みらいつくり大学校企画
第2回みらいつくり読書会@zoom②記録
【課題図書】
芥川龍之介『犬と笛』(『蜘蛛の糸』)
【実施日時】
2020/6/12 10:00~11:00
【参加者】
A,B,C,D,E (全5名)
【内容】
A:髪長彦って変わった名前だな〜と思いました。どれだけ美しいのかな、女のようにと書いてあったからどんな人だったのかなと思いました。
B:芥川続きでしたが、今回の作品は綺麗だなと思いました。人間のドロドロした部分もそんなに書かれていないし、すごくわかりやすいし想像しやすい、児童書っていうだけあって面白いなと思いました。あと、いろんな今につながる話、映画なんかでもこういう話が元になっているのかなと思うくらい、ありきたりのように思いました。善良な市民がいいことをしていて褒美をもらって、なおかつ冒険もありといったような話だなと思いました。特に引っかかるところはなく読みました。今までの芥川らしさがないような気がしました。芥川と言われなければ気が付かないかもしれないと思いました。するすると入ってきて面白かったけれども特に印象に残ったところや心に残ったところはありませんでした。
C:似たような感想は持ちました。芥川の作品をいくつか読みました。『羅生門』の映画を観ても、『藪の中』を読んでも、やはり芥川は勧善懲悪を皮肉るような作品を描いていると思いました。「君たち、犯人を探しているんでしょ」「そんなのわからないんだ」「真実なんて無いんだ」と2020年に作品を読んでいる私をも笑っているような感覚がありました。そして『犬と笛』を読みました。私の読んでいた芥川では無いとも思いました。でもこんな作品にも裏があるのではないかと読みました。これにも裏があるのかと読みつつ見当たらない。それでも探してしまう、ということを芥川に笑われているような気持ちになりました。もう芥川に騙され続けているような感覚になって、自分がすっかり芥川にはまっているんだなと思いました。芥川の作品はたくさんあるけれど、私は今回一つの作品が他の作品の読み方にも影響を与えることを経験しました。『杜子春』も最後はいい話だな、と終わります。それがとても怖く感じました。
D:善良な市民が褒美をもらうという話ではないと思いました。児童書の体を成しているから、子どもが読めばそうなるのかもしれないけれど、ここでいわゆる芥川的な悪巧みのようなことを探して考えて読みました。髪長彦は善良な市民ではないと思いました。見た目が美しいことと笛がうまいということだけしか書かれていません。突然あらわれた大男が好きなものを望めと言う。そして犬を望んで、結局二人のお姫様を助ける。結局自分の手柄を自慢したいという思いが起こってきたというのは『蜘蛛の糸』と同じように「自慢したい」「自分の方が優位なんだ」ということが描かれていると思いました。だから善良な市民ではない。結果的に手柄を取られたけれど取り戻します。そこに勧善懲悪的な圧倒的に良いものと圧倒的な悪のものという作品ではない。一番「なんで?」と思ったのは、一番最後の「どちらのお姫様と結婚したのかはわからない」という部分です。その理由も「それだけは昔のことだからわからない」とあります。他のことも同じように昔のことだし、なんなんだろうと思って、その辺に探りを入れてしまいました。
C:私も疑って読んでしまっています。皆さんの話を聞いていて、Aさんが言っていたような「髪長彦」から受ける印象が、当時読んでいた人たちのものと現代の私たちが受けるものと同じかはわかりませんが、まるで「善良な」と読んでしまうんだなとも思いました、主人公は、髪長彦は、いいやつだったと読んでしまうということです。
B:そうですね。褒美を取らせるという時に、別にお金や刀ではないことで、心が綺麗な人なんだなと思ったんですよね。
C:最初の部分で、女のようにやさしくってとあります。これは全然内面のことは言っていません。女のように「美しくて」ではなく、「優しくて」と書いてあるところに、まるで心が優しいかのように、いい人かのように誘導している部分があるのではないかと思いました。でも描いてあることは、ただ笛が上手だったということです。
D:そうです。笛と見た目だけです。
C:後は強欲ですよね。
D:犬たちが凶暴ですよね。土蜘蛛がどれだけ悪いことをしたのかははっきりわかりませんが、若干かわいそうでもあります。お姫様は「とりこになっている」ともあります。お姫様が虜になっている。
C:ただお姫様が土蜘蛛を好きになったんだとしたら、とても怖い話になりますね。
D:でもしくしくは泣いています。虜になるのが、捕虜になるという意味なのかもしれませんね。土蜘は途方もない悪者とも書いてありましたね。でも、頭を噛みちぎられてしまいますからね。
B:確かにこれはちょっとびっくりですね。
D:ぜひ実写化してほしいです。『羅生門』のテイストで。正面のカットで犬が出てくる。
C:近代的な『キングダム』のような実写ではないですか?
