2020年7月28日(火) 10:30~12:00で、第12回となる「みらいつくり哲学学校オンライン」を開催しました。
偶数回はマルティン・ハイデガーの『存在と時間』を課題図書にしています。
今回は第1部第1篇第5章「内存在そのもの」の前半を扱いました。
課題図書に用いている原佑・渡邊二郎訳、中公クラシックス版『存在と時間』は全3巻となっており、今回の第5章から第Ⅱ分冊が始まります。
ハイデガーは、人間を「現存在」と定義し、現存在の特徴を「世界内存在」であるとします。
その「世界内存在」を構成する要素を分析するのが、第3章から第5章です。
第3章では「世界」、第4章では「共存在および自己存在」、そして今回の第5章では「内存在」という要素について分析します。
第5章の「内存在そのもの」の内容は、二つに分かれます。
A. 現の実存論的構成
B. 現の日常的存在と現存在の頽落
ハイデガーがよくやる書き方ですが、最初にその概念がどのように構成されているかということについて述べ、次にその概念が「平均的日常性においてどのような在り方になっているか」ということについて述べます。
今回は「A. 現の実存論的構成」を扱いました。
「現」とは、「ここ」とか「あそこ」のことであると言います。
「現」の在り方というのは、「明るみ」という特徴を持つと言います。
そして、「現存在」とは、おのれの「開示性」であるとします。
「現存在は、他の存在者によって明るくされているのではなく、おのれ自身が明るみである」とも言います。
現であるという構成的な在り方として、等根源的な要素を三つあげます。
①情状性
②了解
③語り
第5章の前半部では、この三つの要素について述べられます。
1) 情状性
情状性とは、一般的には「気分」と呼ばれるものです。
現存在は、否が応でも存在しているという事実があり、それをハイデガーは「被投性」と名づけます。イメージとしては、世界の中に投げ込まれてしまっている、という感じでしょうか。現存在は、ただ投げ込まれてしまっているだけでなく、「情状性において開示されている」、つまり何らかの気分とともにある、と言います。
ここでハイデガーは、「重荷を負っているという現存在の性格は気分のうちであらわになる」という表現もしています。この「重荷を負う」というのは、今後また繰り返される表現なのですが、ここではこれ以上触れません。
ハイデガーはこの「情状性」の例として、「不機嫌な気分」を挙げます。
・不機嫌な気分においては、現存在はおのれ自身に対して盲目になる → そういう状態、よくありますよね。
・配慮的に気遣われた環境世界はヴェールをかぶり、配慮的な気遣いの配視は誤り導かれる → イライラしていて余裕が無いようなとき、周囲に対する配慮が不足し、エラーを起こしてしまうということもよくありますね
・情状性は、配慮的に気遣われた「世界」に無反省に身をまかせ引き渡されているときにこそ現存在を襲う → 自己や他者の事を慮る(ハイデガーが言うところの顧慮)ことができず、モノやコトにばかり気をとられているときに、急にイライラしてしまったりすることはありますよね
・気分は「外」から来るのでもなければ「内」から来るのでもなく、世界内存在という在り方として、世界内存在自身からきざしてくる → これがちょっとわからないんですよね・・・。気分は「現存在を襲う」んだけど、「外」から来るのではなく、でも「内」から来るのでもない…。
このほかハイデガーは、情状性の一つの様態として「恐れ」を取り上げています。
「恐れ」というものには、対象があると言います。
それに対して、次の第6章以降で出てくる「不安」については対象がない、と言うのですが、それはまた今度。
ちなみにハイデガー、「恐れ」が変化したものとして下記のようなものを挙げています。
・何か熟知の親しいものが突如として入り込んでくることによって起こる「恐れ」 = 驚愕
・全然親しくないものによって脅かされることで起こる「恐れ」 = 戦慄
・戦慄でかつ突如性をもつ「恐れ」 = 仰天
・そのほかの「恐れ」 = 尻込み、おじけ、気がかり、びっくり
ハイデガー、絶対ニヤニヤしながら書いてるよね…。
2) 了解
「現存在が存在しているための目的であるものにおいて実存しつつある世界内存在そのものが開示されている。こうした開示性が了解と名づけられている」
相変わらず難しい表現ですね…。
