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第28回 みらいつくり哲学学校 『存在と時間』第2篇第3章「気遣いの存在論的な意味としての時間性」

2020年11月19日(木) 10:30~12:00で、第28回となる「みらいつくり哲学学校オンライン」を開催しました。

 

偶数回はマルティン・ハイデガーの『存在と時間』を課題図書にしています。

 

今回は、第2篇第3章「現存在の本来的な全体存在しうることと、気遣いの存在論的な意味としての時間性」を扱いました。

 

今回からいよいよ最後の第3分冊に入りましたが、ここにきてようやく『存在と時間』のタイトルにも入っている「時間」の議論が始まります。

 

といっても、本格的な「時間」の議論が始まるのは、次回の第2篇第4章から…。「時間」について深く分析していく前の、準備段階として「現存在の本来性」「現存在の全体性」「気遣い」といった存在論的概念について振り返っておきましょう、といった感じの内容です。

 

前回の第2篇第2章において、「先駆的決意性」という概念が出てきました。これは、この「先駆的決意性」によって、現存在は「本来的な全体存在」になれるのだということでした。この「先駆的決意性」という現象に即して、「時間性」というものが「経験される」とハイデガーは言います。

 

ハイデガーは、「時間は存在しない」と言います。

 

その代わり、

 

「時間性は、さまざまな可能性において、また様々な仕方において時熟することができる」

 

と言います。

 

私たちは普段、「時間があまりない」とか「時間はまだたっぷりある」とか言いますよね。あたかも、「時間」というものを「存在者」のようにとらえていますが、ハイデガーによるとそれは「通俗的な時間概念」だとされます。

 

「通俗的な時間概念」においては、

 

過去 → 現在 → 未来

 

といった「単線的で一方向的な時間の流れ」が想定されます。

 

これに「人間の一生」をあてはめてみると、

 

(誕生) → 過去 → 現在 → 未来 → (死)

 

となるわけですが、ハイデガーによればこれも「通俗的な捉え方」ということになるわけです。

 

つまり、「死は未来のどこかでやってくるもの」であり、「今ではない」というふうに考えるのが「世人(ひと)」のあり方なのである、ということでした。

 

そうではなく「本来的に死のことを考える」、それは前章では「良心をもとうと意志すること」とされたわけですが、それによってはじめて現存在は「本来的で全体的な存在」になれるのだとされました。

 

時間についても、このように「本来的な捉え方」をしなければならないということなんですね。

 

このまま「本来的な時間概念」の分析に入っていくと思いきや、第64節では突如として「気遣いと自己性」ということについて考察し始めます。

 

この考察の中で再び、「主観性」というものが俎上にあげられ、またもカントやデカルトが批判されるのですが、その長いこと…。正直、なぜこの章のこの部分で「自己性」について考える必要があったのか、あまりよくわかりませんでした。

 

次の第65節になって、「気遣いの存在論的意味としての時間性」というものが考察されます。

 

ここで「到来」というハイデガー独自の術語が出てきます。訳書によっては「将来」と訳されているものもあります。

 

また「既在」という術語も出てきます。

さらに「現成化」という術語も出てきます(訳書によっては「現在化」)。

 

ここで注意なのは、非本来的な「過去」「現在」「未来」に対して、それぞれ本来的なものが「既在」「現成化」「到来」ではないということです。

 

時間というものを実存論的にとらえる上で必要な術語が「既在」「現成化」「到来」だといったほうがよいかと思います。

 

それぞれの意味は

 

●おのれに先んじて ⇒ 到来 にもとづく
●何かの内ですでに存在している ⇒ それ自身において既在性を表明している
●何かのもとでの存在 ⇒ 現成化することのうちで可能化される

 

とされます。

 

ハイデガーの時間概念の特徴は、上記の3つの術語の中で「到来」というものに優位がおかれているということです。

 

これら3つの術語は、以下のように「時間性を脱自としてあらわにする」という現象的性格をもつと言います。

 

