みらいつくり大学校企画
第9回みらいつくり読書会@zoom
【課題図書】
トルストイ『イワン・イリッチの死』
【実施日時】
2020/7/31 10:00~11:00
【参加者】
A,B,C,D (全4名)
【内容】
A:皆さんは何訳で読んだんですか?僕は岩波新書でした。
B:僕は光文社で読みました。
C:私は岩波新書です。
D:私はインターネットにある書評をたくさん読みました。
C:今日までに『古典として読む イワンの馬鹿』も読みました。
A:ロシア文学にはまりそうですね。でも長いです。
D:長いのはいやですね。
C:私から言っていいですか。私には覚えにくい名前がたくさん出てきて、一瞬挫けそうになりました。
A:フルネームで出てくるしね。
C:最初に出てくる人たちの中には、本筋にあまり関係のない人たちもいました。
C:いくつも面白いところはありました。今、私は別なところでクラインマン『病いの語り』を読んでいます。「慢性の病い」や「死に至る病い」とつながってこの『イワン・イリッチの死』を読めるような気がして面白かったです。具体的には、身体性と精神性が合わさっているような感覚のことです。この本の中では、単に心と体を一つのものとして描いているというだけではなくて、身体と心それぞれに輪郭は残しつつ一つのものとして語っているような気がしました。身体と心は一つの対比ですが、主観と客観ということに関しても、入り混じっていくような書き方をしていると思いました。イワンが感じていることとして書かれていても、それが事実かどうかはわからないような書き方でした。果たして事実とは何かということですが。その辺のおり混ぜ方が面白いと思いました。
D:あらすじを読んできました。昔に書かれていた物語なのに、今に通じる話だと思いました。自分の出世とか、住んでいる所とか環境、美しい奥さん、そんな普通の人たちが求めるものをイワンも求め続けていました。それらは古臭い話ではないと思いました。今も通じる話だと思いました。普通のことを求めることが悪いことではないと思います。むしろありがちなことです。そして、この人は自分の死が近づくにつれて悶々としていると書いてありました。そんなに悶々とするのかな、とも思いました。仕事と家族と、頑張ろうとすることがなんでそんなに悶々とするんだろうと思いました。「誰かのためにやったことがない」という文章がありました。主人公は自分のためだけに生きてきたということです。そんなことを人生の最後で後悔する、ということならば、自分本位に生きていくことが何か自分の人生を振り返る時の後悔の原因になるんだなと思いました。
B;僕は、ハイデガーの『存在と時間』を並行して読んでいるからだと思うのですが、イワンが病気になるまでのありようは、ハイデガーでいうところの「世人」です。要は「みんなこうだから自分も」という生き方です。「みんな欲しいと思うから自分も欲しい」ということを疑わない。最後、病床で彼は現存在に近づくのではないかと思いました。そのグラデーションが非常に面白かったです。キーパーソンの一人は奥さんです。トルストイは悪妻を持った人の代表と言われています。「悪妻をもつと哲学者になる」という格言があります。よく例に出されるのが、ソクラテスとトルストイです。「悪妻は人を哲学者にする」ということですね。
A:僕たちは哲学者には慣れないですね。
B:なれないですね。
A:言ってみました。
D:はっはっは。
B:それ(この本に出てくる悪妻)は、トルストイの自伝的な側面でもあるのかなと思いました。
A:悪妻と離別したのは後期ですよね。
B:そうですね。この人はのたれ死ぬはずです。
A:私的所有を否定していく、と言ったような話だったように思います。財産を人のものにしないというような。そんな話は奥さんからしたら「なんだそりゃ」ですよね。