D:そうではなくて、昔ながらがいいですね。噛まれたままの首のアップがうつされるような。姉妹もそうです。どうなっちゃっているのという感じがします。お父さんはどうしているんでしょうか。探しに行かないのでしょうか。侍から聞いただけですよね。そしてたまたま犬がいるからできるような気がした、そして助けて、帰りに侍がいたから自慢したくなった。とても善良な市民の話ではないと思います。
B:ちょっと表現を間違えましたね。(笑)
C:与えられた犬については、笛の音が好きだったからということです。『蜘蛛の糸』ならお釈迦様が気まぐれに与えていますが、この作品では、笛の音が好きで、髪長彦が犬を望んだから与えられたというようなことです。与える側の気分が移ろいやすい感じは『犬と笛』にも表現されていると思いますか。
D:あると思います。髪長彦はただ笛を吹いていただけです。犬でいいのかという感じで不思議な犬をくれる。十分気まぐれだと思います。次に出てくる神様も、そういう感じです。また出てくる三人の神様は障害者です。手がなかったり目がなかったりします。二人目以降が与える理由は笛なんて関係ない。兄がやったから俺も、といった感じです。そして髪長彦はさらに良いものをくれと言う。そして渡す。大男も兄よりも良いものをあげたいと言う。髪長彦も「もっともっと」となっていく。挙げ句の果てに姫様をゲットした後、元々は自分より位が高かった侍に自慢をする。読みすぎかもしれないけれど、いわゆる資本主義的な「もっと良いものを」といったようなことを表現しているのかもしれませんね。
C:犬の与え方について、俺もお礼をしたいということにすり替わっています。最初に出てきた神様に感謝の気持ちがあるのかわからないけれど、二人目以降はそんなこと微塵もなくなる。やはり『蜘蛛の糸』のお釈迦様のような怖さがありますよね。「与える」ということに関して、普通は心が伴っているように考えるけれど、全然違う。巨大な力を得て、どんな反応をするのかを確かめるような意図を感じます。
D:犬を連れて侍に会った時、丁寧にお辞儀をしてとあります。侍は三匹の犬を馬鹿にしながら去っていく。道具を持つこと、持ち物が人間を変えてしまうということかもしれません。もともと髪長彦は笛を吹いて木を切っているだけのはずです。
C:じゃあここにある幸せってなんだったのかということもありますね。
D:二人の侍も木こりにまんまとやられたから許せない、と言う感じになっています。それでも犬で取り戻しますよね。やっぱり犬です。
C:この当時、いいことをしたら良いことが起こると言うような道徳観が普通だったと言うことですよね。
D:立て付けはそうですが、芥川が伝えようとしたことは違いますよね。児童文学としてはそうですが、大人が見るものとしては違います。
C:この前提がないと皮肉る相手がいなくなってしまいますからね。
D:犬を与える大男の側にも欲望があるのだと思います。勾玉の色の違いには意味があるのでしょうか。足のない男、手のない男、目のない男です。
E:神話的ではありますよね。僕はかぐや姫に似ていると思いました。かぐや姫の殿様のところにたくさんの人が来ますよね。
D:かぐや姫ではその部分が長く描かれています。
C:かぐや姫では、そんな宝は存在しないものを探すように言います。
E:そうですね。無理な問題をかけるんです。
B:アラジンと魔法のランプも近いのかなと思いました。アラジンのランプを手に入れたからコソ泥だった男がお姫様と結婚する。何かを手に入れて望みを叶えるという物語です。
D:ディズニーで味付けをするとそうなりますが、芥川で味付けをするとそうはなりませんよね。
C:ディズニーでは、場面と場面の合間で、建物の屋上から街を見渡しながら感傷に浸るというようなシーンが描かれます。実は自分の心はきれいなんだというような場面が出てきます。芥川的に書くなら、アラジンも髪長彦と変わらないと思います。
D:そうなんですよね。アラジンも報いられる理由なんでないはずですからね。たまたまラッキー、宝くじに当たったということですからね。
C:同じように苦しんで泥棒をしている人たちも同時代にたくさんいたはずです。
D:その前に泥棒じゃなくていいやつもたくさんいたはずですよね。絶対いましたよね。