●到来 ⇒ 「おのれへと向かって」
●既在性 ⇒ 「のほうへともどって」
●現在 ⇒ 「を出会わせる」

 

本章でもう一つ出てくる術語は「瞬視」です。

これは、「現在」を本来的にとらえたものとされます。

 

このような「到来」を優位とする時間性には、「おのれへと向かって到来することの有限性」があると言います。

 

この「有限性」とは、「非力さ」とも表現されます。

 

現存在の「到来」については、常に「死」という「非力さ」がある。それが「有限性」である、ということですね。

 

第65節の最後でハイデガーは、自らの「根源的な時間性の分析」における5つのテーゼ(仮説)を示します。

 

①時間は根源的には時間性の時熟としてある
②そのような時熟として時間は気遣いの構造の構成を可能化する
③時間性は本質上脱自的である
④時間性は根源的に到来から時熟する
⑤根源的時間は有限的である

 

第66節では、続く第4~6章で「時間」の分析がどのようになされるのかということを予告します。

 

第4章 日常性と時間性

第5章 歴史性と時間性

第6章 時間内部性と時間性

 

 

今回のディスカッションでは

 

「ついに『時間性』に関する議論が始まって、ものすごく面白く読めた!」

 

という声が2名の参加者からあがっていました。

 

その他には

 

「自分たちが普段考える『時間』の概念が、ハイデガーの言う時間の議論をわかりにくくさせてしまっている」

 

「『みらいつくり』というのは、『未来』をつくるということだから、すごい通俗的なものをつくってるってことになっちゃう?(笑)」

 

「『既在』というのは、『過去を振り返る』ということとは違う?」

 

と言った声が出ました。

 

また、「みらいつくり大学」の他の講座との関連で、最近「みらいつくり映画同好会」の課題作となった映画『インターステラー』について言及する参加者がたくさんいました。

 

『インターステラー』では、相対性理論にもとづいた「時間のズレ」が重要なテーマになっています。また、同じクリストファー・ノーラン監督による最新作『TENET』では、「時間の逆回し」が重要なテーマになっていて、そのことについても言及されました。

 

今回のように、他の活動ともリンクしてくるのが、みらいつくり大学の面白いところです。

 

次回奇数日は11月26日(木) 10:30~12:00です。

『生きる場からの哲学入門』より、第Ⅲ部第2講「プラグマティズム」です。

 

次回の偶数回は、12月1日(火) 10:30~12:00です。

第30回として、第2篇第4章「時間性と日常性」の前半部分(第67,68節)を扱います。

 

 

2020年5月から始まったみらいつくり哲学学校、これまで一回も休むことなく毎週続けてきましたが、奇数回・偶数回それぞれ残すところ4回ずつとなりました。

 

今のところの予定は

 

第31回 12/10(木) 10:30-12:00

第32回 12/15(火) 10:30-12:00

第33回 12/22(火) 10:30-12:00

 

第34回 2021/1/7(木) 10:30-12:00

第35回 1/14(木) 10:30-12:00 (奇数回最終回)

第36回 1/21(木) 10:30-12:00  (偶数回最終回)

 

となっています。

 

半年以上も毎週開催してきて、あと2か月で終わると思うと、感慨深いやら、寂しいやら…。

 

「哲学に関する書籍をみんなで二冊読み終える」ということは、参加者の自信につながることと思います。

 

 

哲学学校は、来年度も開催予定です。

今年度同様、奇数回と偶数回にわけて開催しようと思っていますが、来年度はもう少しゆっくり、隔週の開催にしようと考えています。

 

偶数回の「哲学書」については、ハンナ・アーレントの『人間の条件』にしようと思っています。

 

今年度のハイデガーの「弟子」でもあり、「愛人」でもあった、こちらも20世紀を代表する哲学者/政治学者/社会学者であるアーレントの代表作ですね。

 

『存在と時間』よりは非常に読みやすい本だと思います。

 

 

 

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