みらいつくり大学校企画
第2回みらいつくり読書会@zoom③記録
【課題図書】
芥川龍之介『西方の人』『続西方の人』(『蜘蛛の糸』『犬と笛』)
【実施日時】
2020/6/26 10:00~11:00
【参加者】
A,B,C,D (全4名)
【内容】
問い:芥川は徹底したニヒリズムを遺稿でどのように表現したのだろうか。
A:読んでいて幾つか面白いと思った部分がありました。聖書の中にある「山上の垂訓」を芥川は「詩」であると書いてあるところがありました。『西方の人』の14ですね。感激に満ちた産物であるとしていました。幾つかのクリストが残した言葉を詩としてとらえていることが面白いと思いました。キーワードは、クリストが「詩人」であり「ジャーナリスト」であるということだと思いました。私は芥川自身が「詩人」であり「ジャーナリスト」であることを目指していたと読みました。芥川は自分のなりたい姿とクリストの生き方を重ねて、聖書を読んでいたんだろうと思いました。芥川は、この二冊の本でクリストのあり方を批判的に見ているというよりは、憧れをもって書いているのではないかと思いました。一方で、クリストが何度も現れるというような書き方をしていました。『西方の人』の34には、ゲエテをクリストとしています。「詩人」であり「ジャーナリスト」である人は全てクリストであるとして、芥川自分自身もそうであると言おうとしているのではないかと読みました。
B:この「クリスト」はイエス・キリストだけを指しているのでしょうか。そうではないと思います。「いわゆる」かと思います。「詩的」かつ「ジャーナリスト」である人たち、世を批判的に見る人たちを「クリスト」と呼んでいるのではないでしょうか。
A:芥川は、イエス・キリストについて、特別な人であると思っていたけれど、現代のクリスチャンが思うような特別な存在としてイエス・キリストを見ていたわけではないという意味です。
B:だからイエスとは言わないですよね。キリストはいわゆる「救い主」という意味があるように、抽象的な救い主として「クリスト」と書かれているのではないかと思いました。
A:私は全くそのようには読んでいませんでした。
B:芥川は相当独特な聖書の読み方をしているなと思いました。面白いですよね。共産主義の話やアメリカ聖書会社の話がありました。それらを皮肉っていました。「ジャーナリズム」とは何でしょうか。
A:私のイメージするジャーナリズムと芥川が使う「ジャーナリズム」は違うんだろうなと思ってインターネットで検索してみました。『西方の人』の中でいうと19ですね。社会を批判していくようなことを「詩人」とか「ジャーナリスト」と呼んだと思いました。
C:僕もそのように読みました。真実を指摘する、という意味でジャーナリストという言葉を使っていると思いました。
B:「ジャーナリスト」かつ「詩人」は合致しないように思います。「ジャーナリスト」は事実をそのまま書く人、詩人は全然違います。あえて「詩人」「ジャーナリスト」と相反するものを併せ持つ人として書いているのでしょうか。
A:ジャーナリストのところで、後に出てきた牧師たちが抽象的な言葉ばかり使っていてクリストのジャーナリズムを受け継いでいないと書いています。つまり、抽象的ではなく、具体的に書いて批判していくという意味で「ジャーナリズム」「ジャーナリスト」と使っていると思いました。
C:芥川は一貫してクリストは「ジャーナリスト」であると言っています。これが芥川のキリスト観です。「ジャーナリスト」という言葉の意味が江川紹子とは違っていて、多分一番近い言葉としては「預言者」があると思っています。旧約聖書に出てくる預言者はジャーナリストのようです。世の中の真実を言うという意味です。「預言者」という言葉からは、神の霊が憑依して勝手に口が動くというイメージがあるけれど、それは間違いで、旧約聖書に出てくる預言者のほとんどは今の言葉でいうと「ジャーナリスト」に近いのではないかと思います。池上彰がしているように、皆さんはこう思っているけれど、実像は違うんですよと言う。エレミヤが「あなた方は同盟を結ぼうとしているけれど本当は歴史を見ると捕囚になることはすでに書かれているとおりのことが起きているんだ」と淡々と語るわけです。そう言う意味で芥川は「ジャーナリズム」という言葉を使っているんだと思いました。そう考えると腑に落ちると思いました。僕は「そうそう」と思って読みました。
B:「ジャーナリスト」はどちらかというと僕も違和感はありませんでした。むしろ違和感があったのは「詩人」の方です。『続西方の人』21にもあるように、当時の人たちが文化的であるということ、詩的であることをどのように考えていたのでしょうか。
C:そうですね。山上の垂訓を詩的であるということとか、どういう意味で使っているのかはわかりません。でも福音書を読んだときに、言葉の美しさなどはよく指摘されることでもあるので、そこにはあまり違和感は感じませんでした。
B:ゲエテはあまり読んだことがないけれど、そんな感じなんですか?
