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第24回 みらいつくり哲学学校 『存在と時間』第2篇第2章「証しと決意性」前半

2020年10月20日(火) 15:30~17:00で、第24回となる「みらいつくり哲学学校オンライン」を開催しました。

 

偶数回はマルティン・ハイデガーの『存在と時間』を課題図書にしています。

 

今回は、第2篇第2章「本来的な存在しうることの現在性にふさわしい証しと、決意性」の前半を扱いました。

 

第2篇は、「本来的な存在しうること」について分析されています。

第1章では、「死への先駆」というのがその本来的な存在しうることの一つだとされました。

とはいえ、実際に「死」に至ると、現存在は無くなってしまいます。

では、どんな要素があると、現存在は「本来的に存在している」と言えるのでしょうか。

その要素をハイデガーは「証し」と名付けます。

 

そしてその「証し」というのは、「良心の声」であると言います。

 

この「良心」の中身に注意が必要です。

普通の意味で「良心」というと、道徳的な意味が含まれますが、ハイデガーはそれを全く含めません。

 

以下、ハイデガーによる「良心」の説明です。

 

良心
・「何ものか」を了解するようほのめかす = 良心は開示する
・良心は呼び声である = 呼ぶことは語りの一つの様態である
・良心の呼び声は、現存在の最も固有な自己存在しうることをめがけて現存在に呼びかけるという性格をもっている

・最も固有な責めある存在へと呼びさますという仕方においてなのである
・良心の呼び声には、或る可能的な聞くことが対応している
・呼びかけの了解は、良心をもとうと意志することとして露呈する
⇒ 良心をもとうと意志することというこの現象のうちに、自己存在というものの選択を実存的に選択するという求められていた当のものがひそんでいる
⇒ これをわれわれはその実存論的構造に応じて決意性と名づける

 

現存在は、世界的なものに配慮し、世界的なものから自分を理解するという、「頽落」の状態にある「世人」だとハイデガーは言いました。

この世人というありかたにおいては、「空談」(おしゃべり)や「曖昧性」の騒音に耳を傾けてしまっていると言います。

 

そのような状態から、本来的な状態へと、「良心」が現存在を「呼び戻す」というのです。

 

どのような状態に呼び戻すかというと、

「最も固有な諸可能性のなかへと」呼び進めるのだと言います。

 

「呼び声」とは言いますが、「とうてい言葉にはなりえない」とも言います。

良心が語るのは、「沈黙」や「黙秘」においてだと言うのです。

おいおいまたかよハイデガー、って感じですよね。

 

呼びかけられているのは誰かというと、もちろん現存在です。

では、呼びかけている者は何かというと、それも現存在だとハイデガーは言うのです。

「自分で自分に呼びかけるってどういうこと?」と思ってしまいますが、ハイデガーの考えでは「現存在 = 自分」ではないことにご注意ください。

このあたり、「現存在」の捉え方がなかなか難しいですよね…。

 

現存在の「良心の声」によって現存在は呼び戻される。

そのときに現存在は「世界の無」の前に置き据えられると言います。

そしてそれによって、現存在は「不安」に至ります。

この辺は、第1章の「死に向き合うときに不安に至る」というのと同じですね。

 

では、現存在はこの「良心の呼び声」を、どのように「聞くこと」ができるのか。

「良心の呼び声」を理解すると、現存在はどうなるのか。

 

後半部分を先取りして言うと、現存在は「責めある存在」になると言います。

 

また新しい概念出してきた…って感じですね。

詳細は次回を待ちましょう。

 

今回は該当部分がやや短かったこともあり、ディスカッションの時間が多くとれました。

 

「良心の呼び声」って聞いたことある?っていうところから議論が始まりました。

 

「小さいときにずっと聞いていた」という人もいれば、「もしかしたらあれがそうだったのかな」という人も。

 

ある障害当事者は、健常者がよく言う「社会の歯車」にむしろ自分もなりたい、そう言いました。

でも、日々の生活の中で、理不尽なことを見聞きする中で、「これは何かおかしい」と思うようになったと言います。

「なんで?」という思いが、自分を今の場所にまで連れてきたのだと言いました。

その「何かおかしい」や「なんで?」も、もしかしたら「良心の呼び声」なのかもね、という意見も出ました。

 

あとは、良心の呼び声によって「最も固有な諸可能性」の前に呼び戻されると言うけど、この「諸可能性」ってどういうことだろうね、という話にもなりました。ハイデガーの言う、「選択することを実存的に選択する」ってどういうことなのかなーと、皆それぞれの立場で意見を出し合いました。本来的な選択肢と、非本来的な選択肢がそれぞれ複数ある、「本来的な選択肢から選択することを決意する」ということなのかな?という意見も出ましたが、それがたとえ「非本来的な選択肢」だと思っていたものでも、「固有な存在である」ことを目指して選択した時は、それも「本来的な選択肢」になるのでは?という意見も出ました。

 

また、毎回松井君が出してくれる「やっぱり個人を想定してる?個人の意識っていうものがどうしても前提されてない?」という疑問については、「現存在=個人」じゃないんだろうね、という意見が出たり、そもそも現存在が他の共現存在と「共存在」してるんだから、「個人だけの話」じゃないんだろうね、っていう意見も出ました。

 

このあたり、「決意性」がどんな風に他の共現存在に影響を及ぼすのか、次回の後半部分の内容に期待したいところです。

 

また、「責め」とは何なのか…。「責任」ということなのか…。それは「自由」と関係しているのか…。

そんなことのヒントも次回以降で出てきたらいいなーと思います。

 

 

次回奇数日は10月29日(木) 10:30~12:00です。

『生きる場からの哲学入門』より、第Ⅱ部第7講「サラリーマン人生を終えた今、考えること」、報告担当は哲学学校第1回から全ての回に参加してくださっているダンディー和田さん、昨年「サラリーマン人生を終えた」ばかりの、まさにテーマにぴったりな方による報告です!

 

次回の偶数回は、11月5日(木) 10:30~12:00です。

第24回として、第2篇第2章 「本来的な存在しうることの現存在にふさわしい証しと、決意性」の後半部分(第58~60節)を扱います。

11月の哲学学校はすべて木曜日の午前10:30~12:00です。

 

 

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