2020年6月16日(火) 10:30~12:00で、第6回となる「みらいつくり哲学学校オンライン」を開催しました。
偶数回はマルティン・ハイデガーの『存在と時間』を課題図書にしています。
今回からいよいよ本編である第1部に入りました。
第1部のタイトルは「時間性をめがける現存在の学的解釈と、存在への問いの超越論的地平としての時間の究明」です。
ハイデガーがこの『存在と時間』で探求しようとしている「存在一般の問い」について、まずは「現存在」(ハイデガーの言うところの「人間」)からアプローチしようというもの。第1部の答えを先取りすると、「現存在」というものは「時間性」をめがけるということで、その「時間性」こそが「存在一般の問い」を探究していく「超越論的地平」となるということです(「超越論的」というのは哲学でよく出てくる用語ですが、「それ以上遡ることができない」という意味です)。その上で第2部では、その「時間性」をもとにして、「存在一般の問い」に関してそれまでの哲学を「破壊する」ということが構想されていました。ですが、第2部は未刊に終わっています。
第1部は本来、第1篇から第3篇まであったのですが、第2篇までしか書かれていません。
第3篇が「時間と存在」というタイトルで、前述した第1部の結論について詳しく論じるはずだったのですが、それも未刊に終わりました。
第1篇のタイトルは「現存在の予備的な基礎的分析」となっています。
第2篇のタイトルが「現存在と時間性」なので、第1部のテーマである「時間性」に関する議論の土台として、「現存在(つまり人間)」について、予備的かつ基礎的な分析をしよう、というのが第1篇のテーマになります。
第1篇は全部で6章の構成になっていますが、今回扱ったのは第1章と第2章。
第1章のタイトルは「現存在の予備的分析の課題の開陳」。
第1篇で行う分析における課題をまずは提示しますよ、ということですね。
現存在という存在の特徴としてまず、「現存在は、存在しなければならないというあり方をする」ということを挙げています。
次に、「現存在はおのれの存在において存在へとかかわりゆくことが問題であり、そうした存在はそのつど私のものである」という「各私性」ということを挙げています。
これらから、「現存在はそのつど本質上おのれの可能性」だとします。
現存在というのは、おのれの存在において、おのれ自身を選択し、獲得することができる。
逆に、おのれを喪失したり、獲得できなかったり、たんに「外見上」獲得したりすることもある、と言います。
言い換えると、
「人間というものは、自分自身の『存在』というものを、自分でつかみとる、あるいはつかみとることができないものだ」
ということになるでしょうか。
と言っても、「存在」というものが何なのかということが『存在と時間』全体のテーマになっていて、現存在(人間)にとっての「存在」というものが何なのかということが第1部のテーマになっているので、ここではまだ「自分自身の『存在』」というものが何を意味しているのかはわかりませんね(どっちにしても第1部すら未完なんですが…)。
この「現存在の可能性」として、「本来性」と「非本来性」というものがあるとします。
「非本来性」とは、「平均性」とか「日常性」のことであるということです。
「非本来性」というとマイナスのイメージを持ってしまいますが、ハイデガーによると「多忙」とか、「活気がある」とか、「とても楽しい」とかいったような状態も含まれると言います。
ハイデガーの言う「非本来性」とは、「おのれの存在」から「逃避」したり、それを「忘却」したりという状態のことです。
人間誰しも、「自分の存在とは何なのか」ということをいつも考えているわけではないですよね。そんなことよりも、他に色々なことで充実した毎日を過ごしている。そんな状態のことを「現存在の非本来性」だとハイデガーは言います(決して非難しているわけではないので注意)。
ハイデガーによると、この「現存在の存在」ということについて、それまでの哲学者は誤った捉え方をしてきた、と言います。
どういうことかというと、机などの「物」と同じように考えてきた、というのです。
ここで、今回の範囲ではありませんが、ハイデガーによる「存在者」の区別について説明します。
「存在者」というのは、「存在するもの」全てを指します。
その中で、自らの存在についてかかわる存在者を①「現存在」と呼びます。ハイデガーによると、現存在は「人間」のみだとされます。
その他の存在者は、「現存在とされるにふさわしくない存在者」とされ、2つに区別されます。
一つは、②「手元存在者」です。
これは、現存在目線で言う「道具」です。
もう一つは、③「眼前存在者」です。
「ただ目の前にあるもの」ということですね。
例えば、私の携帯電話は私にとっては「手元存在者」ですが、他の人にとっては「眼前存在者」になるわけです(他の人は使えないので「道具」にならない)。
ハイデガーによれば、それまでの哲学では「現存在」①を「現存在とされるにふさわしくない存在者」②③と同じように考えてきてしまった、というのです。
ハイデガーは、それまでの哲学と比較する形で、この「現存在」というものの特徴について述べていきます。
つづく第2章のタイトルは、「現存在の根本機構としての世界内存在一般」です。
現存在の「根本機構」は、「世界内存在」だとハイデガーは言います。
「世界内存在」は3つに分けて考えることができると言います。
1)「世界の内で」
2)そのつど世界内存在という仕方において存在している存在者
3)「内存在」そのもの
上記の2)については、「現存在の平均的日常性というあり方」において考えることができると言い、第1篇第4章「共存在および自己存在としての世界内存在 <世人>」というところで述べられます。
上記の3)については、「内ということ」の意味が明らかにされるべきであるとし、第1篇第5章「内存在そのもの」というところで述べられます。
