多忙さと両立しうるような無関心は、落ち着いた気分からは峻別されなければならない
だと説明しています。
(c) 頽落の時間性
そして最後に「頽落」の時間性ですが、これのベースは「現在」にあると言います。
第1篇第5章Bにおける分析で、頽落には ①空談 ②好奇心 ③曖昧性 というものがあり、それぞれが「語り」「情状性」「了解」に関係していたのですが、本節ではなぜか②好奇心(つまり情状性に関係)についてのみ分析がなされます。
この辺の分析の恣意性が、うーん…となってしまうところですね。
情状性の時間性については、前節(b)でやったはずですからね。その情状性が「頽落」した状態にあるところの「好奇心」について (c)頽落の時間性 という本節で分析しますよ、ということですからね。
このあたりは、前述の須藤訓任さんによる評釈書で「無差別性と差別性」という用語で詳細に分析されています。
本来性か非本来性かが決まっていないというのが 無差別性
本来性あるいは非本来性のどちらかというのが決まっているのが 差別性
としてそこでは整理されています。
須藤さんによれば、現の開示性の契機としての A. ①了解 ②情状性 ③語り というのは 無差別性 であり、
B. 頽落 ①空談(語りに関係) ②好奇心(情状性に関係) ③曖昧性(了解に関係) というのは 差別性 であるのだが、
本68節における分析はこれがごちゃごちゃになっている、ということですね。
まあ、それは置いておいて、ここではハイデガーの言うとおり、「好奇心」の時間性の分析について見てみましょう。
好奇心の時間性について
・好奇心は、事物的存在者のもとに滞留しつつ、それを了解するために、その事物的存在者を現成化するのではなく、むしろ好奇心は、たんに見てとり、そして見おえてしまうためにのみ、見ようと努めるのである
・現成化することとして好奇心は、それに対応した到来と既在性との或る脱自的統一のうちにおかれている
・好奇心は、徹頭徹尾、非本来的に到来的
・好奇心が可能性というものを予期しておらず、すでに可能性をただ現実的なものとしてだけおのれの渇望のうちで熱望するというように非本来的に到来的なのである
・好奇心は、保持を欠いていらだっている現成化することによって構成されている
・この現成化は、予期することから不断に逃走しようと努めるにもかかわらず、保持を欠いていらだちつつ「保持されて」いる
・現在は、それに帰属している予期から、逃走という強調された意味において「発現しつつ跳び去る」
・予期は、いわばおのれ自身を破棄する
・予期することが、発現しつつ跳び去る現成化することによって、追跡しつつ跳んでゆく予期へと脱自的に変様するということが、気散じの可能性の実存論的・時間的な条件
・追跡しつつ跳んでゆく予期によって、現成化することは、ますます現成化すること自身にまかされる
・現成化することは、現在という目的のために現成化するのである
・気の散った無滞留は滞在するところを失ってしまう(現存在は、いたるところに存在しているとともにどこにも存在していない)
⇒ この様態は瞬視(実存を状況のなかへと連れこみ、本来的な「現」を開示する)に対する最も極端な反対現象
ちょっと引用が長くなりましたが、要するに「好奇心」とは、「瞬視」の正反対の状態ということですね。
頽落というのは、「世界」に投げ込まれている=「世界におのれを喪失している」状態なのですが、これについてハイデガーは以下のように書いています。
・「世界」におのれを喪失し、共に連れ去られてゆくということの実存論的意味をなしている現在は、それ自身からは、けっして現在以外のなんらかの脱自的地平を獲得することはない
・もしも獲得することがあるとすれば、この現在が、決意においておのれの喪失性から連れもどされ、保持された瞬視としてそのときどきの状況を開示し、死へとかかわる存在という根源的な「限界状況」をもそれと一緒に開示するにいたるときだけである
「保持」は本来的な既在である「取返し(反復)」と同じようなものだと考えてよいので、
「決意」「保持」「瞬視」と、本来的な「到来」「既在」「現在」がそろった上で、「死へとかかわる」という「全体性」が確保されたときに初めて、「脱自的地平」というものが獲得されるということなんですね。
今回のディスカッションでは、以下のような話題が出ました。
・ハイデガーは本来性のことを固有性として捉えているが、自分の固有性というのは生まれながらに決まっていて、それは変えられないのか?逆に、非本来的な生き方をしていたとして、そこから得られるものはないのだろうか?
・ハイデガーのいう既在とは、「過去」ではなく、「過去の自分とどう向き合うか」ということなのではないだろうか。
・過去をどう捉えるかというとき、「金太郎飴」みたいに、どこを切っても「同じ自分」が出てくるということではないんだろうと思う。生きていくうちに、色や素材がだんだん変わっているはず。
・アインシュタインの時代は、「時間」というものを食パンにたとえていたと聞いたことがある。金太郎飴と似た例え?
今回から「時間性」の分析が本格的に始まったわけですが、ハイデガーの分析の進め方が複雑になっている(というよりおかしな進め方になっている?)ということもあり、なかなかに理解が難しい部分ではありましたが、第3分冊に入って、レギュラーメンバーの中では「ハイデガーの考え方」「ハイデガーの分析の進め方」の特徴がだいぶわかってきたような感じがあります。
次回奇数日は12月10日(木) 10:30~12:00です。
『生きる場からの哲学入門』より、第Ⅲ部第3講「抽象と具体の狭間から」です。
次回の偶数回は、12月15日(火) 10:30~12:00です。
第32回として、第2篇第4章「時間性と日常性」の後半部分(第69~71節)を扱います。
2020年5月から始まったみらいつくり哲学学校、これまで一回も休むことなく毎週続けてきましたが、奇数回・偶数回それぞれ残すところ3回ずつとなりました。
今のところの予定は
第31回 12/10(木) 10:30-12:00
第32回 12/15(火) 10:30-12:00
第33回 12/22(火) 10:30-12:00
第34回 2021/1/7(木) 10:30-12:00
第35回 1/14(木) 10:30-12:00 (奇数回最終回)
第36回 1/21(木) 10:30-12:00 (偶数回最終回)
となっています。
哲学学校は、来年度も開催予定です。
今年度同様、奇数回と偶数回にわけて開催しようと思っていますが、来年度はもう少しゆっくり、隔週の開催にしようと考えています。
奇数回の「哲学入門」については、今年度の偶数回で扱ったハイデガーの『存在と時間』の訳者(中公クラシックス版)である渡邊二郎さんの『人生の哲学』(角川ソフィア文庫,2020年)を課題図書にしようと思っています。「人生の根本問題に向けて」というテーマで、全15回、「生と死を考える」「愛の深さ」「自己と他者」「幸福論の射程」「生きがいへの問い」という5つのカテゴリーで、ハイデガーをはじめとした様々な哲学に言及しながら書かれています。
偶数回の「哲学書」については、ハンナ・アーレントの『人間の条件』(志水速雄訳,ちくま学芸文庫, 1994年) にしようと思っています。
(ドイツ語からの訳書は『活動的生』森一郎訳, みすず書房, 2015年)
今年度のハイデガーの「弟子」でもあり「愛人」でもあった、こちらも20世紀を代表する哲学者/政治学者/社会学者であるアーレントの代表作ですね。
『存在と時間』よりは非常に読みやすい本だと思います。
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