D:どうして与える側の大男が不具なんでしょう。
E:何の象徴なんでしょうね。犬笛というのが、これも芥川がどれだけ認識しているかわからないけれど、「犬笛政治」という言葉がありますよね。これは新しい言葉でしょうか。トランプは、あからさまに人種差別的なことを言うと批判をもろに受けるから、支持者にだけわかる形で伝えます。安倍首相が支持者にはわかるような形で日本会議のような内容を言います。それを露骨に言うと全新聞から怒られてしまいます。それらを犬にしか聞こえない笛のようにして伝えるということです。犬と笛というタイトルから一番にそれを思い出しました。芥川は『蜘蛛の糸』もそうですが、ある種の犬笛使いであるような気がします。「多くの人には道徳的な話と思われるけれど、お前はわかっているよな」といったようなことです。犬笛的なメッセージを込める人なんだと思います。だからこんなモチーフを選んだのかなと思いました。
D:なんで犬なんでしょうか。桃太郎なら犬と猿とキジです。でもここでは全部犬ですよね。何かの奴隷になっていることを犬と表現しますよね。政府の犬とか資本主義の犬とか。そういういろんなものに支配されているものたちを登場させているのでしょうか。髪長彦も、お姫様もそうですよね。虜になっていますから。
E:システムに従順なんですよね。みんな。
D:それらをひっくり返す要素は、いずれも「所有物」です。道具というか。髪長彦の元々の人格ではありません。髪長彦は笛がうまいという所有物によって犬をもらい、そのもらった犬という所有物によって、姫を助けて、欲が出たから自慢したいと思う。だから所有していたものを取られてしまうけれど、最後の最後その所有物を取り返す時に出てくるのも、お姫様がつけていた髪飾りです。そう考えると、資本主義へのアンチテーゼのように感じます。特になんでもないはずです。大臣のところに行った時に、髪長彦と侍が見分けられる方法は、髪飾りだけなんですよね。正しさは髪飾りがあるかどうかだけで判断されます。全ては何を所有しているのかなんだ、ということかもしれません。
B:腑に落ちました。
D:違うでしょうか。
B:そうだと思います。何を持っているかによって人生は変わるということですよね。
E:それを批評しているんですよね。風刺しているということですね。
D:最後に、言い方は悪いですが、お姫様と結婚してお姫様を所有します。でも姉妹どちらかわからない。そうやって言う必要あるでしょうかね。「髪長彦は妹と結婚し」と言われたら、違和感はあるのかもしれない。そもそもそんなこと昔の話だから忘れちゃいました、となります。
C:最後の部分気になりますよね。
D:他の部分はとても詳しく覚えていますからね。どちらのお婿さんになったかはわかるはずなのに。
E:相当難しい作品だとは思いました。LSD音楽じゃないけれど、相当なトランス状態で書いたような作品だと思いました。象徴性というか本人も何を書かされているかわからないというような感じがしました。『蜘蛛の糸』はまだ緻密に設計されているからわかるんだけれど、『犬と笛』は難しい作品だと思いました。この作品にも、いくつかの引用元はあるはずで、かぐや姫もそうですし、ソロモンのエピソードとも重なります。夢という感じもします。「民話とか神話は共同体がみる夢だ」と河合隼雄が言っています。昔話が民話になるにつれて教訓性を帯びてくると話しています。最も古い話には教訓性がないと言われています。古事記とかは教訓ではなく、よくわからない話です。ギリシャ神話もそうですが、よくわからなくて、そこから何を学べば良いかわからないというような話です。解釈から放り出されるような感覚です。でも繰り返し語られることを通して、人間がそこに教訓を練り込んでいく、そして話が歪んで説教じみたものになっていくということです。それでいうと、『犬と笛』はそのままの夢の話という感じがします。だから解釈が難しいのではないかと思いました。
