みらいつくり大学校企画
第15回みらいつくり読書会@zoom
【課題図書】
シェイクスピア『マクベス』
【実施日時】
2020/11/2 16:30〜17:30
【参加者】
A,B,C,D(+ラジオ参加5名) 全9名
【内容】
A:あらすじの説明があったほうがいいでしょうか。
B:あったほうがいいと思います。
A:まず、マクベスは人の名前です。そしてこの物語は、スコットランドが舞台になっています。スコットランドにダンカン王がいました。そして、将軍としてマクベスはいます。バンクォーも将軍の一人です。マクベスとバンクォーが戦果をあげた、というところから物語は始まります。二人はその戦果に応じてダンカン王から褒美をもらうこととなります。
A:ダンカン王のもとへ向かう道すがら、二人は魔女に出会います。魔女の登場はシェイクスピアらしいところなのかもしれません。魔女は予言めいたことを語ります。マクベスには「あなたは王となる方」と言います。マクベスは驚きながらその言葉を聞きます。魔女はバンクォーに「王にはならないが、王を生む方である」と言います。マクベスとバンクォーは不安になりつつもそのままダンカン王のところへ到着し、褒美をもらうやりとりが行われます。
A:マクベスは自分が王になると言われたことを自分の奥さん「マクベス夫人」に相談します。その時のマクベスは気が弱いところがあるのですが、夫人からは「ちゃんとしなさい」というように尻を叩かれます。その後、マクベスとその夫人で、ダンカン王の暗殺を企てます。暗殺は成功します。その大騒動の際に、ダンカン王の息子たちは、自らの命の危険を感じて海外に逃亡します。マクベスは王になりますが、バンクォーが「王をうむ」と予言されたことを思い出し、その存在を疎ましく思うようになります。そしてマクベスはバンクォーとその息子を暗殺しようとします。バンクォーを暗殺することには成功しました。しかしその息子であるフリーアンスは生き延びて海外に逃げることとなります。そのあたりから、マクベスは暗殺をした負い目なのか、この辺は議論できればと思っていますが、だんだんとマクベスの人柄が変わってくように私は思いました。亡霊と話すようにもなってきます。マクベスはそのように変わっていきます。
A:マクベスは魔女にもう一度会って予言を聞きたいと思います。さらに先のことを聞きたいと思います。次のことを教えてくれと言います。私の読んだ訳では、幻影が伝えたとありましたが、二つのことを予言します。一つ目は、「あなたは、女から生まれたものによっては倒されない」ということ、二つ目は「森が向かってくるまでは倒されない」ということです。両方とも普通に考えるとあり得ないことなので、マクベスは自分の治世は安泰であると思って安心します。
A:その後、海外に逃亡していたダンカン王とバンクォーの息子たちが海外の軍隊を連れて攻めてくることとなります。最後の戦いに向かっていくわけです。予言を受けて、人格も変わったマクベスは、強く誇る王となっています。マクベスの敵軍は、森に入ったときに枝を切り取って手に持ったまま進軍をして自分たちの数を計られないような戦略をとります。その様子は、まるで森が向かってくるかのようにマクベスには見えました。また、ダンカン王の息子であるマルカムは、母の胎から月足らずで出てきたことがわかります。今で言う帝王切開です。
B:それはマルカムではなく、マクダフという別の登場人物ですね。
A:マルカムはその軍勢に加わっていますか?
B:マルカムとマクダフは、一緒に攻めてきます。ダンカン王の息子と一緒に攻めてくるマクダフが、帝王切開で産まれた人だったんですね。
A:ありがとうございます。そのようにして、マクベスが聞いた予言は成りました。マクベスが信じていたようにはならなかったわけです。そのようにしてマクベスは討たれて死にます。そして劇が終わります。長くなってしまいましたがいかがでしょうか。
B:ちなみに『シェイクスピア大図鑑』によるとこのような感じです。(図を示す。)名前が、マクベス、マクダフ、マルカム、などわかりにくいですよね。
A:大まかな内容ですが振り返りました。今日はたくさんラジオ参加してくださっています。感想から話していきますね。最近はそれぞれが読んだ訳を紹介しています。皆さんは誰の訳を読みましたか?私は河合祥一郎さんの訳と、松岡和子さんの訳を読みました。
B:河合さんの訳が一番新しいのでしょうか。何年ですか?
