2020年8月11日(火) 10:30~12:00で、第14回となる「みらいつくり哲学学校オンライン」を開催しました。
偶数回はマルティン・ハイデガーの『存在と時間』を課題図書にしています。
今回は第1部第1篇第5章「内存在そのもの」の後半を扱いました。
ハイデガーは、人間を「現存在」と定義し、現存在の特徴を「世界内存在」であるとします。
その「世界内存在」を構成する要素を分析するのが、第3章から第5章です。
第3章では「世界」、第4章では「共存在および自己存在」、そして今回の第5章では「内存在」という要素について分析します。
第5章の「内存在そのもの」の内容は、二つに分かれます。
A. 現の実存論的構成
B. 現の日常的存在と現存在の頽落
ハイデガーがよくやる書き方ですが、最初にその概念がどのように構成されているかということについて述べ、次にその概念が「平均的日常性においてどのような在り方になっているか」ということについて述べます。
今回は「B. 現の日常的存在と現存在の頽落」を扱いました。
前半のAでは、現であるという構成的な在り方として、等根源的な要素を三つあげます。
①情状性
②了解
③語り
第5章の後半部Bでは、これら三つの要素の「平均的日常性における在り方」が述べられます。
ここでいつもの「なんでなのハイデガー?」ということで、なぜか逆の順番で述べられます(笑)
①空談 : 平均的日常性における語り
②好奇心 : 平均的日常性における了解
③曖昧性 : 平均的日常性における情状性
ひとつずつ説明していきます。
①空談 : 平均的日常性における「語り」
訳によっては「噂話」と訳してあるものもあります。
他の人が言っていることを耳にして、それをそのまま他の人に伝える、というものですね。
ハイデガーは、このような空談は「根こそぎにされた現存在の了解内容という存在様式」であるといいます。
このような空談は、もともと「地盤のうえに生え抜いてはいない」もので、「語りまねと語り広め」、あるいは「なぐり書きされたもの」を「読みかじり」することでどんどんと広まり、ついには「完全に地盤を失う」と言います。
②好奇心 : 平均的日常性における「了解」
これは「視」という気遣いが、「滞留しないこと」、「新しい諸可能性のうちへと気散じ」ること、つまり、次から次へと色んな物やことに気をとられるといったような状態です。
さらに、それらのことを「わかったような気になってしまっている」ような状態のことです。
このような「空談」や「好奇心」により、現存在は「本物だと思い誤られた、生き生きとした生活」を得るといいます。
③曖昧性 : 平均的日常性における「情状性」
曖昧性というのは、「何が真正の了解のうちで開示されているものであり、何がそうでないものであるかは、もはや決せられなくなる」ような情状性のことだといいます。こうした曖昧性は、「世界へと伸び拡がっているばかりではなく、同じく相互共存在そのものへと、それどころか、おのれ自身へとかかわる現存在の存在へも伸び拡がっている」といいます。
また、この曖昧性は、「すべてのものが、真正に了解され、捕捉され、発言されているような外見」を呈しているにもかかわらず「根本においてはそうではない」という特徴をもちます。
これらの「空談」「好奇心」「曖昧性」という在り方は、日常的に現存在がおのれの「現」である在り方、つまり、世界内存在の開示性である在り方を性格づけているとし、これのことを「頽落」とハイデガーは名づけます。
頽落
・現存在が差しあたってたいていは配慮的に気遣われた「世界」のもとに存在していること
・何かのものに没入しているということは、多くは、世人の公共性のうちへと現存在が喪失されているという性格をもっている
・現存在は、本来的な自己存在しうることとしてのおのれ自身から、差しあたってすでに脱落してしまって、「世界」に頽落してしまっている
・「世界」への頽落性は、相互共存在が空談と好奇心と曖昧性とによって導かれているかぎり、こうした相互共存在のうちに没入しているということを指す
・非本来的な世界内存在は、「世界」と、世人というかたちをとった他者たちの共現存在とによって、完全に心を奪われている
・おのれ自身ではないということが、本質上配慮的に気遣いつつなんらかの世界のうちに没入している存在者の積極的な可能性として、その機能を果たしている