C:僕は『ファウスト』をぱらっと読んだことがあるくらいです。『ファウスト』は戯曲なので読みにくいです。西洋のキリスト教徒がもつ、世界が三層になっているというイメージはここからきているはずです。天国があってこの世があって地獄があるというイメージです。そういう世界観はゲエテの影響が大きいと思います。
B:ダンテではなくてですか。
C:そうですね、ダンテの『神曲』でした。勘違いしていました。ゲエテは『ファウスト』がいてという話ですね。『神曲』も読みにくかったです。ギリシャの哲学者とかローマ帝国の皇帝などが出てきていて、西洋の歴史がわからないと何を言っているのかわからないものでした。
B:最近、ニーチェを読んでいます。『ツァラトゥストラはかく語りき』とか、あれもいわゆる西洋の形而上学の歴史を、聖書はもちろんだけれど、わかっていないと、この本をわかったことにはならないと思いました。
C:ツァラトゥストラはゾロアスターのことですよね。
B:そうですね。いわゆる善悪二元論的なことです。それを根本から否定しようとしているのがニーチェですよね。道徳とか、善悪とか、それらは人間が作り出したものだと。それらを超越して超人にならなければいけないということが書いてあります。でもハイデガー経由でニーチェを読むとなるほどと思うこともあります。ハイデガーは後期にニーチェを扱っています。『存在と時間』につぐ第二の著作はニーチェと言われています。ハイデガーによるニーチェがあって、中公クラシックスで一と二が出ていて、それらを読むと「なるほどこうやって西洋の形而上学を批判していったのか」と思うんですよね。芥川はその辺の知識があったんでしょうか。
C:当時の知識人って本当にすごいですよね。今の知識人とはまたレベルが違うくらいエリートですよね。一高とかがあった頃ですね。だから知っていてもおかしくはない。
B:聖書はともかく、どのくらいのものが当時に訳されていたんでしょうか。「もうこれ読んでいたの」と思うものが出てきますよね。原語で読んでいたんでしょうか。『続西方の人』の9クリストの確信に「超人」と出てきますよね。今回、読んでいて思ったんですけれど、ニーチェの著作のタイトルが連発されています。
C:なるほどね。
B:『人間的な、あまりにも人間的な』というのがありますよね。これもタイトルです。超人というのもニーチェの言葉です。これは’もしかして、ニーチェ的に聖書を読んでみたということなのかもしれません。
C:オマージュ的なことをしている可能性はありますよね。前回も話したけれど、芥川はハードコアなニヒリストだから、ニーチェに接近するのはよくわかりますよね。『ファウスト』のメモを見てみると、ニーチェの「超人」ってゲーテが元ネタであるとあります。だからゲエテに端を発する思想はナチスに至るまであと一歩なんだと書いてあります。おそらく「神なき世界に救済はあるのか」ということなんでしょう。ゲエテの『ファウスト』には最後に「永遠に女性的なるもの」が出てきます。
B:永遠に女性ですか?