A:平成21年とあります。
B:一番新しいと思いますね。松岡さんの訳は何年ですか?
A:96年とあります。1969年です。
B:やはり河合さんのが新しいと思います。松岡さんの訳は、ちくま文庫から全集で出ているんですよね?
A:そうですね。河合隼雄さんが『快読シェイクスピア』という本を書いていたので、解説本として読もうと思いました。
C:河合隼雄が書いているんですね。
B:書いているというか、松岡さんと対談しているんですよね。
A:これを読んで、松岡さんの訳と併せたら良いかなと思ったのですが…。途中でBさんと話をして「岩波は難しい」なんて話をしていたところでした。
B:Dさんがもっているのは岩波ですよね。
D:今回買いました。シェイクスピアは色々と売っていたので安いものを買ってみました。
B:ごめん、それじゃない方がよかったですね。
D:どうりで最後まで辿りつきませんでした。しおりが…。
A:Bさん、いくつか訳を比較して、岩波が読みにくかったんですよね?
B:岩波は、最初に読んだからかもしれないけれど…。
D:1993年とありますね。
B:岩波はおそらく版によって訳している人が違うようです。坪内逍遥さんが訳したものが一番古いようですね。坪内逍遥訳は1900年より少し後とかだったはずです。青空文庫にもありましたか?
D:青空文庫では作業中となっていました。
B:そうですか。Cさんが読んだのは、福田恒存さんの訳ですよね。新潮文庫です。
A:新潮文庫は全集になっているんですか?
B:残念ながら全集ではありません。なので最後の方に書かれている『テンペスト』などはなかったりしています。でもこの訳は読みやすかったように思います。Cさん、いかがでしょうか。
C:読みやすかったです。
B:松岡さんの訳とは違うところがあるという記述がありました。
C:僕は解説が良かったと思いました。
B:後ろの方にあるやつですよね。解説だけで結構文量がありますよね。
C:そうですね。解説が全体の1/3くらいあるんじゃないかなと思います。
A:私が読んだ二つは、解説がいまいちだったように思っています。新潮文庫が当たりだったかもしれませんね。
A:では感想ですが、Dさんも途中まで読んだ感想でも構わないのでお願いします。
D:では私から。途中で時間がなくなり、ネットに載っているネタバレあらすじを読みました。最後こうなるのね、と思いました。戯曲は、想像がしやすいなと思いました。私は、村上春樹さんが結構苦手です。風がどんなふうに吹くのか、景色がどうかとか、そういうのを詳しく言われるのがあまり得意ではありません。そんなことを思っています。感情や表情や、登場人物のセリフがわかりやすく書いてある方がすんなり入ってきます。『マクベス』を読んでいて、豊臣秀吉みたいだなと思いました。最初は部下に気に入られていて親しまれているのに、女の人に少し振り回される。ちょっと似ているかなと思いました。最初、魔女が予言したときに、自分の思いが成るために人を殺さなくてはいけないのであれば…女性だったらそこまでするだろうか、とも思いました。女性とも限らないかもしれないですね。私だったら「そこまでして…」と思います。「望むものが手に入るよ」と言われても、そのために人を殺したり人を傷つけたり、家族を犠牲にしたりしなくてはいけないのなら、それは別にいいかなと思います。もしくは、その望みは今じゃないんだな、と思います。例えば、「5年10年経ってかなうことなんだな」「今すぐではないんだな」と考えると思います。そんな発想をすると思います。予言を信じている・信じていないの問題ではありません。予言を信じたとしても、今の話じゃないんだな、と考えると思います。今私は精神的に強いわけではないけれど、弱い時の自分だったらそうなってしまうこともあるかなと考えました。最後まで読んでいないから、あらすじから空想で話しているような感じなんですけど。2015年に映画化されているようなので、観てみたいと思いました。
A:先ほどあらすじを説明したときに話しましたが、マクベスの変化は面白いなと思いました。最初は小心者というか自信のないところも見えます。そこから、狂気じみていく、暗殺することがマクベスの人格を変えていくような描かれ方をしていると思いました。また、マクベスを二つの訳で読んでみて、河合さんの訳では、よりたくさんの言葉遊びが使われていました。日本語にする際にも、意図的な言葉遊びを使って訳されていました。シェイクスピアの楽しみ方に、言葉遊びがあるようにも思いました。マクベスでいうと魔女のやりとりにある有名な一節、「汚いはきれい」でしたっけ。そんな言葉遊びも面白さの一つだと思いました。そんなものが散りばめられているので、劇を見ている人たちはプププと笑う、そんなようにして当時から観られてきたのかなと思いました。前回、『オイディプス』を読んだ際、Cさんが「英雄劇」と「運命劇」の話をしてくれました。