2020年11月5日(木) 10:30~12:00で、第26回となる「みらいつくり哲学学校オンライン」を開催しました。
偶数回はマルティン・ハイデガーの『存在と時間』を課題図書にしています。
今回は、第2篇第2章「本来的な存在しうることの現在性にふさわしい証しと、決意性」の後半を扱いました。
前回の前半部分で、「良心の呼びかけ」と「責め」というキーワードが出てきました。
良心は「世人自己に呼びかける」といい、「最も固有な自己をその存在しうることへと呼びさます」と言います。
良心の呼びかけによって現存在は「単独化された存在しうること」という状態になるが、それは現存在にとって「不気味」なものだと言います。
もうひとつの「責め」については、良心の呼びかけによって現存在は「責めある存在」になるというのですが、この「責めあり」という理念のうちには、「非という性格」が潜んでいるといいます。
この「責めあり」の「非という性格」は、「非力さ」とも表現されます。
「非力さ」というと、なんとなくマイナスなイメージを持ってしまいますが、ハイデガーはこの非力さについて下記のように述べています。
・現存在がおのれの実存的な諸可能性に向かって自由であることに属している
・自由は、特定の一つの可能性を選択することのなかにのみ、存在しており、言いかえれば、その他の諸可能性を選択しなかったということに、またその他の諸可能性をも選択しえないということに耐えることのなかにのみ、存在している
そして、「実存論的非力さ」について、「現存在という存在者の存在は、この存在者を企投することができ、またたいていの場合達成するすべてのものに先立って、企投することとしてすでに、非力なのである」と言います。
少し戻って、「良心の呼びかけを正しく聞く」ということはどういうことなのかについてですが、それは
良心をもとうと意志すること
であると言います。
なんだか、循環論法のように聞こえてきますね…。
ハイデガーは別の表現で
良心をもとうと意志すること = 不安を受け入れようと用意すること
とも言っています。
世界内存在としての現存在の本来的な情状性(気分)は「不安」でしたから、この本来的な情状性を受け入れるということがすなわり「良心をもとうと意志すること」というのは、ちょっとわかったような、わからないような、という感じですね。
また、「良心をもとうと意志すること」のうちにひそんでいる現存在の開示性として、
①不安という情状性
②最も固有な責めある存在をめがける自己企投としての了解
③黙秘としての語り
の3つをあげていますが、これらの本来的な開示性のことを「決意性」と表現しています。
まとめると
最も固有な責めある存在をめがけて、黙秘したまま不安への用意をととのえて、おのれを企投すること
ということになります。
ハイデガーによると、この決意性が
「世界」の被暴露性と、他者たちの共現存在の開示性とを、等根源的に変様させる
と言います。
そして、
決意性は、自己を、まさしく道具的存在者のもとでのそのときどきの配慮的に気遣いつつある存在のなかへと引き入れ、また自己を、他者たちと共なる顧慮的に気遣いつつある共存在のなかへと押しやるのである
と言います。
また、決意した現存在について、
・おのれの世界に向かっておのれを開放する
⇒ 共存在しつつある他者たちを、彼らの最も固有な存在しうることにおいて「存在」せしめ、この彼らの存在しうることを、手本を示し解放する顧慮的な気遣いのうちで共に開示するという可能性へと、現存在を連れ込む
・他者たちの「良心」となることがありうる
・決意性の本来的な自己存在のうちから、本来的な相互共存在がはじめて発現する
・しかしけっしてそれは、世人と、ひとが企てようとする当のこととにおいて、曖昧で嫉妬深い協定やお喋りな親睦から発現するのではない
とも言っています。
このように、「決意した現存在」を実存論的に規定するものを、ハイデガーは状況と名付けます。
ハイデガーが状況について書いていることを列記します。
状況(何かをなしうる情勢)
・或る空間的な意義がいっしょに響きわたっている
・その空間的な意義は現存在の「現」のうちにもひそんでいる
・世界内存在には或る固有の空間性が属しているのであって、この空間性は、遠ざかりの奪取および方向の切り開きという現象によって性格づけられていた
・現存在は、現存在が現事実的に実存しているかぎり、「空間を許容する」
・実存は、現存在にふさわしい空間性を根拠として、おのれにそのつどおのれの「在りか」を規定する
・現存在にふさわしい空間性は、世界内存在という機構のうちにその根拠をもっている
・この機構の第一次的構成要素 = 開示性
・現の空間性が開示性のうちにその根拠をもっているのと同様に、状況はおのれの基礎を決意性のうちにもっている
・状況とは、そのつど決意性のうちで開示された現のこと
・状況とは、出会われるさまざまな事情や偶然から成る事物的に存在する混合物というようなものとはおよそかけ離れて、決意性によってのみ、また決意性のうちでのみ存在する
・自己は実存しつつ現として存在せざるをえないのであり、そうした現に向かって決意していればこそ、諸事情のそのときどきの現事実的な適所性という性格がはじめて自己に開示される
・決意性にのみ、われわれが偶然と呼んでいるものが、共世界や環境世界からふりかかってくることができる
うまくまとめられないので列記しちゃいました…。
そして
・現の存在を、この現の状況の実存のうちへともたらす
・良心の呼び声は、状況のなかへと呼び進める
とも言います。
そしてさらに
・気遣いのうちで気遣われ、気遣いとして可能であるような、この気遣い自身のそのような本来性にほかならない
とも言います(どういうこと(笑))。
ハイデガー曰く、第2篇第1章と第2章で
「目下の根本的探究は、現存在の本来的な全体存在しうることという求められていたものの、存在論的意味を、限界づけることができる段階にいたった」
とのこと。
でも、
「現存在の本来性 = 死へとかかわる本来的存在は、本来的な全体存在しうることとして実存論的に演繹されはしたものの、依然として、現存在にふさわしい証しを欠いている純粋に実存論的な企投にとどまっている」
「この現存在にふさわしい証しが見いだされたときにはじめて、目下の根本的探究は、現存在の実存論的に確証され明瞭化された本来的な全体存在しうるあり方の提示という、みずからの問題性において要求されていた課題を、満足させる」
「現存在というこの存在者がその本来性と全体性とにおいて現象的に近づきうるようになったときのみ、存在了解一般がその実存に属しているこの存在者の存在の意味への問いが、吟味に耐えうる地盤のうえに置かれる」
とのことです。
そして、これまで本格的には言及していなかった、本のタイトルの半分になっている「時間」についての考察が、次の第2篇第3章から始まることになります。
今回で第2分冊(中公クラシックス)は終了!
第3分冊は、すべて「時間」についての分析になります。
といっても、第3分冊まででも、全体構想の半分もいってないんだけどね…。
第1篇第3章「世界の世界性」のところでもそうでしたが、なんか「空間性」が出てくると、途端に難しくなる…。
次回奇数日は11月12日(木) 10:30~12:00です。
『生きる場からの哲学入門』より、第Ⅲ部第1講「全体主義とな何か -アーレント『全体主義の起源』を手がかりに」です。
次回の偶数回は、11月19日(木) 10:30~12:00です。
第28回として、第2篇第3章「現存在の本来的な全体存在しうることと、気遣いの存在論的な意味としての時間性」(第61~66節)を扱います。
11月の哲学学校はすべて木曜日の午前10:30~12:00です。
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