D:お姫様を取り返しにいくくだりも、もういないはずのお姫様の声が空から聞こえてくるんですよね。もう一度読み返すと、途中から姉妹の声が一つになるとあります。そこからお釈迦様ではないけれど、話し出す。そして風が行き来する。そして金の鎧などを与えます。そして神様のような髪長彦になる。これも見た目が良くて笛が上手だったという普通の木こりが、物凄い所有物をまとって登場した時に、そこにステータスを見出す周りの人々が描かれています。でも中身は変わっていません。最後にさらにステータスを得るということです。なんでこんなふうにしているのでしょうか。
C:この時点で天から鎧を受け取る必要はないですよね。なかったはずです。むしろ、姫を助けたかどうかがわかれば良いだけなのに、たくさんのものを身にまとっています。大臣のところに行く前から神様みたいになっている。
D:全部ものによって、その人が良いか悪いかが決まっています。
E:トロフィーワイフという言葉がありますよね。最近知ったのですが、トロフィーは、スポーツハンティングをした人が壁に飾る剥製のことを指すらしいです。あちらがおそらく先ということです。自分の収穫物を誇るということです。毎回獣ではないし、スポーツも変わるから、何か象徴をということで今の形になったということです。トロフィーワイフは、名を成して功を遂げた人が、すごいきれいな奥さんをもらうことを言います。俺はこれほどきれいな奥さんを手に入れることができるくらい成功した男なんだと誇ることです。トランプはまさにトロフィーワイフを誇り続けています。
D:何度か変えながらですよね。
E:そうですよね。トランプの奥さんはトロフィーワイフを絵に書いたような人です。奥さんですらトロフィーなんだけれど、彼にとっては不動産の成功とか、トランプタワーが自分なんだと思います。でも実は彼はビジネスで本当に成功しているかというとそうではありません。彼は三回倒産しています。破産申請によってアメリカでは守られるから、結局は国の財政で守られた人です。だからビジネスで勝っているとは言えません。とにかく主観的には勝っている、富を得ていると。彼は、生馬の目を抜くというような、人を出し抜いてでも富を得るというトロフィーに囲まれています。でもその中にいるのは空疎な人間だと思います。そんな人間と髪長彦の人を陥れてでも何かを得たいというところは似ているような気がします。芥川もそうですが、小説家は時代の100年くらい先のことを言葉にしてしまうことがあります。だから資本主義が行き着くとこういうところに来るのを予見していたのかもしれません。そんなことを考えました。
C:だから妹か姉かは大切じゃないのかもしれませんね。
D:大臣の娘であればどちらでもいいということですね。風にのってくる声も、最初どちらかの声が聞こえていたけれど、一つの声になります。それも、大臣の娘というステータスの声というだけなのかもしれません。ものとして価値があるなら何でも良かったということですよね。
E:記号としての女性ですよね。トロフィーとしての女性です。かぐや姫の元に来る男たちもトロフィーとしての女性を欲しがっています。そういうものへの批判があるのかもしれませんね。
D:何で神だけ、キリスト教的な神ではありませんが、障害をもつ者として表しているんでしょうね。
C:強い力を持っているのは犬だけれど、誰にでも従属してしまう。神についても完璧な存在としては描かなかったということではないでしょうか。
E:犬がiPhone、神は孫正義としたら、人はiPhoneを持つことによって強くなります。ピストルを持つと心が強くなるような映画があります。その人自身は変わっていないのにたまたま持ったもので強くなるということです。
B:乗っている車もそうですよね。小さい車と大きい車で乗り方が変わる人っていますよね。
D:ものによって変わるということですよね。
E:神の描き方で言えば『蜘蛛の糸』と通じるところがあると思っています。『蜘蛛の糸』でも気まぐれで救ったり救わなかったりしています。人間からした時に、神がどう感じられるかの方が芥川は興味があるのではないかと思っています。多分、この世の中は不条理だから、気まぐれな神、足が一本無かったり手がなかったり目がなかったりする神っていうような、神は不具者ではないかと思うほどに一貫していないと感じられるということを表しているのではないかと思いました。神は不具であるという批判ではないかと思いました。
B:不具はどんな意味ですか?