B:あと、もう一人のキーパーソンは、ゲラーシェムです。彼(イワン)の身の回りを見る人です。その人のあり方も気になりました。僕は病気になったことがあるので、人が活力に満ちていることを見るだけでダメージがあるという経験が実際にあります。他の人間の活力といったものがイワンにとっては…とあります。でもゲラーシェムの力と活力だけは…と書いています。自分が病気になって何もできない時に、普通の人が普通に元気にいるということを見ることも辛いというのはめちゃめちゃわかるんですよね。でもこのゲラーシェムが元気でいるということだけは耐えられた、むしろ慰めであったということです。ゲラーシェムという人のあり様に、僕は救済のようなものを感じました。彼の存在があったからこそ、イワン・イリッチは世人から現存在になるというある種の辛いプロセスを通り抜けられたのだと思いました。その辺が面白いと思いました。
A:僕も最初そのように読んでいました。すべて読んで、もう一度最初を読み直すと、ゲラーシェムはイワンが死んだ後にも出てきていることがわかります。その場面で、コートを差し出すシーンがあります。主人が死んでどんな様子だいと聞かれるシーンです。そうすると、ゲラーシムは「何事も神様の御心でございます」と答えます。「誰だってあそこに行くんですから」と。だから、ゲラーシムが特別に主人に対して気遣いをしたというよりは、むしろ淡々と、そういうものだとして、自分が召使であるという仕事をしたまでで、特別な感情はなかったということかと思いました。イワン・イリッチにとってはそこが良かったのかもしれないですが。
B:それもあるんでしょうね。
A:よく捉えると「嘘がない」ということです。そういう人なんだなと思って読みました。僕が読んで面白かったなと思うのは、死に至るプロセスで、途中で内部の声が出てきます。自分自身と自分自身ではないけれど他者ではないものとの対話のシーンが出てきます。これってなんだと。10節のあたりです。内部の声が応えるとあります。苦しみはなんのためだと問うわけです。これがハイデガーでいうところの「良心の呼び声」であると思います。それが非常に面白かったです。あとは、一番最後、息子とのシーンがあります。息子がお父さんの手にキスをします。そこで何かが開けるという所です。でもその時に「許してくれ」と言いたかったが「緩めてくれ」と言ってしまった、とあります。日本語だからこのようになっているのか、その辺りはどうかわかりませんでした。
B:光文社にはロシア語がカタカナで書かれていました。振り仮名でふっています。
A;ではうまい翻訳なんですね。トルストイがキリスト教の文脈をもつからそうだと思いますが、キリスト教で「ゆるし」には大切な意味があります。でも「ゆるし」を「ゆるめて」と言ってしまったわけです。先程話題になった身体性と精神性ということだと思います。たとえ言い間違えたとしても、精神でゆるしてくれと言ったのであればそれでいいのだということなんだと思いました。最後に死ぬシーンがあります。「いよいよおしまいだ」と誰かが言います。そして彼はこの言葉を聞いて繰り返します。そして「死はおしまいだ」と言います。そして死はなくなったと。普通なら、この後死ぬということになりそうだけれど、彼にとっては別の定義になったのだと思います。死が恐れを抱かせる対象として向こうにあるということから、最後の最後に本当に死に至る直前に、光がさすようにして、死が完了するということに至っています。ハイデガーは全体性を獲得するプロセスに死があると言います。そんなことを考えながら読むと面白かったです。死の代わりに光があったと書いています。その先に、永遠の死があるのではなく、死が終わって、その先に永遠の光があったということです。多分にトルストイの宗教観が反映されているのだと思い面白かったです。
C:内部の声とありましたが、痛みと対話するところもありました。痛みを擬人化しているような場面です。私はその辺から引き込まれるようにして読みました。6節あたりでしょうか。「痛みは自分のすることを続けた」とあります。痛みを「あいつ」と表現して「差し向かいになった」「顔を突き合わせた」とあります。すごい面白かったです。
A:ハイデガー的には、現存在は平均的日常性においては、事物の側から理解していると言います。現存在はいろいろなあり方がありますが、最後の部分は「実存」と言えると思います。痛みというものも、現存在の実存ではなくて、痛みから自分を理解しているということなんだと思うと「あいつ」の意味がわかるような気がします。
