『トンネル』
二回目の春をぬけると そこはトンネルだった
春眠暁を覚えるも
込み上げる 溢れ出す
潜ったまま さえずりに耳を閉ざす
鳥たちは戸惑い 啼き方がわからず
一緒にトンネルにはいってみる
トンネルの中は さえずりの反響
潜ったまま 耳を閉ざす
込み上げる 溢れ出す
もう入り口にはもどれない
だって こんなに暗いのだから
いつはいったのか
なぜはいったのか
だれがはいるときめたのか
なぜひとりなのか
込み上げる 溢れ出す
あれまてよ トンネルって言ってる
だったら君は 出口があるのを知っている
トンネルの中は 意外とあたたかい
暗い方が 見えるものもある
桃色の薄い板から ほのかな光
かたかたかた
違うトンネルのひと
かたかたかた
春眠新たな暁を覚える
トンネルを抜けたら そこは三回目の夏だった
トンネルの外の景色はどうだい?
トンネルに入る前と変わっているかい?
トンネルの記憶が薄れても いつかまたきっと別のトンネル
トンネルを抜けたらそこは 雪かもしれない
トンネルを抜けたらそこは 一回目の春かもしれない
トンネルを抜けた先には 別の世界が見えている
week2「交流週」
・普通は、トンネルを抜けると春があるような気がします。でも春を抜けるとトンネルなんですね。
「いつはいったのか」と自問するような箇所があります。「なぜひとりなのか」ともあります。でもその後に「君は」とあるので、ここには二人いるのでしょうか。それとも、自分の中に二人いるのでしょうか。季節の間にある「トンネル」は何の比喩なのだろうと最後まで考えさせられました。
・小さい頃(今でもたまに)、車でトンネルを通る最中に息を止めていました。『千と千尋の神隠し』のはじまりみたいです。
・子供の頃、長ーいトンネルに入ると、もうここから出られないのでは?と恐くなったものです。でもなるほど、出口がなければトンネルじゃない。出口はあるんですよね。何か悲しいこと、つらいことがあってトンネルに入ってしまい、何も耳に入らない状態だったのでしょうか。でも真っ暗なトンネルにも救いはあるのだと知りました。「春眠新たな暁を覚える」が好きです。
week3「推敲週」
・「君」が過ごしてきた時間を振り返って書きました。トンネルの中で苦悶する「君」を見ていた立場で書いた詩です。「いつはいったのか」は私の主観でもあり、おそらく「君」もそう思っていたのではと推測します。トンネルの意味するものは、普遍的な意味を持たせれば「人生における苦難の時期」でしょうか。それがいつかというのは人によって違うのでしょうが、「春をぬけると」としたのは、私にとっての「君」がそのトンネルに入ったのはたまたま初夏だったということによります。
・トンネルって、皆それぞれに何らかの意味付けをしていますよね。コメントをくださった方は、なぜ息を止めるんでしょうか。排気ガスのにおいがするから?声を出すと誰かに見つかりそうだから?何か口から吸い取られそうな気がするから?
・おわかりの通り、「~をぬけると、そこは~だった」は川端康成の『雪国』の有名な書き出し「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」から、「春眠暁を覚える~」は孟浩然の詩『春暁』の「春眠暁を覚えず、処処啼鳥を聞く、夜来風雨の音、花落つること知る多少(春の眠りは心地よくて夜明けも知らず、鳥のさえずりが聞こえる。昨晩は嵐の吹く音がしたが、おそらく花がたくさん散ったことだろう)」から「逆」引用しました。
一回目の「春眠暁を覚えるも」の「暁」は、『春暁』と同じく時間的な夜明けの意味、二回目の「春眠新たな暁を覚える」は苦難の時期を超えた比喩的な「夜明け」の意味で使いました。
「さえずり」も同じく『春暁』からの引用ですが、「君」に対して周囲の人々が色んなことを言う意味として用い、トンネルの中の「君」にとっては、それらの言葉は反響するだけで届かない、むしろ「君」は「耳を閉ざす」ということを表現しました。
本人も関わる人も「最悪の状況だ」と表現しながら、「最悪と言っている時点でそれ以上悪くなることはないって言ってるよね?」というおかしみを詩で表現しました。今回の詩でとりあげたトンネルもそうですが、「俺の人生どん底だ」も同じですかね。
苦難な時期にあっても、自分の状況に「おかしみ」を感じることができれば、むしろその時期を楽しんじゃえばいい。そうしていつしか苦難の時期を抜けたら、そこにはきっと「以前とは別の世界」があるんだろうな、なんて思ってこの詩を書きました。