現存在つまり人間が存在している「目的」があるとして、「実存しつつある」=その目的への可能性に近づいている過程で、「世界内存在そのもの」=人間の性質が「開示されている」=明らかになっている。そのように開示されている状態が「了解」だと言うことでしょうか。
ここでハイデガーは「可能性」について言及しています。
この「可能性」に関して、現存在の特徴を次のように挙げます。
・おのれ自身に委ねられている可能存在
・徹頭徹尾被投された可能性
・おのれの最も固有な存在しうることに向かって自由であるという可能性
・おのれの存在しうることに対して、おのれがとるべき立場を「知っている」
さらにここで、『存在と時間』の中でも重要な概念のひとつである「企投」が登場します。
・了解は企投と名づける実存論的構造をそれ自身おびている
・了解は、現存在のそのときどきの世界の世界性としての有意義性をめがけて、現存在の存在を根源的に企投する
・企投は、投げることにおいて、可能性を可能性としておのれのためにまえもって投げ、それを可能性として存在させる
・現存在は、おのれがそれに成る当のもの、ないしはそれに成らない当のものであるゆえにのみ、現存在は了解しつつおのれ自身にこう言うことができる ⇒ 「汝があるところのものに成れ!」
現存在が自身の可能性に対して自身の存在を「投げ入れる」のが企投ということになるでしょうか。
そしてさらに、現存在の了解の特徴を挙げます。
・差しあたってたいていは、おのれの世界のほうからおのれを了解しうる
・そうでない場合には、了解は、第一次的には、目的であるもののうちへとおのれを投げ入れる。言いかえれば、現存在自身として実存する
ここで、これもまた『存在と時間』において重要な「本来性」という用語が出てきます。
了解の二つの可能性として、
①おのれの固有な自己そのものから発現する本来的な了解
②非本来的な了解
があるとします。
ここで注意が必要なのは、「本来性」と「非本来性」については、道徳的な善し悪しではないということです。
その人固有のものなのか、そうではなく他の人からきたものなのか、という区別をしているだけ、ということです。
次の第32節は「了解と解釈」というタイトルになっています。
「了解の企投するはたらきは、おのれを完成するという固有の可能性をもっている」とし、「了解の完成」が解釈だと言います。
・解釈というかたちをとって了解は、何か他のものになるのではなく、おのれ自身になる
・解釈は、了解されたものを承知することではなく、むしろ、了解において企投された諸可能性を仕上げること
解釈においては、あらかじめ「~として」という構造があると言います。
後に「解釈学的状況」と名づけられ、ハイデガーの弟弟子であるガダマーによって発展される概念です。
解釈における3つの「予」構造
①予持: 道具的存在者を解釈するときには、その道具的存在者がいかなる適用のもとで道具でありうるかをあらかじめ所持している
②予視: 解釈するための視点をあらかじめ定めている
③予握: その道具的存在者の何であるかをあらかじめ概念的に把握している
そしてここで「意味」という概念が登場します。
・或るものの了解可能性がそのうちに保たれている当のもの
・了解しつつ開示することにおいて分節可能であるもの
・意味は、予持・予視・予握によって構造づけられている企投の基盤
・現存在だけが有意味であったり、無意味であったりすることができる
そして、了解には循環構造があると言い、それは「解釈学的循環」と名づけられます。
・意味の構造に属している
・「循環」というこの現象は、現存在の実存論的機構のうちに、つまり解釈しつつ了解することのうちに根づいている
・世界内存在としておのれの存在自身へとかかわりゆくことが問題である存在者は、一つの存在論的な循環構造をもっている
続く第33節は「解釈の派生的様態としての陳述」
陳述とは「判断」のことです。
・陳述で論証されうるのは、了解と解釈とにとって構成的な「として」構造がいかなる仕方において変様されうるのかということ
陳述の3つの意義を以下のように述べます。
①提示: 存在者をその存在者自身のほうから見えるようにさせる
②述語: 主語が述語によって規定される、述語しつつ分節化する
③伝達: 腹蔵なく言うこと、規定するという仕方において提示されたものを共に見えるようにさせる、他者と共に分かちつつ伝達する
3) 語り
「現」という構造の最後の構成要素は「語り」です。
・情状性および了解と実存論的に等根源的
・語りは了解可能性の分節化
・語りのうちで分節可能なもの = 意味
・語りつつ分節することのうちで分節されたものそのもの = 意義全体