英雄がいて、誰かヒーローがいて、その人が運命を変えていくような「英雄劇」の物語は私たちの身近にたくさんあります。逆に、「運命劇」と言われる登場人物が運命に翻弄されていくような劇を、今の時代は求めているのではないか、というようなことを、平野啓一郎さんを引用しつつ話してくれました。その二つの区分によると、『マクベス』は「運命劇」かなと思いました。そういう意味で、『オイディプス王』との繋がりも大まかなものですが感じました。「運命劇」のつながりで言うと、魔女の存在が『オイディプス王』との違いだと思いました。魔女は運命を知っているんですよね。でも操っているわけではありません。運命を知っていて、未来を予見している。好奇心、遊びのようにして、人々が惑わされるのを楽しんでいる。そんな存在として魔女は描かれていました。当時の人たちはどのようにして魔女の存在を捉えていたのか、気になりました。何か悪いことがあったときに「これは魔女のせいだね」と話していたのか、それとも運命があるとしてその運命を先に知っている不審な人たちがいるということなのか。フィクションとして見ていたのか、そうではなかったのか。「最近、知り合いのおばあちゃんが変死をしたんだけれど、魔女が関係しているかも…」なんて考えていたのか。そんなことが気になりました。他の作品では『ハムレット』を読んでみました。同じように魔女が登場しているので、シェイクスピア作品に共通するものなのかなと思いました。以上です。
C:僕は、本文だけを読んでいても、ほとんど何もわからなかったです。夢の中の話というか。劇だから。劇の台詞だけを読んでいるからですよね。これって、漫画のセリフだけ吹き出しだけを読まされているようなところがあると思うんです。絵があって完成するはずのものを、文字情報だけを抽出したものを読んでいるわけです。だからわからない前提で読みました。戯曲なるものを観たことがあれば、まだ補完しやすいと思います。「これって歌っているんだな」とか。これって歌うかのようにして話すんですよね?「お前は〜♪」というように語るんですよね。そういうことだから韻を踏んだりするんですよね。そのような文法をわかっていれば違うのかなと思って読みました。僕は解説を読んだことで「そういうことね」と思えました。福田恒存さんの解説がすごく良かったです。「魔女」というのが、実際に魔女がいるのかマクベスの内側の妄想なのかがわからない、と書いてありました。「魔女」というのが、彼の内側にいるのか外側にいるのかわからないということです。福田さんはそう書いていました。マクベスは、運命に動かされているのか、自由意志で生きているのか、どちらの解釈も成り立つようになっている。この両義性、反語法、福田さんはアイロニー(反語法)と読んでいました。運命なのか自由意志なのか、魔女というのは現実の存在なのか自分の内側の存在なのか、という両方の解釈が成り立つというアイロニーこそが『マクベス』という作品の根幹にあるものなんだ、と言っています。「きれいは汚い、汚いはきれい」という一番有名なセリフは、まさにそれらを象徴する台詞であるということでした。そして、マクベスが登場して、一口目に言うことが「こんなにめでたい嫌な日はない」なんです。これもアイロニーなんです。だから、相反する形容詞を二つ使うということで、人間は運命で生きているのか自由意志で生きているのか、どっちでもないしどっちでもある、というようなそういう話なんだ、と福田さんが言っていました。その解説を読んで「そういう読み方なんだ」と勉強になりました。そんなところです。
A:魔女の存在って何なんだろう、と思っていたのですっきりしました。
B:僕も最初はDさんと同じ岩波文庫で読みました。全然わからなくて。自分にとってのシェイクスピア初体験だったから「自分には教養がないのか…」と思いました。「シェイクスピアを読んで面白くない人がいるのか!」と言われるんだろうな、と思いました。だけど、それで終わるのはよくないなと思って、かたっぱしから買っていきました。解説本や他の訳のものです。もう一度読み直したのが、Cさんと同じ新潮文庫のものでした。これを読んで「もしかしたら面白いのか?」思いました。僕が読んで一番面白かったのは、先ほどAさんが言っていた河合隼雄さんと松岡さんとの対談本も読んだんだけれど、別に『深読みシェイクスピア』という本があります。松岡さんが訳をしていますが、かつ、この方は蜷川幸雄さんの舞台の翻訳をしていたので、本の中に松たか子さんとか大竹しのぶさんとかが出てくるんです。マクベス夫人を演じていたのは大竹しのぶさんなんですって。
D:似合いますね。