B:最後死ぬ時に「死は終わった、もはや死はない」とあります。ここでいうのは「死」なんだけれど、意味合いは「誕生」である気がします。むしろ誕生のシーンに見えます。何かが生まれた瞬間でもあります。この世の側からしたらある人の死が描かれているのですが、あちら側の世界ではある人が生まれたと描かれているところが面白いと思いました。「二度生まれ」という概念があります。もともと言ったのはエリック・エリクソンらしいです。人には「一度生まれ」の人と「二度生まれ」の人がいるということです。「一度生まれ」の人の特徴は、この世に自分がいることを至極自然なことであると思って疑わない。いわゆる世人的です。この世の価値観に疑いを持たない。でも世の中には「二度生まれ」という人がいます。そういう人たちは何か「この世に自分はいていいんだろうか」ということを思っています。そういう人たちの多くが、苦しみを経験して、もう一度生まれるんだと。そしてその人本来のものとなる、という人たちがいます。そんな人たちは深い精神性を獲得するというんです。神谷美恵子は、ハンセン氏病のケアをした人ですが、ハンセン氏病の人の中には「二度生まれ」的な精神性をもつ人が多いと書いていました。『生きがいについて』だったと思います。イワン・イリッチについては、死んだ瞬間に「二度生まれ」をしたんだと言えるのかもしれません。病気になるまでは典型的な「一度生まれ」の人でした。自分がこの世にいるのが当たり前だと思っています。生まれた瞬間、そんなカタルシスがクライマックスになっていることも面白かったです。
D:それはキリスト教的な考えですか?例えば仏教の輪廻転生とは違うのでしょうか。
A:「二度生まれ」をキリスト的な文脈で言うと、新生と言うかもしれません。回心とも言うでしょうか。過去の世人的な生き方をしていたけれども、神を知って回心すると言ったようなことかもしれませんね。神谷美恵子さんはクリスチャンではなかったのかもしれませんが、ハンセン氏病の人はクリスチャンの人が多いですよね。
B:そうですよね。すごく多いと思います。
D:ふーん。
B:ハンセン氏病の施設が清瀬にあります。そこに行ったことがあります。今日NBAが再開されるのですが「バブルの中で行われている」と喩えられています。それは、フロリダのディズニーリゾートの中に、あと二ヶ月誰もそこから出ないし誰も入ってこないと言う状況をつくるんです。それは泡の中に入ると言う意味で「バブル」と表現されます。そう言う意味でハンセン氏病の施設は「バブル」です。その中に、上下水道場があるんです。すごいですよね。全部がそこで完結するようになっているんですよね。僕が驚いたのは、各種寺院があるんです。寺、神社、カトリックの教会、自由主義の教会、プロテスタントの教会…といった感じです。どの宗派でも選べるんです。宗教の自由は担保するんだけれど、出てはいけないし入ってはいけないんです。キリスト教徒が多いのはそんなことも関係しているように思います。あとは、高松宮さんが関わっています。昭和天皇の弟です。彼はほぼクリスチャンであると思います。公式には当然言えませんが、内面がクリスチャンであることが状況証拠からわかってきます。彼の家庭教師は賀川豊彦でした。また、彼はICUの設立に関わっています。もともとはキリスト教学部を東大につくるという計画がありました。それが頓挫して、国際キリスト教大学になったわけです。それの日本で基金を募ったのが高松宮で、アメリカで基金を募ったのがマッカーサーです。そして彼はああいう全生会もつくるわけです。全生会の資料館には、いかにキリスト教が素晴らしいか、クリスチャンがハンセン氏病のケアをいかにしてきたかがつらつらと書かれています。高松宮は本気でキリスト教を日本に広めたいと考えていたのではないかと思います。全生会に行って僕はそう思いました。
D:すごい話ですね。
A:ハンセン氏病の人たちの詩集がありますよね。そういうものを読むといろいろなことを考えます。僕も以前岡山に行こうとしていたのですが、できませんでした。そういうところに行きたいなと思っています。なんの話をしていたんでしたっけ?
