Works

第18回 みらいつくり哲学学校オンライン  「気遣い」後半

2020年9月8日(火) 10:30~12:00で、第18回となる「みらいつくり哲学学校オンライン」を開催しました。

 

偶数回はマルティン・ハイデガーの『存在と時間』を課題図書にしています。

 

今回は第1部第1篇第6章「現存在の存在としての気遣い」の後半を扱いました。

 

ハイデガーは人間を「現存在」と呼び、その存在の在り方を「世界内存在」と説明しました。

第3~5章では、世界、自己、他者、内存在というものについて説明してきました。

 

今回の第6章では、現存在の在り方の「全体性」を考える上で必要な「設計図」として、「気遣い」という概念を新たに提示します。

 

後半部分の構成は

 

第43節 現存在、世界性、および実在性

(a) 「外的世界」の存在と証明可能性との問題としての実在性

(b)存在論的問題としての実在性

(c)実在性と気遣い

 

第44節 現存在、開示性、および真理

(a)伝統的真理概念とその存在論的な諸基礎

(b)真理の根源的現象と伝統的真理概念の派生性

(c)真理の存在様式と真理前提

 

という風になっています。

 

ここまで読んできて感じるのですが、『存在と時間』は非常に難しい本とされているものの、実はハイデガーは「これから何を話しますよ」とか、「こんな構成で分析していきますよ」というのを毎回きちんと提示してくれているんですよね。また、次の章に進むときも必ず「次はこのような問いに対して答えていきます」ということを示しています。

 

ハイデガーは『存在と時間』のような「公刊著作」に加えて、「講義録」というものがたくさんあるんです。

「講義録」のほうは、ハイデガーが講義で語った通りに文章化されているのですが、『存在と時間』などの「公刊著作」と比較すると非常に読みやすいです。

でも、だいたいは途中で終わってる(笑)

自分が掲げる構想に、自分の書く能力、語る能力が追い付いていなかったんでしょうかね。

 

さて、第6章後半の議論に話を戻します。

 

まず第43節では、現存在と世界性、そして「実在性」の概念について検討しています。

 

「実在性」というのは、私たちが普通に考える「存在している」ということ、つまり「目に見えてそこにある」ということです。

歴史上の哲学者たちも、「実在性」というものが「存在」なのだと述べてきました。

デカルトしかり、カントしかり。

でもハイデガーは、そうではないのだと言います。

「目に見えてそこにある」ということの前提には常に「見る主観」がある。

さらにその前提には、デカルトの有名な「我思う、ゆえに我あり」という考え方がある。

ハイデガーはこの考え方を批判するのです。

ハイデガーは「我存在す、ゆえに我思考す」へと逆転する必要があると言います。

 

第6章の前半でハイデガーは、現存在の特徴として「気遣い」をあげました。

この「気遣い」とは、常に自身の「先に立っている」というものです。

「実在性」というものは、この「気遣いに依存している」とハイデガーは言います。

だから、 「実在性」 = 「存在」 ということにはならないのだと。

 

ここでハイデガーはもう一つ、非常に気になる表現をしています。

 

「現存在が存在しているかぎりにおいてのみ、言いかえれば、存在了解の存在的な可能性が存在しているかぎりにおいてのみ、存在は「与えられている」

 

これは、ハイデガーの「存在の思索」における、「現存在中心主義」とも言えるでしょうか。

後にハイデガーは自身の思索において「転回」を果たし、「存在中心主義」にシフトしていくことになります。

 

 

第44節では、現存在と開示性、そして「真理」について分析されています。

 

開示性というのは、第5章で分析された「内存在の特徴」でした。

それと「真理」が関わっていると言うのです。

 

ハイデガーは古代ギリシアの哲学を重視しているのですが、パルメニデスやアリストテレスなどは「真理」を「事象」つまり「おのれ自身を示すもの」として捉えていたと言います。

ギリシア語で「真理」は「アレーテイア」と言うのですが、ここでハイデガーお得意の「言葉遊び」が登場します。

ギリシア語で「レーテー」とは「秘匿性(隠されていること)」あるいは「忘却」と言います。

また、ギリシア語で「ア」は打消しの接頭辞です。

「ア・レーテー」は「隠されていること/忘れ去られていることの打消し」ということになり、

真理 = アレーテイア = 「暴露されていること」

になるのだと言います。

つまりは、現存在で言うところの「開示性」と同じようなことですね。

 

しかしながらその後の哲学者たちは、これとは違う「伝統的真理概念」を作り上げてきたのだとハイデガーは批判します。

 

批判の対象になっているのは、中世のカトリック神学者であるトマス・アクィナス、近世ドイツのカント、そして近代(ハイデガーにとってはほぼ「現代」)の新カント学派です。

 

彼らは、真理とは「認識とその対象との一致」だとします。

また、陳述においては「AはBである」ということにおいてAとBが一致しているということが真理なのだというのです。

 

ここでハイデガーは、お得意の「面白い例え」をあげます。

 

・誰かが壁に背を向けて「壁にかかっている絵は斜めだ」という真なる陳述をくだす

・その人が振り返って斜めにかかっている壁の絵をみて自分の陳述が明らかだということを示す

 