B:松岡さんは、大竹さんとやりとりをしながら、舞台の始まる直前に、ある箇所を見つけたらしいんです。「私たち」「we」が入っている部分を見逃していた、というんです。それまでの訳を読んでも、日本語には「私たち」とは訳されていない、と。そこに「we」が入っているのに気がついて、大竹しのぶさんに相談したらしいんです。大竹しのぶさんは「それは入れないとおかしいから、入れて」と言ったので、直前に台本を書き換えたらしいです。何を言いたいかというと、松岡さんが「we」を発見した部分は、マクベスとマクベス夫人についてです。途中まで、マクベスとマクベス夫人は「we」で表されています。二人でやりとりする場面でも、ずっと「私たちは〜」と言っているんです。途中からそれがなくなってくるんです。その場面は、マクベスが、バンクォーを殺すあたりです。バンクォーを暗殺するにあたって、マクベスは奥さんに相談していないんですよね。だから、マクベス自身が考えてマクベス自身が実行したことなんです。でもそのあたりから、二人が離れていく。それまで一体であると書かれていたものが、だんだん離れていくんです。そして奥さんが狂い始める。マクベスはマクベスで奥さんと全然違う考えになっていくわけです。最終的にマクベスも死にます。先ほど、Cさんが魔女はマクベス自身かもしれないと話していましたが、「もしかするとマクベス夫人はいなかった説」もあるようです。
C:あー、ありえますよね。
B:マクベス夫人は、マクベスのもう一つの人格という意味です。
C:「ファイト・クラブ方式」ですよね。
B:シェイクスピアの作品の中で、登場人物に名前がないのはマクベス夫人だけらしいです。
A:あ〜。
D:あ〜。
B:みんな夫人であったとしても名前があるんです。でもマクベス夫人だけは「マクベス夫人」なんです。魔女も本人が作り出したものかもしれないけれど「それによってどうする?」という自分自身の心の声のような、良心のような話ですよね。マクベス夫人がナイフで刺して血だらけの手を見せて、マクベスがそのナイフを戻す。そのあたりまで含んで考えているんだとしたら、これはめちゃ面白いですよね。誰か他の人が解説本で書いていたのですが、そもそも、マクベスが一番受け入れられなかった人が、目の上のタンコブのようにしてどうにかしたかった人が、最初からバンクォーなんだというものもありました。ダンカン王ではないと。だからこそ、殺して亡霊として出てくるのはバンクォーです。ダンカン王が出てきてもおかしくないはずですよね。
D:確かに。
B:二人とも優れた将軍ですが、バンクォーは公明正大な正しい人です。マクベスはバンクォーを一番にライバル視していた。魔女からはじめに予言を受けたときにも、マクベスが予言を聞いた後に、バンクォーが「俺には」と聞きます。同じ功を成している二人なのに、マクベスにだけ話してバンクォーに何もないのはおかしいですよね。でもバンクォーに与えられた予言は未来のことでした。「未来永劫あなたのところから王族が続いていく」という予言ですから。マクベスがもともと受け入れられなかったバンクォーに対して「やはり俺ではないんだ」というようなことから、バンクォー殺しが起こっていった、というような解説をしている人がいました。なるほど、と思いました。
A:私は解説本には手を出せなかったので、色々な読み方があるんだなと思いました。魔女も夫人も、マクベス自身なんだというような、まさに「ファイト・クラブ状態」なんだとしたら、これって「運命劇」なんでしょうか。
B:あと、眠りを奪われていますよね。王を殺したときに「眠りを奪われた」と言っています。
C:そうですか。
B:そうなると、どこから眠っていて眠っていないか、夢かそうじゃないかわからなくなってきますよね。
C:まさに『ファイト・クラブ』では眠りを奪われていますからね。
B:『ファイト・クラブ』をみていないから「ファイト・クラブ状態」がわからないです。
C:絶対見た方がいいですよ。あれは絶対。
D:あれはブラッド・ピットですよね。
A:あの時のブラッド・ピットめちゃかっこいいですよね。
C:めちゃかっこいいし、その後10年20年つくられた映画の元ネタになっていますよね。色々な映画を見て、この手法は『ファイト・クラブ』だな、と思いますよね。
B:「この手法は〜だね」と思うものは、大体ギリシャ神話かギリシャ悲劇、シェイクスピアから来ているのかもしれないですね。
D:映画同好会…。
B:最後のオチのくだりは何だったんでしょう。森がやってくる感じ。帝王切開が、という感じ。舞台で演じると面白いのでしょうか。
C:あとがきとかにも書いてありますが、「やはり舞台を観ろ」ということでしょうね。あとは「現代的な不安」と書いてありました。あとがきのあとがきに書いてありました。福田さんの解説の解説に書いてありました。福田さんって昔の人なんですよね。だから解説も昭和36年なんです。
B:必ず「戦後に活躍した福田恒存」と出てきますよね。
C:その福田さんの昭和36年の解説を、中村さんが昭和46年に解説しているんですよね。あんまりアップデートされていないんですけど。今からすると。
A:最初の解説から「現代の不安」と言っているんですか?
