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第20回 みらいつくり哲学学校 『存在と時間』第2篇第1章「死」前半

2020年9月24日(木) 13:30~15:00で、第20回となる「みらいつくり哲学学校オンライン」を開催しました。

 

偶数回はマルティン・ハイデガーの『存在と時間』を課題図書にしています。

 

今回から第1部の第2篇に入ります。公刊部の後半です。

今回は、第1章「現存在の可能的な全体存在と、死へとかかわる存在」の前半を扱いました。

 

第1篇では、人間を「現存在」と定義し、以下のように分析してきました。

 

・現存在という存在者の根本機構 = 世界内存在

・世界内存在の諸構造の中心 = 開示性

・現存在の本質 = 実存

・現存在は了解しつつ存在しうることとして存在している

・おのれの存在においてこの存在自身へとかかわりゆくことが問題

・実存は現存在の現事実性および頽落と等根源的に連関している

 

第1篇では、現存在の「日常性」に主な焦点をあてて分析してきました。

 

しかしながら、現存在の「日常性」というのは、「現存在の非本来的な存在でしかない」と言います。

 

「現存在の存在の学的解釈」を十分に行うには、現存在の「本来性」と「全体性」を実存論的に明らかにしなければいけません。

 

とくに「全体性」については、現存在の「終わり」、つまり「死」について分析する必要があるとハイデガーは言います。

 

まず最初に、この「死」というものについて考える方法として、「他者たちの死」によって死の経験を獲得できるだろうか、とハイデガーは考えます。

 

しかしながら私たちは、「他者の死」を経験しても、「自らの死」を経験したことにはなりません。

 

たとえ大切な家族が亡くなるという「喪失」を経験したとしても、それは自らの死とは異なるというのです。

 

「死」というものは「自分固有のもの」なので、「他者によって代わってもらう」ことはできない、「代理不可能性」という特徴をもつものだと言います。

 

それでは、現存在の「死」をどのように分析することができるのでしょうか。

 

「死」については、

・終焉する

・落命する

・死亡する

という三つのあり方があると言います。

「落命する」というのは動物の死のあり方です。

現存在は「死亡」します。

「死亡する」とは、「現存在がおのれの死へとかかわりつつ存在しているときの存在の仕方」であると言います。

 

これについて分析する際、「存在的・彼岸的な思弁」に陥ってはいけないとハイデガーは注意します。つまり、「死んだあとは体はどうなるのか」「死後はどこに行くのか」「死はなぜ訪れるのか」「死亡する意味は何なのか」といったような、生物学、心理学、弁神論、進学的な議論に陥ってはいけないと言うのです。

 

ハイデガーは、「死の実存論的分析は容易ではない」と言います。

「偶然的に勝手気ままに捏造された死の理念を頼りとすることはできない」というのです。

 

ここでハイデガーは、興味深い表現をしています。

 

・死へとかかわる存在の実存的な諸可能性が共に鳴り響いている

・死の分析においては、現存在がもっている可能性という性格が最も先鋭に露呈してくる

 

ハイデガーは、「死」を「可能性」と結び付けているのです。

 

次回の第1章後半では、本格的に「死」についての存在論的分析が行われます。

 

ディスカッションでは、「今回は面白かった」「わかりやすかった」という意見が数名から聞かれました。

 

参加者からは

・死は段階的に近づいてくるものだと理解していた

・「生まれる」のときにすでに「死ぬ」という要素が入っているという部分を読んで、「生きる」と「死ぬ」ということが平行線にあるということなのかもしれないと思った

・ハイデガーは「誕生」についてどのように考えていたのか興味がある

・ドラマ『北の国から』の最終話「遺言」を思い出した

・アニメ映画『リメンバー・ミー』を思い出した

・若くして亡くなった自分の父のことを思い出した。亡くなったあとのほうがむしろ父の存在を近くに感じるようになった

 

という意見がありました。

 

 

また、ハイデガーの分析方法について

 

・ハイデガーは「主体」や「個人」といった概念を批判していたのではなかったか。「死の代理不可能性」という考えにおいては、それらが前提とされているのではないか

・「死にかかわる」というのは、「死について意識的である」ということなのか。ハイデガーは「認識する」ということを批判していたのではなかったか

 

といった批判も出されました。

 

みらいつくり研究所では、絵本・映画・新聞記事などをもとに「終末期/エンドオブライフ」について対話する「ナラティブセッション」や、カードを引いてそこに書かれているテーマにそって自由に「死」について語る「Cafeです。」といった活動もオンラインで行っています。

 

みらいつくり研究所に併設する医療法人稲生会では、2016年頃から「死や喪失について語る場をつくる」ということを重視しています。

 

これらの活動においても、今回の「死」についての分析は色々な示唆があるなーと思いました。

 

次回、さらに「死」についての思索を深められるのが楽しみです。

 

 

次回奇数日は10月1日(木) 10:30~12:00(時間が午前に変更になっているので注意)です。

『生きる場からの哲学入門』より、「農から現在を見る」、報告担当は稲生会管理栄養士の久保香苗です。

 

次回の偶数回は、10月6日(火) 13:30~15:00です。

(いつもは火曜日午前ですが、諸事情により午後になります)

 

第22回として、第2篇第1章 「現存在の可能的な全体存在と、死へとかかわる存在」の後半部分(第50~53節)を扱います。

 

 

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