C:「永遠に女性的なるものの救済」で終わるんです。
B:どういう意味なんでしょうか。
C:『ファウスト』はロマンスも入っています。ニーチェもそうだけど、権威主義や父性原理、家父長制に苦しんだ人たちですよね。牧師である父親に虐待をされていましたよね。ユングも牧師であるお父さんにいじめられていました。それで彼は結局東洋思想にいくことになります。ニーチェは、父性と神とキリスト教がアマルガムになったような、圧倒的な権威主義に対する反逆なんだと思います。
B:ニーチェはもともと文献学者でした。いわゆる古代ギリシャ哲学などについてです。処女作において解釈をしたら、当時の文献解釈学のメインストリームからは外れていたようです。でも才能は早くに認められていて二十代前半で教授になっています。でもワーグナーとかに接近して、そこもまた失望をくりかえして、最後発狂します。やはり父性原理と権威主義、学会の権威みたいなものが結びついて、それに対するいわゆるルサンチマンをもとに思索していったんでしょうね。26幼な児の如くも、ニーチェからの引用だと思います。
C:なるほどね。そう言われてみると、芥川はニーチェなんですね。芥川はニーチェをなぞろうとしたんでしょうかね。
B:ニヒリズムをニーチェも突き詰めました。その結果、超人になると言っています。ハイデガーもそれを受け継いでいて、後期にはいかにニヒリズムを超克するかということが形而上学において絶対必要だとあります。いわゆる人間中心主義の行き着くところ、究極に押し進めるとそれはニヒリズムになります。31にも「人間的な、余りに人間的な」とあります。これもニーチェの著作そのままですよね。
C:ヒップホップのようにサンプリングしているんですね。ニーチェを。
B:35に出てくる「ルナン」はイエスの生涯について書いた人ですよね。フランスの聖書学者かなんかで、当時の神学には沿わないような書き方をしたはずです。異端的な扱いをされていたはずです。そんなものも芥川は読んでいたんだと思いました。しかし、パウロは肯定的に評価していますね。最後はエマオですからね。『西方の人』は東方の人で終わっています。これもニーチェですよね。老子や孔子もできます。『続西方の人』はエマオで終わります。
C:これが遺稿なんですよね。
B:この後死んでいるんですよね。なぜ最後にエマオをもってきたんでしょうか。僕もあそこは好きなんだけれど。
A:ニーチェの権威主義批判と、芥川のそれは同じ形をしているとして、ニーチェと対をなすような思想は入ってこなかったでしょうか。ニーチェだけを読んでいるはずはありませんよね。
B:やはり最後になぜエマオなんだろうということですよね。ニヒリズムを突き詰めると当然自殺に至るのかなとは思うのですが。
A:最後のエマオもそうですが、最初の鏡であるという部分、『続西方の人』の最初の部分です。書き加える必要があるんだということを説明している部分です。再びクリストについて書かねばならないと書き始めて、最後エマオで終わっています。ここも合わせて気になるところですね。
B:Dさんは読んでいかがでしたがか?
D:すごいニヒリズムだなと感じました。私が気になったのは「ジャーナリズム」です。頻回に出てきたのでどうかなと思いました。
B:前半でそんな話にもなったんです。旧約聖書で出てくる預言者が、今でいうところの世の中のことを記述したりして世の中を批判というか人々に伝えていく形だったということで、ジャーナリストという言葉を使っているのではないかということでした。
C:そうですね。欺瞞を剥ぎ取るというか、政治に関わる人、利権団体とかが真実ではないことを真実であるかのように語る、歪めて語ることを本当はこうなんですと言うという意味では、池上彰がやっていることとキリストがやっていることは似ています。宗教家たちがこうだと言っていたのを、「宗教は本当はこうですよ」と言って憎まれました。キリストの憎まれ方はジャーナリストの憎まれ方と似ています。今の日本でも、池上彰のことを消したい人はたくさんいるはずです。そういうことかなと思いました。
B:芥川も当時はそのように見られていたのでしょうか。
C:芥川はどんな立ち位置だったのでしょうか。文化人のような活動もしていたんでしょうか。ただただ文筆家だったんでしょうか。
B:もう少し巧妙だったのかもしれませんね。児童文学を書くくらいですから。でも池上彰も書いていますね。
A:芥川は小説や作品によって、様々なものを批評しました。それは小説家同士も新聞や作品によって批判をし合いました。返答する形で寄稿をしたりしました。谷崎潤一郎との論争の中で、『文芸的な、あまりに文芸的な』という文章を書いています。
C:まさにニーチェですね。
A:青空文庫で見られます。芥川が書いた部分ですね。そこに、詩人兼ジャーナリストの完成のために物語を作っていると書いています。つまり、芥川のなりたい姿は詩人兼ジャーナリストで、その姿をキリストに見たのかと思いました。
B:芥川はいわゆる「詩」は書いていませんよね。
C:「詩」の定義が、文学ということなのかもしれませんね。広義の、言葉の力で勝負するという意味の「詩人」だったのかもしれません。そんな可能性はありますよね。
A:作品を作るのは、自分の人格の完成のためでも、社会組織を一新させるためでもないと書いてあります。自分を高めていくようなことではないのだと思います。
B:社会制度の一新というとマルクスとかを指していますよね。
A:そうではなくて、僕の中の詩人とジャーナリストを完成させるためにと書いてあります。
B:それをこの『続西方の人』に込めて自殺しているんですね。
A:もしかすると、死ぬことによって、そうなると考えていたのかもしれません。死ぬことによって完成されるというようなことです。
B:キリストのようにということですか?