C:中村さんが、福田さんの解説の解説をして、『マクベス』は現代的な不安を予言したような作品なんだ、というようなことを言っています。
C:だから、やはり『ファイト・クラブ』なんですよね。『ファイト・クラブ』に出てくる人物って、現代の生活様式、資本主義というものに完全に阻害された人物なんです。もはやネタバレも何もないのですが。その阻害された人の破壊衝動が、別人格として現れるんです。その二つの生を生きるんだけれど、彼自身は気がついていない。初見の人はやられますよね。まさか!と思いますから。でも知っていても面白い。『ファイト・クラブ』もそうですが、社会というものに対する不安が分裂をさせるんですよね。この解説で「現代的な不安」と言われているのは、マクベスには「血塗られた王位」があります。マクベスは簒奪者なんだけれど、簒奪者というのは必ず簒奪されるという不安と常に戦うわけです。その不安に耐えられなくなって、自壊したというんです。それは現代的な現象である、ということでいうと、この話は「アメリカ論」でもあると思うんです。アメリカって、大統領選挙が今週ありますが、アメリカはずっと悪夢と闘っている国です。強迫神経症的に恐れていることがあります。それは、自分たちアングロサクソンがいつかこの王位を奪われるかもしれないという強迫観念と戦っているんです。ある時はそれが黒人であるとなるし、ある時は日本バッシングになる。今だったらヒスパニックとか中国人とかになる。壁を作るのもそうですよね。なぜそんなにこわがるのかというと、それは自分たちがネイティブ・アメリカンを血で追い出したからなんですよね。だから、自分たちの王位が血に塗られていることを彼らは潜在的にわかっているんです。だからいつか自分たちも血で追い出されるかもしれないという悪夢と戦っているんだ、ということです。これはメジャーな説明だから、僕だけが言っているわけではありません。それってマクベスっぽいなと思います。
A:今話していた「不安」とか、内面・外面が溶け出しているということですが、マクベスが狂っていくのも、夫人はいなくて、マクベスの内面にある夫人的な人格が狂っていくのだとしたら、そのように読んでいくことができますよね。シェイクスピアはそのようなことを考えていたのでしょうか。それとも『星の王子さま』の時のように、作者の意図を超えてそのような物語になっているのか。かなり古い作品であることは間違いないので、当然いろいろな解釈があるのはもちろんですが。でもさすがに、ここまでなっていると、単に王族の話を書いただけではないような気がしてきますよね。シェイクスピアにも多少なりともそんな意図があったような気がします。
B:舞台の脚本だから、「あそび」があるというか。舞台は、作者が考えたことにプラスして演じた人たちの演じ方によりますよね。映画も取り直しがなくはないけれど、舞台は、やり直し・演出のし直しがとても多いです。そして色々なところで繰り返し演じられます。二週間舞台があるとしたら、一度として同じ舞台はないわけです。多分、シェイクスピアは「自分はこういうことを言いたかったんだ」ということではなくて、「『あそび』の部分は演じる人に任せるよ」というスタンスだったのではないかと思います。だからこれほどまでに長く残っているのではないかと思います。そんなことについても誰かが解説本で書いていました。イギリスの方が日本で上演された『マクベス』を観て、演出を観て、びっくりしたと書いてありました。確か『マクベス』だったと思います。夫人もいる時にマクベスが「もうみんな下がってよい」という場面で、ト書きには「一同舞台から去る」と書いてある。その時に、夫人が「えっ」という顔をするんだって。普通だったらみんな下がるだけなんだけれど、部下と一緒に夫人もいなくなるだけなんだけれど、夫人だけは一度「えっ」という顔をして去る。夫人はそれまでマクベスと一心同体だと思っていたのに、自分はそうではないとマクベスから見られた瞬間だったという演出らしいです。それを見て驚いたらしいんです。もしかしたらシェイクスピア自身もその演出を見て驚くかもしれないですよね。「ああ、そう読むんですか」というように。小説と違って、何を言いたいのかということを考える必要はないのかもしれません。
