2025.8.20
喀痰吸引研修レポートNo.3です.
このレポートを始めようと思った時には,オンライン講義を受講するたび,少なくとも講師が変わるたびにその時に感じたことを書こうと考えていました.
でも無理でした.
50時間が想定されているオンライン講義を受講することは,思っていた以上に「修行」でした.
この文章を書いている現在がどの段階かというと,50時間のオンライン講義を観終え,1週間何も考えないように努めて過ごし,今まさに集合形式の研修会場に向けて移動をしているところです.
50時間,何を考えていたのか,今は思い出すことができません.
それが「修行」と書いた理由です.
私が影響を受けているものはいくつもあるのですが,
中でも,パウロフレイレの著書は定期的に読み返す大切な本です.
フレイレの主著と言われるのは『被抑圧者の教育学』ですが,もう一つ加えるとしたら『伝達か対話か』が挙げられるような気がします.
この本のタイトルにあるように,フレイレは,銀行型教育で行われる「伝達」を批判し,課題提起型教育の方法である「対話」が愛の方法であると書きました.
(ぜひGoogleで検索してみてください.)
私は,少なくともこの5年間は,伝達を批判し,対話を重視する立場に同意してきました.
しかし,私が受けた修行の50時間は,伝達そのものでした.
何度も,このレポートを書こうとパソコンの前に座りました.
でも,いかに伝達が悲しいものであるのかといった文章しか書くことができず,レポートを更新することができなくなりました.
そのうち,50時間を修了するために,医療の性質とは何か,生活支援とは何かといったことは考えることもできなくなり,ただ心を動かさないようにして,パソコンの画面から流れてくる知識を頭に入れていく作業が続きました.
今朝,散歩をしている時に,ふと思いつきました.
そもそも喀痰吸引研修に対話は必要なのだろうか.
むしろ,あえて,喀痰吸引研修では,修行的な方法が採用されているのではないか.
私は,どこか「対話」原理主義者のようになって,伝達と対話が入り混じった教育実践のリアリティを見失っていたのではないか.
こんなところに至った時,
「書けるかもしれない」と思いました.
この誰が読んでくれるかわからない文章をやっと更新することができました.
だからといってもやもやが晴れたわけではありません.
まだもやもやの出口は見えません.
果たして私は集合研修を受講し終えることができるのでしょうか.
もやもやしたまま,集合研修に行ってきます.
みらいつくり研究所
まついかい