このとき、最初の「陳述」は「真理」だと言えるのか?とハイデガーは問うのです。

伝統的真理概念のように、「一致」が「真理」の根拠だとするのであれば「真理」だということになるでしょう。

でもハイデガーは、そうではないのだと言います。

壁の絵の例でいえば、陳述する人が、「壁の絵」という「存在者」についての「被暴露性」において陳述し、提示し、「見えるようにさせる」ことをしているのだと。こういった「現存在の存在者への関わり」は「世界内存在」ということを基盤としているのだと。

つまり、「独立した主観」が最初にあって、対象となる「世界」を認識するのではなく、最初から現存在は世界の「もとにある」存在なのだと。

ハイデガーは、「真理」という現象の基礎には、「認識」ではなく「世界内存在という現象」があるのだと言います。

 

またここでハイデガーは、気になる表現をしています。

 

・「真理」が与えられているのは、現存在が存在しているかぎりだけであり、またそのあいだだけである

・存在者は、総じて現存在が存在しているときだけ暴露されており、またそのあいだだけ開示されている

 

ここでハイデガーは「ニュートンの法則」を例にあげます。

 

ニュートンの法則で有名なのは「重力の法則」ですね。

リンゴの木からリンゴが落ちるのを見て思いついたと言われているあの有名な法則です。

 

ニュートンがそれを「法則」として発見する前から、リンゴは木から落ちていたわけです。

でも、ニュートンが発見する前にはそれは「真でも偽でもなかった」のだとハイデガーは言います。

 

・それらの諸法則はニュートンによって真となったのであり、それらの諸法則とともに存在者が、現存在にとってその存在者自身に即して近づきうるものとなった

・存在者が暴露されていることでもってその存在者は、まさしく以前にもすでに存在していた存在者として、おのれを示すのである

・すべての真理は、現存在に適合した本質上の存在様式に応じて、現存在の存在との相対関係にある

 

ここでもハイデガーはやはり「現存在中心主義」をとっていることがわかりますね。

 

さらにハイデガーは気になる表現をしています。

 

・真理は現存在の開示性として存在せざるをえない

 

真理という現象の基礎に世界内存在という現象があるのであれば、「真理が暴露される」ことは「現存在が暴露される」ことに他ならない、つまりそれは「現存在の開示性」ということである、ということでしょうか。

 

今回の第6章で、現存在の特徴としての「気遣い」と、その「気遣い」と「(現存在以外の)存在者」との関わりが明らかにされました。

 

第6章の最後、つまりは第1篇の最後で、ハイデガーは以下のような問いをあげます。

 

Q. しかし、気遣いという現象でもって、現存在の最も根源的な実存論的・存在論的機構が開示されて存在しているのであろうか

Q. 気遣いという現象のうちにひそんでいる構造上の多様性は、現事実的な現存在の存在の最も根源的な全体性を与えるのであろうか

Q. これまでの根本的探究は、そもそも現存在を全体として眼差しのうちへと取り入れていたのであろうか

 

これらの問いに関する探究が、第2篇で展開されていくことになります。

 

いや~、ここまで偶数回として9回、なんとか続けてきてようやく『存在と時間』の半分が終わりました~。

奇数回を挟むので隔週とはいえ、毎回100ページ近い本文を読み、それについてのレジュメを作成し、30分で報告し、その内容について哲学学校の参加者と1時間ディスカッションし、その後に報告としてホームページにアップする。

「万年3日坊主」の土畠にとっては、とても大きな成果です。

最初は「自分の勉強のためだから、1人でも参加してくれれば続けよう」なんて思っていたのですが、毎回5~10名の方が参加してくださり、リアルタイムでオンラインに参加できなくても「毎回録画観てます!」と言ってくださる方がけっこういらっしゃいます。

これまで付き合ってくれた皆さんに感謝です。

 

当初は大学の講義と同じスタイルで、全15回で読み切ろうと思っていましたが、ムリ!

ハイデガーだっていっつも最後までやれてなかったんだから、ドバデガーにはムリ!

ということで、前半を9回でやったということで、切りのいいところで全20回くらいでやり切れたらいいかなーと気楽に考えることにします。

 

 

※奇数回第19回は昨日9月17日に終了してしまいました…。

次回奇数日は10月1日(木) 10:30~12:00(時間が午前に変更になっているので注意)です。

『生きる場からの哲学入門』より、「農から現在を見る」、報告担当は稲生会管理栄養士の久保香苗です。

 

次回の偶数回は、9月24日(木) 13:30~15:00です。

(火曜日が祝日なので偶数回ですが奇数回と同じ曜日・時間になっています)

 

第20回として、いよいよ第2篇に突入。

第2篇第1章 「現存在の可能的な全体存在と、死へとかかわる存在」の前半部分(第45~49節)を扱います。

『存在と時間』の中でも最も大きなテーマのひとつ、「死」の分析が始まります。

 

 

みらいつくり哲学学校オンラインについてはこちら↓

「みらいつくり哲学学校 オンライン」 始めます