A:再解釈されやすいのかもしれないですね。
B:戯曲はそのような特徴をもっているということですよね。Dさんが言っていた村上春樹の「〜の風が吹いて…」というような説明は、舞台にはないということですよね。だから舞台装置も演出もいくらでもやりようがありますよね。書いてはいないから。
C:能とか歌舞伎など、僕は詳しくはないんだけれど、ちょっとそういう部分があるのかもしれません。能って、死んだ人が憑く、狐に憑くとか、そういうことがありますよね。僕の通っている教会に、能の関係の人がいるんです。
B:すごいですね。
C:彼は、能を通して、能を一生懸命やることが神様への奉仕であると言っています。能の世界は「憑依」とかそんな話ですから、人によっては「キリスト教的じゃないのでは」という見方もあるんだけれど、でもそこにクリスチャンがいなくなることはよくないから、ということで、家柄ということもあってやり続けています。彼に聞いたら、そんな話が多いんだけれど、それって人間の…いわゆるメタファーなわけじゃないですか。狐が憑くというのも、人間は死者というものをおそれるからかもしれません。「マクベスはおそれるが故に幽霊が見えた」というのはそういうことですよね。そういう話は、日本だと能とかいう形で語り継がれますが、劇として語り継がれるというのは、まさに河合隼雄的というかユング的というか、人間の深層にある心理を夢として語るというか、そういう要素があるんだと思います。
B:シェイクスピアの本を何冊か読んだんですけど、今Cさんが言っていた別の人格になるということが多いように思います。何かに取り憑かれるというよりは、意図的に他の人格を演じることが多いです。最初の登場人物が書かれているところにも、カッコをつけて「〜こと…」とあります。途中で名前が変わっていたり、別な人格になったり、別な人のふりをする登場人物がいるんです。それを頭に入れて読まないと「何でこの人がこれを言っているの…?」となってしまいます。この人が〜さんのふりをしているんだ、というようなことです。その辺りから言うと、取り憑かれていると言うよりは、別人格を演じる、人間のペルソナというか色々な顔をもっているということを伝えたかったのかもしれません。喜劇に多いような気がします。
A:私が読んだ『ハムレット』にも、「演じる」というか、わざと狂ったふりをするシーンがあります。そこに意図的な言葉遊びが出てきます。確かにそうかなと思いました。
C:そして、これらが書かれているのは1600年代ですよね。
B:1600年代前半ですね。
C:その時期って、デカルトが『方法序説』を書いた時期と重なってきます。まさにそれは近代の始まりです。國分功一郎が『中動態の世界』で言っているのが、そのころ言葉に主語が入り始めたということです。それまでのヨーロッパの言葉、特にラテン語には主語がないんです。「コギト エルゴ スム」は「我は考える、ゆえに我あり」ですよね。「コギト」という一つの言葉で主語と動詞が入っているんですよね。ラテン語は主語がいらないんです。英語とかが、主語が絶対にいる言葉として固まっていくのはあの頃だと書いていました。まさに人間の主体性というものが確立していく。順番としては社会がそれを要請したんだと國分さんは論じます。社会の法制度は、誰かが誰かを殺したら罰を与えなくてはいけない。その時に主語がわからないとよくないでしょう、と。そういうことで、言葉がそれらに合わせていったというんです。それが近代の始まりと関係があるんだという本です。つまり、『マクベス』はその転換期に書かれているから、それらが僕の頭にはありました。魔女が外部なのか内部なのかといったことは、まさに主体性があるかないかの問いです。そういうことで当時の人は悩んでいたのかなと思いました。
D:この作品はシェイクスピアの悲劇と言っていましたよね。でもこの話は、悲劇というほど悲しい話じゃないように思います。自分の権力が欲しいために人を殺していった、そして自分自身も怯えていく、という話なら。でも、それが内面から出てくるのであればそれは悲劇だなと思いました。自分ではどうにもできないものが自分の中から湧き出て、それに対して怯えながら人生が終わっていく。それは悲劇だと思いました。