A:キリストもそうです。
B:最後に「彼の一生はいつも我々を動かすであらう」「ジヤナリズム至上主義を推し立てる為にあらゆるものを犠牲にした」とありますね。そういうことかもしれません。クリストもそうだから、自分もそうなんだということかもしれません。
C:そうかもしれませんね。
A:そんな読み方をできるかもしれません。
B:Dさん、ニーチェや谷崎潤一郎は読んだことがありますか?
D:谷崎潤一郎は少しだけ読んだことがあります。
B:僕は絶望的なほど小説が読めないんですよね。昔読んでいたんです。筒井康隆とか村上春樹とか読んでいたんですけれど、最近は読めません。唯一読めるのは桜木紫乃です。釧路の人です。
A:映画化されるんでしたっけ?
B:ホテルローヤルですよね。あれは読めるんですよね。何でそれ以外読めなくなってしまったんでしょうか。Dは普段どんな本を読むんですか?
D:最近は、ノンフィクションが多いです。昔は、筒井康隆とか安部公房とか読みました。カフカも読んでいました。
B:筒井康隆はもう狂っていますよね。
D:でも面白いですよね。
B:僕はその狂っている具合が好きでした。
A:SFなんですね。
B:筒井康隆も体調を悪くしたときにハイデガーを読んでいます。『誰でもわかるハイデガー』という本を出しています。『存在と時間』をとてもよく理解してわかりやすく書いてあるようです。
B:話は戻りますが、クリストはジャーナリズム至上主義を推し立てる為に全てを犠牲にした、だから自分もという話なのに、最後はなぜエマオ途上の話が出てくるのでしょうか。
A:ここは想像の話ですが、エマオはキリストが死んだあとの話ですよね。よみがえった後の話です。
B:解説をすると、イエス・キリストが十字架にかかって死にます。その後の話で、イエスは復活をしていろいろな弟子たちのところに現れています。エマオというところに向かっていた旅人がいて、二人で歩いていたはずが一人増えているんですよね。そして熱く語っている。
C:先頃あった事件についてですね。
B:そして三人で食事をするんです。食事をするときに後から入ってきた人が、パンを分けようとしたときに、旅人二人がハッと気がつくんです。「これキリストじゃん」って。あのとき自分たちの心が燃え上がるように話していたのは、そこにキリストがいたからなんだ!という話です。そんな件が『続西方の人』に書かれています。つまり自殺する直前に書いたものとしてあるんです。だからそれと絡めると、芥川もそんな思いでやってきたんでしょうか。
A:死後に思い返されて人々の思いを熱くするのがジャーナリズムなのでしょうか。
B:芥川が死んだ横に聖書が置かれていたというのは本当なんでしょうか。
C:わかりませんが、これを書くための資料としては聖書は入ってくるでしょうね。不自然ではないですよね。
B:遺稿…未完ではないですよね?