このような「頽落」によって現存在が陥ってしまう思い誤りとして、以下のように述べます。
・世人の自信や決然たる態度が、本来的な情状的了解に関して、こうした本来的な情状的了解は不必要だという考えをますます広める
・完全な真正の「生活」を養い導いているのだという世人の思い誤りが、万事はそのために「このうえなくうまくいって」おり、だからあらゆる門戸がそれにとっては開かれているという安らぎを、現存在のうちへと持ち込む
・頽落しつつある世界内存在は、おのれ自身にとって、誘惑するものであると同時に安らぎをえさせるものなのである
・非本来的存在におけるこうした安らぎは、静止や無活動へと誘導するのではなく、制止のきかない「活動」のうちへと駆り立てるのである
・安らぎをえて、万事を「了解しつつ」、このようにおのれを万事と比較することのうちで、現存在は疎外へ吹き流されるのだが、この疎外においては最も固有な存在しうることは現存在には秘匿されている
・頽落しつつある世界内存在は、誘惑し安らぎをえさせるものとして、同時に疎外させるものでもある
またもや、グサッとくるような内容ですね…。
ここにきてハイデガーは、「疎外」という概念についてとりあげます。
「疎外」というと、一番有名なのはカール・マルクスによるものなのですが、それとは無関係なもののようです。
ハイデガーの言う疎外とは、頽落という状態に陥ることにより、現存在の「本来性」や「可能性」を、奪い去ってしまうような状況のようです。現存在はそれによってむしろ「安らぎをえる」と言っています。
現存在のこうした「動性」をハイデガーは「転落」と名付けます。
「現存在は、おのれ自身から、おのれ自身のうちへと、つまり、非本来的な日常性の無地盤性と空虚性のうちへと、転落する」のですが、「この転落は「上昇」や「具体的な生活」だと解釈されるほどなのである」とも言います。
「世人というかたちをとった非本来的存在の無地盤性のなかへの転落」により、現存在は「万事を所有しているとか達成しているとかいう安らぎをえた思い誤りのうちへと」引き込まれ、「本来性から不断にもぎ離しながらも、しかも本来性だとつねに思い違いをさせる」といい、こうした「頽落の動性」を「旋回」として性格づけているといいます。
注意してほしいのは、ハイデガーは道徳的あるいは規範的に「頽落は良くない」「非本来性は良くない」といっているのではないということです。
「現存在は、それにとっては了解しつつある情状的な世界内存在へとかかわりゆくことが問題であるゆえにのみ、頽落することができる」のだといいます。
そして、
「逆に、本来的実存は、頽落しつつある日常性のうえに浮動しているものではなんらなく、実存論的には、そうした日常性が変様されてつかみとられたものにすぎない」
と言います。
つまり、「頽落」という在り方になっている「日常性」が「変様される」ことで「つかみとられる」のが「本来的実存」だと言うことです。
つまり、変えるべき「日常性」をまずはしっかりと捉えた上で、「本来的実存をつかみとる」ためにその「日常性」を変える必要があるということですね。
では、どのように「日常性を変様させる」のでしょうか。
それについては、第2篇まで待つ必要があります。
第2篇に進む前に、現存在の存在を包括的に、現象学という学問によって解釈する必要があると言います。
そして、現存在を「気遣い」として解釈する必要があると言うのですが、それについては次の第6章で分析されます。
ディスカッションの中では、「ママ友同士の噂話」や「ワイドショー」などについて「空談」や「好奇心」に関連付けて議論がなされました。
また、あくまで「一時的な仮説」にしかすぎない「科学的知識」に基盤を置こうとする人々の姿勢について、「人間は不安に耐えられないから何かにすがりたい」のだと言うこと、でも本来はその「不安」とともに生きる「覚悟」が必要なのだと思う、という意見が出されたりしました。
実はこの「不安」というのは次の第6章で述べられる概念で、「覚悟」というのも第2篇で出てきます。
次回の偶数回は、8月25日(火) 10:30~12:00です。
第16回として、第1篇第6章「現存在の存在としての気遣い」の前半を扱います。
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