C:人間って自分で全ての責任を負うことに耐えられない生き物ですよね。だから『ファイト・クラブ』なら、別人格を生み出すんですよね。ブラッド・ピットがやったことにし続けるわけですよね。マクベスなら、奥さんという幻想を生み出していたかもしれないです。自分が自分の運命の支配者であるということは中世にはあり得なかったんですよね。聖なる天蓋があって「カトリックの司祭が言うことが絶対で、神が支配をしている、以上」なんです。議論は終わりです。でもそれに対して人間が運命の支配者かもしれない、となった時に人間ってその不安に耐えきれなくてどこかで分裂してしまう。そういうことかもしれないですね。
B:次、どうしますか。
A:「近代の始まり」として、シェイクスピアを読んでいくのは面白いなと思います。
B:シェイクスピアの中にも、いつ書かれたのかもそうだし、悲劇と喜劇はわかりやすいけれど歴史劇というのもありますよね。四大悲劇と呼ばれるものの一つは読んだけれど、その次にいくのか、喜劇を読むのか。
A:シェイクスピアでもう1作品あってもいいかなと思います。特に悲劇ではないものを読むと比較がしやすいかもしれません。喜劇において、近代の始まり感がどのように描かれているのか知りたいですね。
B:確かに「悲劇」は続いていますからね。ギリシャから。
A:私は、ギリシャ悲劇をこの前に読んでいたことって、今回の作品と面白いつながりがあるなと思います。
B:ギリシャ悲劇からのシェイクスピアの悲劇だからよかったんだと思います。
A:読むとしたら、喜劇で言うとどれでしょうか。
D:なんだか明るい話がいいな…。誰かを殺すとかいうことではなくて。
C:大体殺しますけどね。
B:一番薄いのは『お気に召すまま』ですね。これは迫害される、家を追い出されるとかはあるけれど、殺すとかはないですね。『じゃじゃ馬ならし』というのもあります。
D:あー聞いたことがあります。
B:言葉は大体知っていますよね。『じゃじゃ馬ならし』は現代的な倫理観からすると違和感があることがたくさん出てくるようです。ここで扱うにはそれじゃないほうがいいかなと思います。何より『お気に召すまま』一番薄いと思います。
D:『マクベス』と同じくらいの薄さですか?
B:『マクベス』より薄いんじゃないでしょうか。
D:それは!
B:『マクベス』とほぼ同じですね。新潮文庫だと430円ですね。
D:お値段も優しい。
B:シェイクスピアの幸福な喜劇は、『お気に召すまま』と『十二夜』らしいですよ。でも『十二夜』は新潮文庫にはないので、松岡さんの訳を読むことになりますね。
C:シェイクスピアから離れてもいいなら、僕はイギリスのディケンズがいいと思います。シーズン的にも『クリスマス・キャロル』ですよね。
B:あ〜。『クリスマス・キャロル』はちなみに明るい話ですか?ちゃんと読んだことありません。
C:明るいですよ。明るいというか…。
D:最後、幸せになりますよね。
C:普通にいい話って感じですよね。
D:幸せになる感じ。
B:ディケンズに行きますか。
C:僕はディズニーの『クリスマス・キャロル』は見ているんですが、ディケンズの小説、文字では読んだことがありません。興味があります。
B:多分、クリスマスシーズンにかかっているからそういうことを言う人もいるかなと思って、買ってはみたんですけど。
C:ちゃぶ台返しをして良いなら。
A:何せ私たちのことをアフリカで『やし酒飲み』がまっていますからね。イギリスに長居するわけにはいかないですよね。
C:リスナーが減る方に減る方に行っていますけどね。
B:先日、『やし酒飲み』が控えているからと思ったら、家で見つからなくなってしまって。そういうことはよくあるんですけど、もう一冊買ったんですよね。『やし酒飲み』の内容と重なって、「本当は買っていないんじゃないか」と思ってきましたからね。
C:「もう夫人が買っているんじゃないか」ってね。
B:B夫人が買ったんじゃないかってね。
A:weが買ったんじゃないかってね。
B:次って12月ですか?