そして「言語」とは、「語りが外へと言表されたもの」であるとします。
以下、語りや言語について、ハイデガーが述べる順番に紹介していきます。
語ること
・世界内存在の了解可能性を「有意義化しつつ」分節すること
・この世界内存在には共存在が帰属している
・世界内存在の開示性を共に構成しており、おのれに固有な構造の原型を世界内存在という現存在のこの根本機構をつうじて与えられている
伝達 Mitteilung
・実存論的に原則的に解された伝達において、了解しつつある相互共存在の分節化が構成される
⇒ そうした分節化が、共情状性と、共存在の了解内容を「分かち合う」ことをなしとげる
・共現存在は、共情状性と共了解のうちで本質上すでにあらわになっている
・共存在は語りにおいて「表立って」分かち合われる
語り
・おのれを言表するという性格
・語りつつ現存在はおのれを外へと言表する
・現存在が世界内存在として了解しつつすでに「外部に」存在している
・語りには情状的な内存在の表明が属している
⇒ 音声の抑揚・転調、語り方のテンポ、発現の仕方のうちにこうした表明の言語上の指標がひそむ
⇒ 情状性の実存論的な諸可能性の伝達、言いかえれば実存の開示は、「詩作的な」語りの固有な目標になりうる
さらにハイデガーは、語りつつ発言することに属する可能性として、「聞くこと」と「沈黙すること」を挙げます。
聞くこと
・語ることにとって構成的
・誰かの言うことを聞くことは、共存在としての現存在がその他者に向かって実存論的に開放されて存在していること
・それどころか聞くことは、あらゆる現存在がたずさえている友の声を聞くこととして、現存在がおのれの最も固有な存在しうることに向かって第一次的に本来的に開放されていることをすら構成している
・現存在は聞く = 現存在は了解するからである
・他者たちと共なる了解しつつある世界内存在として現存在は、共現存在とおのれ自身とに「聞きつつ聴従して」いる
・この聴従においてそれら両者に耳を傾けつつ帰属している
※傾聴する
✖騒音、音のざわめき
〇きしむ車、オートバイ
〇行軍中の縦隊、北風、木をたたく啄木鳥、ぱちぱちいう火
〇「聞くことができない」ので「感ずるよりほかない」人は、おそらくきわめてよく傾聴することができる
※聞きまわってばかりいること = 聞きつつ了解することの一つの欠性態
✖多くを語る、忙しく聞きまわる
〇すでに了解している人だけが耳を傾けて聞くことができる
沈黙すること
・たがいに共に語りあっているとき沈黙している人は、言葉のつきない人よりもいっそう本来的に、「了解させるように暗示する」ことができる
・或ることに関して多弁をろうしたからとて、それによって了解内容がさらに深まるという保証は、いささかもない
・くだくだと語りまくることは、隠蔽することであって、了解されたことが明瞭になったと見せかけるにいたる
・常套語によって了解しがたくしてしまう
・沈黙することは物言わぬことではない
・真正に語ることにおいてのみ、本来的に沈黙することが可能
・沈黙しうるためには現存在は、言うべき何ごとかをもっていなければならない
= おのれ自身の本来的な豊富な開示性を意のままにすることができなければならない
・そのときに黙秘はあらわなしめるのであり、「空談」を押さえる
・黙秘は、語ることの様態として、現存在の了解可能性をきわめて根源的に分節する
・真正の聞きうることと透明な相互共存在とがそうした黙秘から生ずる
「或ることに関して多弁をろうしたからとて、それによって了解内容がさらに深まるという保証は、いささかもない」とか、
「くだくだと語りまくることは、隠蔽することであって、了解されたことが明瞭になったと見せかけるにいたる」とか言われると、
もともと早口でたくさん喋る身として「グサッ!」ときますね(笑)
次回の偶数回は、8月11日(火) 10:30~12:00です。
第14回として、第12回の続き、「内存在そのもの」の後半部分「B. 現の日常的存在と現存在の頽落」です。
その前の第13回は、哲学学校初の「定時制開催」となります。
8月6日(木) 午後9時~午後10時30分
『生きる場からの哲学入門』の第Ⅱ部「生きる場からの思索と哲学」の
第1講「生と死とおひとりさまを考える」
レジュメ作成と報告の担当は、三重県の訪問看護師さんです。
「普段日中は仕事しているから参加できない…」という方もぜひ!
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