B:Dさんの話に戻ると、キリスト教と「二度生まれ」についてですね。『イワン・イリッチの死』の本文にも、「聖体拝領」とあります。これはカトリックの聖餐式です。それを神父がしてくれるのですが、これも一つの象徴です。これを仏教的に解釈することも可能でしょうか。もともとの仏教では難しい気がします。大乗仏教では、このあと目が覚めると自分は蝿になっていて…といったように続くように思います。仏教でいう時間は、終わりなき連環なので、ここで光が指すと言う意味の死をもってくるのは難しい気がします。容赦ない死がそこにあります。そこには意味もないし感傷もないですよね。厳密な仏教では難しいような気がします。
A:痛みにとりつかれている精神性からの解放ということでは、仏教的な「解脱」としては読めないでしょうか。
D:「悟りを開く」とかそういうことですかね。
A:痛みという身体性については、むしろ仏教的な概念の方が倒置することができるかもしれないですね。
D:そうですね。
C:仏教だったら蝿になるかも、という話とつながりますが、病を抱えていく感じは、カフカ『変身』とも重なりますよね。
B:周りが気を遣っていることが嫌だ、といったあたりもそうですね。
A:転んだときの傷から、というのも似ていますね。唯一、病気の名前がよくわかりませんでした。遊性腎臓病ってわかりませんでした。医療者としては…。
B:腎不全とかなのでしょうか。これだけ痛いから…。
A:がんだと思います。打ったのはあまり関係ない。部屋の中を華美に装飾します。使用人に任せればいいものを自分でやろうとする。ものに囚われているいわゆる「世人」の生き方です。そんなもの病気に関係ないんだけれど、この物語の中では、その小さなきっかけからそうなると書いています。
C:Aさんがはじめから読み直すと、と言っていましたが、私も読み終えてからはじめに戻ってもう一度読みました。恐ろしいと思ったことがありました。イワンは光を得て、解放されたと言ったようなことでした。でも、イワンが死んだ後に、他の人たちはいわゆる「世人」的な生き方をしています。最初に書かれている、集まった人たちが考えたことは「地位」について、また「死んだのは俺じゃなくてあいつだと悦ぶ」ともあります。その辺の描写から、これは一人を主人公にした物語なんだけれど、このあと、別な世人が別に死んでいくんだと思いました。その連続を見るような気がして恐ろしく思いました。イワンの死から誰も学んでいないわけです。
B:映画の『マトリックス』みたいですよね。イワンはカプセルを飲んで終わったんですよね。他の人たちは幻想世界に生き続けるわけです。
C:そんなぐるっと回るような感じがゾクゾクしました。
D:そんなドラマも時々ありますよね。あるおじいちゃんが亡くなろうとしているときに、親戚が争っているというような’。現代にもつながる話ですね。
B:前半を読んでいて、病気になる前の生き様が丁寧に描かれているなと思いました。執拗に描かれています。出世ゲームとか家を建てるとか。それらを読みながら、既視感がありました。僕が公務員の時の同僚にこういう人がいました。公務員のステレオタイプってこういう人だと思います。結局40年後の給料まで計算できる世界ですから、そこにある興味は誰かよりも出世するとか、誰かより早く家を建てるとか、いい車を買うとか、それくらいしか人生の関心がなくなってくるのだと思います。イワンは公務員的な、世人の中でも世人的です。商売をしている人だとこうはならなくて、もっと実存に関わることがあるのだと思います。でもそれすら無いです。
C:職業的なことで言うと、裁判官というのが面白いと思いました。自分以外の人に対する「生殺与奪の権」があると書いていました。他の人たちが生きたり死んだりする権利を自分が持っているとあります。そういう職業としてイワンが描かれていて、でも自分の死に向かう過程では、自分のいのちが自分の手の届かないものになっていくわけです。職業がしっかりフリになっているんだなと思いました。
A:さっきBくんがいっていましたけれど、他の人よりもいい家をとか車をとか、そんなことを思いながら、それらを得た時がありますよね。家を整えるシーンです。そこで何を揃えているかが書いてありますが「それはありふれたものだった」とあります。彼らは裕福なものに似せようとしているので、似通ってくる。でも彼自身にとっては何か特別なものに見えていた、と。本人は「自分が手に入れた」と思っている。でも結局は他の人と一緒です。ハイデガーの「世人」という概念そのままですよね。
