2020年8月25日(火) 10:30~12:00で、第16回となる「みらいつくり哲学学校オンライン」を開催しました。
偶数回はマルティン・ハイデガーの『存在と時間』を課題図書にしています。
今回は第1部第1篇第6章「現存在の存在としての気遣い」の前半を扱いました。
ハイデガーは人間を「現存在」と呼び、その存在の在り方を「世界内存在」と説明しました。
第3~5章では、世界、自己、他者、内存在というものについて説明してきました。
今回の第6章では、現存在の在り方の「全体性」を考える上で必要な「設計図」として、「気遣い」という概念を新たに提示します。
「気遣い」に関する説明を始める前に、ハイデガーは「根本情状性」としての「不安」についての説明から始めます。
「情状性」というのは、第5章で述べられた「内存在」の3つの在り方の一つでした(他は、「了解」と「語り」)。
情状性とは、一般的には「気分」と呼ばれるものです。
その情状性の根本的なものの一つが「不安」だと言うのです。
平均的日常性において「自己」は、「世人」という、他の人と区別がつかないような在り方に「頽落」しており、配慮的に気遣われた「世界」のもとに没入している、ということが述べられていました。
言い方を変えると、「本来的な自己」から逃げるように、「世人」という在り方に頽落しているということです。
なぜ「頽落」が起こるのか、つまり、なぜ人間は「本来的な自己」から目を背け逃げてしまうのか、ということの理由が「不安」にあるのだとハイデガーは言います。
「不安」に似た情状性(気分)は、「恐れ」です。ただし、「恐れ」は、具体的な存在者を対象として持ちます。
例えば、「熊が怖い」とか、あるいは「来週のテストが怖い」といったようなことです。
これと比較して「不安」は、はっきりとした対象を持たないと言います。
逆に、「不安」の対象は、「世界内存在そのもの」だと言うのです。
普段、身の回りに色々な道具や、様々な事柄、そして「他者」があり、その状況に「なじんでいる」わけですが、あるときそれらが急に「なじんでいない」、つまり、「無意義である」といったような気分に襲われることがあります。
それまでなじんでいた「世界」から弾き飛ばされてしまったように、「自分だけが独りになったような気分」になる、それこそが「不安」だと言うのです。
そのような状況を、ハイデガーは以下のように述べます。
・不安は、現存在の本来的な世界内存在しうることをめがけて、現存在を投げ返す
・不安は、現存在の最も固有な世界内存在へと現存在を単独化する
しかしながらこの「不安」は、現存在に「自由」をもたらすと言います。
・最も固有な存在しうることへとかかわる存在を、言いかえれば、おのれ自身を選択し把捉する自由に向かって自由であることを、現存在においてあらわにする
・現存在が何かに向かって自由であることに、つまり、現存在がつねにすでにそれである可能性としての現存在の存在の本来性に、現存在を当面させる
つまり、それまでなじんでいた(「世人」という形で頽落して存在していた)「世界」から「不安」によって「単独化」という状態にされ、そこから自分自身の本来の可能性をつかみとる(あるいは再び頽落した状態に逃げる)ことができる状況に置かれるということです。
「自らの可能性をつかむ」ということは、「今の自分」より先のことを考えることです。
現存在の中にある、このような「自らに先立つ」という在り方のことを、ハイデガーは「気遣い」と呼びます。
平均的日常性においては、「世人」という形で「世界」に「配慮的な気遣い」をしているため、
「可能性に対して盲目になり、『現実的』でしかないもののもとで安らぎをえてしまう」
のだと言います。
本来的自己への「気遣い」と似ているがそうではないものとして、ハイデガーは以下をあげます。
・意欲: 意欲されているのは積極的な新しい諸可能性ではないのであって、むしろ、意のままになるものが、何か重要なことが生起しているという見せかけが生ずるような仕方で、「戦術上」変化させられる
・願望: 世人の指導のもとで安らぎをえた「意欲」。願望は了解しつつおのれを企投することの一つの実存論的な変様なのだが、そうした企投は、被投性に頽落しているのに、諸可能性にもっぱら依然として専心している。そうした専心は諸可能性を閉鎖する
・性癖: 頽落しつつある専心は、現存在がその内でそのつど存在している世界によって「生かされ」ようとする現存在の性癖をあらわにする
・渇望: 「生きようとする」渇望は、おのれ自身のほうから衝撃をたずさえてくる「へと向かっていく」ことなのである。渇望は他のもろもろの可能性を押しのけようとする
また、「心配」とか「憂慮」というものは、「気遣い」を存在的に(存在論的にではなく)理解したものだと言います。
ハイデガーは、「気遣い」の目的(しわざ)を、以下のように述べます。
・人間の完成、つまり、人間がおのれの最も固有な諸可能性に向かって自由であること(企投)においてそれでありうる当のものに成ること
ちなみに、「気遣い」は他の訳書では、「関心」と訳しているものもありますね。
「関心」だと、何となく「興味をもつこと」的な、認識的なニュアンスが前面に出るような気はしますね。
もちろん、「気づかい」も同じと言えば同じなんですが、「気遣い」と漢字で表記するとなんとなく「自らに先立ってあること」というのがイメージできるような気がします。
次回の偶数回は、9月8日(火) 10:30~12:00です。
第18回として、第1篇第6章「現存在の存在としての気遣い」の後半を扱います。
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