D:もう一回くらい11月中にありますよね。
B:11月もう一回シェイクスピアの悲劇にして、その次のクリスマス前にディケンズをぶつけるのはどうでしょうかね。
A:今後の予定にも関わると思うんですけど、『100年の孤独』をお正月くらいに読めたらいいかな、なんて考えていました。
B:新書・文庫にはなっていませんよね。
A:おそらくハードカバーです。読むのも大変です。
C:僕は一度図書館で借りて、挫折して返したことがあります。
D:え〜Cさんが挫折したものを私に読ませないで。
C:その時忙しかっただけだと思うんですが。でも300頁はありますよね。
A:南米に行くなら、避けて通れないかなと思うんですよね。
B:南米のもう少し読みやすいやつを探したんですが…。
C:そういうのは、何回かに分けるのもいいですよね。
B:『100年の孤独』を読むなら付き合いますよ。年末年始で。そういうきっかけでもないと読まないですよね。
D:私は入院しないと読まないかもしれません。本当にすることがない時じゃないと。
A:『100年の孤独』こそネタバレありそうですけどね。
D:さすがにありそうですね。
A:まあ、あんまり先のことを考えすぎてもと思いますが、いかがでしょうか。とりあえずシェイクスピアにいくか、ディケンズにいくか、というところでしょうか。
C:次はまだ12月に入っていないんですね。じゃあ12月のその時に『クリスマス・キャロル』がいいかもしれないですね。
B:次の次でも入っていないかもしれないですね。曜日によるでしょうか。喜劇にいって、『クリスマス・キャロル』ですかね。
A:そのペースだとちょうどクリスマスに『やし酒飲み』を読むことになっちゃいますかね。大丈夫かな。
D:もう一つクリスマスの話を挟めばいいですよね。
C:まだ次がありますからね。
B:イギリスから一気にアフリカに行かなくてもいいですよね。
D:もうちょっと楽しみましょう、ヨーロッパを。
B:イタリアとかスペインとかすっ飛ばしていますからね。ヨーロッパで言うと、アンデルセンの『絵のない絵本』というのがあります。こないだたまたま買ったんですけど、薄くて290円で買えるんですよね。新潮文庫で。割と詩的です。月が主人公なんですよね。これは良さげでしたよ。だから『やし酒飲み』の前に。年始から『やし酒飲み』に行くとしてね。
D:「アンデルセンだったら参加したいです」とラジオ参加の方がチャットに書き込んでくれています。
B:おお〜。ということは『やし酒飲み』には参加しなさそうですけどね。
A:次は取りあえずシェイクスピアかディケンズということですが、Cさんはもうシェイクスピアはお腹いっぱいですか?
C:いいと思います。シーズン的なことを考えたので、『クリスマス・キャロル』は12月がいいと思います。もう一度シェイクスピアいいと思います。
A:では次はシェイクスピアの『お気に召すまま』にしましょう。
B:では『お気に召すまま』の後に『絵のない絵本』、そしてもう一度イギリスに戻って『クリスマス・キャロル』だといいですね。クリスマスシーズンに合わせて。
A:そうするとクリスマスにディケンズを読めますね。そんな見通しを持ちつついきましょう。日程はどうでしょうか。月曜日が最近定番になっていますが。
B:私は12月月曜日が難しそうです。11月は大丈夫です。16日でも。
D:私も大丈夫です。
B:では16日の16時にしましょうか。
B:『お気に召すまま』は誰の訳が読みやすいんでしょうかね。新訳にもありますか?
A:確か…無さそうですね。
B:全集にはあるはずだから、松岡さん訳はありますよね。
A:それはあると思います。
B:新潮文庫が色々な本屋さんにあるかもしれませんね。手稲山口にもあると思います。
D:そんな地区を限定して…。
C:山口…。
B:そんな地名があります。手稲は山口県からの地名が多いんですよね。
A:では、シェイクスピア『お気に召すまま』11月16日16時からお願いします。ラジオ参加の方もありがとうございました。