今回の箇所で詳しく述べられているのは、1)「世界の内で」について。
「~の内にある」というと、例えばコップの中に水が入っているというようなことをイメージします。
しかしハイデガーは、このことを「世界内部性」と表現します。
これに対して「世界の内にある」とは、「世界のもとで、世界になじんで存在している」といったような意味だとします。
「なじむ」の他には、「住む」「滞在する」「世話する」「親しんでいる」といったような表現をしています。
また、「世界のもとでの存在」とは、「世界のうちに没入している」とも表現します。
「居心地がよい感じで、どっぷりとその場に浸かっている」みたいな感じですかねー。
その上で現存在は、「気遣い」という特徴を有するとハイデガーは言います。
この「気遣い」については第6章で詳しく述べられるのですが、「現存在とはいえない存在者(つまりモノ)」に対しては「配慮的な気遣い」をし、他の現存在(つまり他者)には「顧慮的な気遣い」をすると言います。
気遣いには、
・何かにかかわり合っている ・何かを作りだす ・何かを整理し世話する
・何かを役だてる ・何かを放棄し紛失する ・企てる
・やりとげる ・探知する ・問いかける ・考察する ・論じあう ・規定する
などなど、色んなあり方があるというのですが、一般的な意味での「辛苦、憂愁、生活の心配」などとは無関係ということです。
哲学の中でよく用いられる概念として「認識する」というものがありますが、ハイデガーはこれを「気遣いのひとつ」であるとします。
「主体(人間)が客体(他者やモノ、自然)を認識する」といった「主観・客観関係」ということを前提として組み立てられる哲学は多くありますが、ハイデガーは「それはあくまで一つの前提にとどまる」とし、注意を促します。
「世界」についても、「人間という主体」が「認識する」対象という捉え方をしてはならないということです。
それを伝えるために、
「認識作用は世界内存在としての現存在の一つの存在様態である」
と記述しています。
「認識」と似た言葉として「認知」というものがありますが、ハイデガーは「事物的存在者を認知する」と表現し、「或るものを或るものとして語りだしたり論じあったりするという遂行様式を持っている」とします。これは、広い意味での「解釈作用」だとも言います。
(余談ですが、ハイデガーの存在論を発展させる形でゲオルク・ガダマーという哲学者が「解釈学」というものを確立します)
ちなみにハイデガーはここで、「眺めやり」ということの説明をしています。
「眺めやりとは、そのときどきに、何々をめがけて特定の方向を定めること、つまり事物的存在者に照準を合わせること」
なんだか、スナイパーみたいな感じですが、これはハイデガー流の「モノを認識する」ということのようです。
訳者の渡邊二郎さんは訳注の中で
「『視』という術語は、存在論的な意味での「認識」のことだと解してさしつかえない」
と書かれています。
ハイデガーにおいては、「視る」という表現を用いる際は、「認識する」ということを言っているのだという意味なんですね。
今回の箇所でも、「配視」という言葉が何度か出てきますが、これは「配慮的な気遣いにおける視」ということで、つまりは「モノを認識すること」という意味になります。
素直に「認識する」と言ってくれればいいのに、なんで「視」とか言うんだハイデガーさんよ…。
ちなみにハイデガーは、「視る」ことよりも「聴く」ことを重視しています。
後に「存在の声を聴く」「聴従する」といったような表現をしています。
確かに、「視る」って、もちろん「視ようとして視る」ということもありますが、「視えてしまう」(便利な北海道弁で言うと「視ささる」)ということも多いですよね。
一方で、もちろん「聞く」ことについても、耳に入ってくるという意味で「聞こえてしまう」(北海道弁だと「聞かさる」)ということもありますが、別の感じで「聴く」というと、「聴こうとして聴く」といった感じになりますね。
「聴く」の旧漢字では耳へんの下に「王」という感じがついていて、つくりは「十」と「四」と「心」になっている。「聴」の感じのモデルは聖徳太子で、「耳を王様のようにして十四の心を一つにするように集中して聴く」ということなのだという説もあるようです。
この章のまとめとして、現存在というものの特徴を以下のように述べています。
現存在
・つねにすでに「外部」に存在している
・そのつどすでに暴露されている世界において出会われる存在者のもとで存在している
・対象のもとでこのように「外部に存在している」ときですら、正しく解された意味では「内面」に存在している
・認識をいとなむのは、世界内存在としての現存在自身なのである
・或るものを忘却したときには、以前認識されたものとあらゆる存在関係が一見消え去ってしまうように思われるが、そうした忘却さえ、根源的な内存在の一つの変様として概念的に把握されなければならない
また、現存在と認識作用との関係については、以下のように述べています。
・認識作用において現存在は、現存在のうちでそのつどすでに暴露されている世界へとかかわる一つの新しい存在の現況を獲得するということである
・だが、認識作用が、世界というものとの主観の「交わり」をまずもって創りだすのでもなければ、この「交わり」の方も、主観に対する世界の影響から生ずるものでもない
うーん、なんとも難しいですね…。
今回の第2章で出された「世界内存在」というものについて、第3~5章で詳しく分析がなされます。
次回の偶数回は、6月30日(火) 10:30~12:00です。
課題箇所は、第3章「世界の世界性」です。
「世界」は色々な意味でとらえられている。ハイデガーの言う存在論的な意味での「世界」の特徴としての「世界性」というものについて述べられています。
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