C:それはわかりませんよね。
B:でも『西方の人』と比較すると長さ的にも構成的にも、これが最後でしょうかね。終わっている感じはありますよね。
A:やはり死というものを一つの完成とみていたのではないかと思いました。
B:「死は完成」という思想ってあるんでしょうか。キリスト教は「死」を「完成」とは言いませんよね。死後も続いているイメージですよね。日本の哲学にあるでしょうか。京都学派とかにありそうですね。
C:ある種の美学みたいなものとしてはあるかもしれませんね。芥川に詳しくないのですが、神経症的に完璧主義なイメージがあります。長い小説は書きませんよね。というのは、完璧を求めているからではないかと思います。芥川の文章の切れ味とかがすごいのは、校正とかをものすごくするんだと思います。書き散らかすのではなくて鋭利にしていくタイプの芸術家です。そういう芸術家は短命な人が多いというのはある気がします。ミュージシャンでもそうです。ジミヘンは事故であったとしても、天才的なミュージシャンが短命であるということはありますよね。そういう一瞬の煌めきを大切にする人たちは、老いていく自分を見ていたくないというか、一番文章が上手なときに死にたいということがあるのかもしれません。
B:美を追い求めたんでしょうか。当時自殺している文学者は多いですよね。最近だと西部邁くらいですよね。
C:死というものに対する身近さということは当時と今では違うと思います。身近に死がある状態の中で、自殺という選択肢がもしかしたら魅力的だったのかもしれません。死ぬんだから魅力的というのも変な話ではあるんだけれども。
A:自ら選ぶという点においてですよね。
B:今よりも子どもも多く亡くなっていた時代ですからね。若かろうが老いていようが死ぬことは身近にあったのかもしれません。今でいうところの自殺と意味が違うというのはそうかもしれませんね。
B:話が変わってしまいますが、今年4月の自殺者は少なかったはずですよね。震災の時も少なかったはずですが。
D:減っていると聞きました。
B:その辺を研究した人っているんでしょうか。デュルケームは自殺論を書いていますよね。自殺の類型論、危機があった時、私はいのちの差し迫りがあると呼んでいますが、社会全体にいのちの差し迫りがあるときって、自殺を選択しないような雰囲気になるのではないかと思っています。
D:自分の中の危機感と周りが危機状態になることの違いがあるかもしれません。周りが危機状態になると、本能的に生きなきゃとなるのかもしれないなと思います。震災も、コロナも。人は本能的に生きることを感じるのではないでしょうか。
B:身体障害がある人たちの自殺率とかって調べた人いるんでしょうか。前に生きがいと自殺について考えたことがありました。健常者も障害者も関係なく自死については考えたことがあって、実際にしている人がいるんでしょうか。あまり聞かないですよね。精神疾患は別にして。日々生きること自体が大変なんだという人たちが自殺を選択することには別な前提があるのかもしれないと思うんですけれど。
D:自殺すらできないということはあると思うんですけれどね。
B:そんな話にもなりましたが、必ずしもそれだけではなさそうなんですよね。
A:芥川に引き寄せると、「あえて選ぶ死」ということでしょうか。
B:ぼんやりとした不安、ということですかね。
A:話は違うかもしれませんが、ニーチェやゲーテも出てきますが、トルストイも出てきますよね。
C:出てきましたね。
A:『続西方の人』の12最大の矛盾というところです。教訓主義的なとあります。
B:トルストイにはロマン主義的な色彩がないとありますね。
C:トルストイは靴屋のマルチンを書いているくらいだから、そういうキリスト教的な道徳的な話をしていますよね。
B:何でロシアはドストエフスキーとかもそうですが、キリスト教における道徳の基準とか善悪の判断とかあるんでしょうか。
C:ロシア正教は独特なんだと思います。僕の解釈は、トルストイとドストエフスキーのやろうとしたことは厳密には違うと思うのですが、彼らがしようとしたことって、東方教会というものが有効性を失った近代において、それでもキリスト教の本質はどのようにしたら保存することができるのかということを文学でやろうとしたということです。それってまさにニーチェやゲーテが西方教会でしようとしたことと同じなんだと思います。ニーチェは「神は死んだ」という言葉が一人歩きしているんだけれども、本当は違っていて、神なき世界でどうやって生きるか、信仰を再定義しようとしたんだと思うんです。「神なき世界」というのも、西洋的な世界観の中での話です。「神ある世界」というのは聖なる天蓋と言われるカトリックという父がいて、母でもあるんだけれども、宗教改革後も権威という父はいたんですよね。その聖なる天蓋が無くなった世界で、人はどうやって生きていくのかというのがニーチェの根源的な問いとしてあったんですよね。ドストエフスキーも、ロシア正教ってカトリック以上に形骸化というか形式を重じています。