B:今の日本にもたくさんいますよね。「私らしく」とか「オンリーワン」という言葉が大好きなすごくありふれた人です。
A:結局見ているものが同じですからね。見ているものがオンリーワンという。
C:そんな部屋の整理をしていて、死に至るんですよね。
A:そうですよね。転んだシーンの直後に、そういった「もの」について書かれているんです。世人であるイワン・イリッチの視点で描かれているところもあるんだけど、内部の声のような、第三者が世人から変わっていく様子を見ている視点も用いられています。それが少しずつ出てきています。その第三者の目線がおもしろいですね。
A:次回以降どうしますか。ロシア文学でも同じ文量のものはありますよね。ロシアから抜け出しますか?カレル・チャペックもいいですよね。
B:僕はカレル・チャペックを病気の時に教えてもらって読んでいました。『山椒魚戦争』が面白かったです。SFですが、山椒魚が人類と交雑をしてという話です。これがすごいのは、その山椒魚人間が人類を支配するんだけれど、それはナチスのメタファーなんです。当時、ナチスをナチスとしてディスることはできなかったわけです。SFの中でしていたんですよね。カレル・チャペックは「ロボット」という言葉を作った人でもあります。
A:「ロボット」が書かれている作品が青空文庫にあります。『R.U.R』という作品です。これは戯曲です。これだと青空文庫で読めますから、どうでしょうか。もっとおすすめなのは『園芸家12カ月』です。カレル・チャペックのエッセーは素晴らしいです。
B:長さは穏当ですか?
A:ページ数はありますが、セリフなので読めると思います。
B:ロボットはチェコ語で労働という意味ですよね。
A:岩波文庫では『ロボット』とありますね。訳者が全然違いますが。
C:世界を旅しているみたいですね。
A:この次どこに行こうかということですね。
D:出てくる登場人物の名前が分かりやすいと嬉しいですね。
B:ロシア文学はあだ名とか出てきますからね。
A:誰がアリョーシャなんだ、となりますよね。
C:今回も私は紙に出てきた人を書きながら読みました。
D:えらい!
A:まじめですね。
B:ウクライナ人の友達がいるんですけど、聞いてみると、ロシアでは当たり前のようです。ある一人に対して、男性が呼ぶあだ名、女性が呼ぶあだ名、親が呼ぶあだ名、それぞれ違うようです。みんなそうだから当たり前だと言っていました。関係性の中で名前が変わるのはアジア的です。西洋だとあり得ないですよね。近代個人主義だとです。関係性が名前を決めるというのはむしろアジア的で、ロシアがユーロアジアだというのもわかる気がします。アジアとヨーロッパのバランス位置にいる感じが面白いです。
A:次はもう少し東に行けるといいですね。今回はチェコなので、中国とか読んだことのない国の本ありますよね。
D:私は三国志も読んだことありません。
B:今『三体』という本が出ていますよね。中国のSF作家が書いた本が売れています。買っただけで読んでいないのですが。
A:魯迅とかですかね。名前は知っていますが読んだことありません。短い作品もありそうです。でも漢字が多いですね。台湾はまだ青空にはなさそうですね。Cくん、旅するシリーズいいかもしれないですね。
B:「世界を旅する読書」ですね。
A:南米も気になります。『百年の孤独』ですね。キューバ文学もあります。
B:チェゲバラ自伝は面白かったですね。文学じゃないですが。
C:次回の日程、21日はどうですか。『山椒魚戦争』も話題になったので、読んでみると面白いかもしれませんね。私はチェコの思想的な背景を全然知りませんが読めるでしょうか。
A:チェコはマサリクという哲学者が首相だった時期があります。哲人首相と言われています。一時期チェコにはまって色々と読みました。
B:バッチャという靴屋さんがすごく有名ですよね。バッタと書きます。佐藤優がチェコの神学者フロマートカを研究したくて、チェコ語を学ぼうと外交官になったといいます。よく佐藤優が言うのは、世界大戦前に多くの国がナチス化していく時に、チェコはかなり戦った側でした。戦うだけの基礎体力があったと。国家主義ということで、バッチャという製造業を首相が国策として守り、体力をつけていたからだと言っていました。機関産業の一つにバッチャという靴屋があります。インドやトルコで見たことがあります。
D:21日も難しかったです。19日はいかがですか?
C:では19日でいきましょう。10:00〜11:00でお願いします。