E:障害者ということです。
D:今は使わない表現ですよね。
E:不適切な表現ですよね。旧約聖書には、神が人間に対して「わたしが不具だというのか」と語る場面があります。旧約聖書では「いやそうでない」と続きます。芥川も聖書を読んでいるので、彼は「神は不具だ」と言い立てているような気がします。神が本当に五体満足で完全なら、こんなに不条理はあるはずがないということかと思います。
D:マルクスも、資本論の中で物神崇拝ということを書いています。元々はただのものだったはずの商品が、交換価値をもつことによって、市場によって交換価値が広がっていった結果、あたかも神のような価値物であると捉えられてしまう。その究極が貨幣であるとしています。それに対するものが、使用価値であると。自分にとっては価値があることです。Bさんの娘さんが描いた絵は、Bさんにとってはとても価値あるものだけど、私にくれると言われても、私にとってはいりません。多分、この物語においては、交換価値、商品的なものに価値があり、使用価値、個別のこの人だからいいというようなことは全然出てきません。最後のお姫様がどちらでもいいのは、記号としてだけあればいいので、彼女たちの良さみたいなことはどうでもよくなっているのかもしれませんね。もっと怖い話にするなら、「足一つの神が妹と結婚し、手が一つの神が姉と結婚しました」とするでしょうか。
E:それはとても怖いですね。
C:私としては、もう芥川にハマっちゃっています。もう最初のようにただの物語としては読めません。
D:どこまで芥川を読みましょうかね。やはり、『西方の人』まで読むべきでしょうか。いわゆるイエスの話なんでしょうか。
E:そうですね。イエスの話です。
D:キリスト教を風刺したり批評したりしているんでしょうか。
E:『西方の人』は、小説ではないんですよね。メモによると『西方の人』は、福音書を読んでそれをまとめたという感じ、とありますね。キリストをゲーテと比較していて、情熱的で短命であるというキリスト観をもっていると書いてあります。
D:何で『西方の人』と『続西方の人』を分けたんでしょうか。
E:何と『続西方の人』を書いた翌日に芥川は自殺しているようです。
B:えー。
D:じゃあ遺稿ということですね。
E:僕は、『続西方の人』の方が面白かったと書いていますね。
D:別な人も同じことを言っていました。
E:多分、芥川的に、この『続西方の人』でキリストに向かいあったのでしょう。そしたら自分が見えた。それで絶望したのかわかりませんが、鏡なんだと書いていますね。
C:これまでの作品で、芥川は常に嘲笑っていますよね。
E:そうですね。この人はスーパーニヒリストですよね。
C:信じている人を嘲笑っている立場ですよね。でもそれが変わっていかないと、自殺には至らないのではいかと思います。自分も愚かであることを自覚し始めるポイントがあるはずだと思います。
D:ニヒリズムの極地はそこにいたりますよね。
C:『犬と笛』や『蜘蛛の糸』の時点では、そこにまでは至っていないような気がします。
D:突き詰めると、意味ないよと笑っている自分も意味なくなってしまいますよね。ニーチェと全く同じです。ニーチェは善とか全ての価値を皮肉って転換していきました。もしかすると芥川もそうなったのかもしれません。仏教的なもの、神道的なもの、キリスト教的なもの、全てをひっくり返していってニヒリズム的に突き詰めた結果なのかもしれません。やはり次は『西方の人』『続西方の人』ですね。
E:遺作でもありますからね。
D:この二つを読み、尚且つ芥川のニヒリズムについて考えるということですね。
E:芥川は本当に悪質です。よく言われるのは、児童文学って当時の少年少女にとって少年ジャンプを読むことです。当時の文筆家の人が書いた論文とかに、「最近の子どもたちは小説ばかりを読んで本当にダメだ」と、「ゲームばっかりして!」という感じで書いてあります。実際そういうものでした。小説は文学と思われていませんでした。読むべきものは漢文であって、小説は娯楽のために書かれたものだから親は子どもに「小説ばかり読むな」と話していました。それは昭和初期くらいまで同じです。芥川はそんな文脈の中で少年少女たちにニヒリズムという毒を配っていた。毒入り饅頭を配っていたということです。
E:そういう人が最後にキリストに向かいあった時に、自殺を選ぶことが興味深いですよね。
B:芥川は遺書があるんでしょうか。
E:遺書があるかわかりませんが、「ぼんやりとした不安」は有名ですよね。
D:まさにハイデガーが追求していった生の根源にあるものが「ぼんやりとした不安」で、そこから逃げたいがために「人」として不安を見ないようにするという話です。いわゆる実存的不安ですよね。
C:個人的な話ですが、この世が不条理なんだとしたら、信仰ってどこにあるのだろうかと最近考えています。最近、この世が勧善懲悪じゃないと成り立たない信仰って、本物じゃないと考えています。そんなことを芥川の作品から問われているような気がしていて面白いです。では次には『西方の人』『続西方の人』を読んでみましょう。