香をたいたりするわけです。東方教会はギリシャ語なんです。西方はラテン語を選びました。イタリアに本部があったわけです。東方教会はカトリック以上に伝統を大切にしてきたから、お経を唱えるようにしてギリシャ語の聖書を司祭が読んで香をたきます。ウクライナの教会に行くとそんな感じでした。そうすると、世の中はどんどん変わっていくわけですから「これで神に出会うってよくわからない」って人はなっていきます。そしてロシア革命の後にそういう機運は高まっていったと思います。そんな中でドストエフスキーは信仰を近代でも保存する為にはどうしたらいいかということを考えたんだと思います。そういう意味ではニーチェが西側でやろうとしたことを東側でやろうとしたということなのかもしれません。
B:ニーチェを勉強したいですね。芥川からのニーチェだとちょっとやばいでしょうか。
A:いつかロシア系も行くべきですよね。
B:でもロシア文学は長いイメージがありますよね。
C:そうですね。めちゃめちゃ長いです。そして読みにくいです。チェーホフとかは短いかもしれませんが。
B:次のことそろそろ考えなくてはいけないですね。
A:そうですね。
C:虚無主義ってありますよね。「虚無」をテーマにしているドイツの文学者がいます。ミヒャエル・エンデです。「虚無」が中心的なテーマではないんですけれど『果てしない物語』があります。ファンタジーの世界で、虚無が世界を覆い尽くすというモチーフが出てきます。虚無から世界をどうやって救うのかということです。最後、どうやって救うのかというと「愛」だと言うんです。「愛」を求めるんだと。多分、『果てしない物語』は、エンデなりのニヒリズムに対する回答なんだと僕は思っています。そんなことを思い出しました。芥川が子どものために文学を書くくらいだから、子どもたちが幼い時からそんな虚無主義に触れていったときに、それは可哀想だとエンデは言うんです。これは『エンデのメモ箱』で明かされていることなんですが、それは近代になって神話が貧困化した、それはいわゆる聖なる天蓋が崩れたからしょうがないことなんだけれども、その中でも希望に満ちた神話に子どもたちは触れなければいけないと。僕はそのために書いているんだと。『果てしない物語』の中で、虚無に世界が覆い尽くされそうになるところから主人公は逃げるんです。逃げて逃げて逃げて、そこに希望があって、それは「愛」だと。多分そう言うことなんですよね。
A:今まで続いてきたニヒリズムの後に聞くと心安らぎますね。
B:ダメダメ。安らいじゃダメですよ。(笑)探究しないとダメですよ。
A:エンデとか良いかもしれないですね。でも青空文庫にはないですね。
B:トルストイ、『イワンの馬鹿』ならありますね。
C:そんなに長くないかもしれません。
B:次が2週目ですか?芥川は3週目ですよね。
A:もう2週でセットはやめようかと思っています。もう3週目なので。そろそろ芥川を抜け出さないといけないですよね。
B:そうですね。どうやって芥川を抜け出すかですよね。芥川に引きずられつつ、どうやって抜けるかですね。
A:トルストイに行くというのはいいかもしれませんね。もう一つとしてはニヒリズムを批判したものに行くのか。
C:僕は『イワンの馬鹿』すごく面白かった記憶がありますね。
B:僕は読んだことがないです。
A:僕もありませんが、『イワンの馬鹿』いってみますか。
C:文体は芥川よりも読みやすいですよね。
B:では、『イワンの馬鹿』にしましょう。行きましたね、ついにロシア文学。
A:やっと芥川から抜け出せそうですね。
C:ニヒリズムはキツいですよね。キツい思想ですよね。甘えを許してくれないというか。
B:「虚無」はハイデガーもやっています。「ぼんやりとした不安」はハイデガーの主題でもあります。世界の世界性という部分で、自分のまわりにある道具、それらが意義性を無くした時に人はどこに立っているのかわからなくなると言っています。世界の無世界性というように書いているんです。そんなときに感じる心情が不安だと。「来週テストがあるから不安」というのは「不安」ではなく「恐れ」だと言うんです。不安というのは対象がないと言うんです。自分自身に対するものだと。本来的な心情だから、そこから出発することが本質的であると言っています。
A:いつかエンデもやりたいですね。私は子どもたちに『モモ』を紹介しています。今妻が『モモ』を読んでいる最中です。
C:僕は『果てしない物語』を読んだときに驚いたんです。『モモ』の焼き直しじゃないんですよね。全く違うところから物語を立ち上げている。そしてそれが面白い。こういう作家ってあまりいないなと思います。代表作ともう一つがあって、それが全然真似ではないということです。
B:じゃあ、次はロシアですね。ちなみにDさん、最初はカフカの『変身』だったんですよ。何考えているんだっていうスタートでした。
D:面白いですね。
B:次はロシアということで。次回は10日ですね。
A:10日の10時からということでお願いします。