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2020年度(令和2年度) 第1部 シンポジウム 開催報告

2020年度(令和2年度) 共に学び、生きる 共生社会ブロックコンファレンス in 北海道

 

第1部 シンポジウム 「コロナの時代における 社会教育の実践を通じたコミュニティの可能性」 開催報告

 

2020年度のブロックコンファレンスは、2019年度(令和元年度)と同じテーマ、内容で、枕詞として「コロナの時代における」をつけて開催することにしました。

 

2019年度のテーマが「社会教育の実践を通じたコミュニティの可能性」。

開催されたのは2020年2月22日。

「共に学び、生きる」共生社会をつくるために北海道各地で行われている活動をつなぎ、「次のステップ」へと進むためのきっかけになればと思い、「2020年(令和2年)2月22日」という「次(2)」を意識した開催日にしたのでした。

 

しかしながら、その北海道では2月14日に初めての新型コロナウイルス感染者が判明。

その後徐々に広がり、コンファレンス終了直後に札幌市から「イベント開催の自粛」が呼びかけられたのでした。

 

2019年度の開催については、「リアル会場」である北海道札幌市西区にある生涯学習施設「ちえりあ」を会場として行う予定としていたのですが、感染拡大を受けて急遽Zoomによる「オンライン会場」も併設する「ハイブリッド開催」としました。

リアル会場には150名ほど、オンライン会場には述べ30名ほどの参加がありました。

 

同月末の2月28日には、北海道独自の「緊急事態宣言」が発出されます。

4月7日には政府による緊急事態宣言が発出、4月中旬には全国に拡大、その後いくつかの感染拡大の波があり、2021年に入ってすぐに二度目の緊急事態宣言が発出され、今日(2021年3月8日)に至ります。

 

この一年間、まさにこの「コミュニティ」が様々な形で分断されました。

 

多くの人が集い、出会い、つながる。

そんな「リアル」は、もう無くなってしまいました。

 

みらいつくり大学校は、2020年度の初めから、すべての活動をオンライン化しました。

 

Learning must go on.

どんな時でも、学びを止めてはいけない。

いや、こんな時代だからこそ、学びを続けなければいけない。

 

そんな思いで、色々なオンライン活動を、定期的に、開催してきました。

 

そんな中で思いを新たにしたのは、「共に学び、生きる」学びの「コミュニティ」の重要性です。

 

たとえ形は変わっても、「ともに学ぶコミュニティ」の可能性をやっぱり信じたい。

 

そんな思いで、シンポジウムのテーマは2020年度も「コミュニティの可能性」にしました。

 

奇跡的に、ものすごく多忙な四名のシンポジストの先生方に続けてご登壇して頂くことができました。

 

「コロナの時代」の before と after で、「コミュニティの可能性」について豪華なメンバーで議論できたこと、本当に有難かったです。

 

当日のシンポジウムは、Zoomウェビナーを用いて、オンラインで開催しました。

 

当日の議論の「見える化」を、2019年度に続いて2020年度も稲生会の2名の職員が担当してくれました。

 

まずは2019年度の「見える化」から。

 

 

 

 

 

次に、2020年度の「見える化」。

 

 

 

 

「リアル会場」と「オンライン開催」の違いに加えて、二人のグラフィックレコーディングの「成長」も感じられます。

 

続いて、当日の議論のハイライトについて列記します。

 

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【登壇者報告(報告順)】

 

1) 北海道医療大学 向谷地生良教授

 

・コロナの時代におけるコミュニティのあり方のキーワードは「民主主義の再認識」

・地域を超えて市民が学び合う可能性、市民が主体となった学びの機会の提供が重要

・メンタルヘルスの課題は「生きる苦悩が最大化した状態」

・浦河のべてるの家での活動では、メンタルヘルスの課題を経験した人たちの声を社会に発信すること、その方々の経験を社会の中に活かしていくことを心がけてきた

・コロナの時代に問われているのは、民主主義について「気長に」教育することの重要性

・民主主義の根本は、深いところ、みんなの心の中にある、みんな個人として尊厳の価値をもつものとして取り扱おうとする心

・平和な住みよい世界を築き上げようとする決意

・全ての人が、自分の才能や長所や美徳を十分に発揮する機会をもつこと、そしてこれをみんなで努力して作り上げていくこと

・民主主義の根本は、家庭、市町村、共同生活、身近なところにある。このような人間の共同生活の根本のあり方を民主主義は提案している

・自ら進んでその道を歩こうとする人のみに道が開かれる

・民主主義という、この社会の中でともに学び合うという現実をどう作り出すのか、そのために、私たちが一歩踏み出すということが何をすることなのかということが問われている

 

・べてるの家では、地域の中に眠っている、いわゆる「問題」として処理されている、その貴重な経験を私たちは寄せ合って、そこで何が起きているのかをともに考える場をつくろうとしてきた

・べてるの「3密」: 密なつながり、密な確認、密な相談

・今までのつながりの中で分かち合ってきた人たちを改めてお互いの立場を確認し合う中で何が出来るだろうかということの模索を続けている

 

・大事なことは、「互いに関心を寄せ合う」ということ

・日常の困りごと、苦労、体験、思いがけずうまくいったこと、それらを話題としてお互いの間に置きながら語り合う機会を重ねること、そしてそこから見出した人々の知恵とかけがえのない経験を分かち合い活かし合うこと

・これは、市民活動としての、研究活動

 

・コロナの時代にあっては、今まで孤立、地域の中で孤立しがちだった人たちが、むしろ地域を超えることでつながりやすくなるということも起こっている

・お互いに行き詰まりが行き詰まりではなく、新しい一つの経験を生み出す大切な素材として用いられていく

・無駄なものは無い。どんな失敗でも、大切な経験として多くの方たちに用いられて活かされていく

・コロナの時代にあっては、私たちが大事にしてきた「弱さの情報公開」という理念が大切になるのではと考えている

 

2) 北海道大学 宮崎隆志教授

 

(1)共に生き共に学ぶ(昨年度の報告まとめ)

・人間はそもそも共にあり相互作用の網の目のなかにある。この「共にある存在論」を出発点に置く必要がある

・それにも関わらず、身体や能力を私的に所有する主体という現象形態が支配的になっている

・共にあるにも関わらず共にあることができないという矛盾を媒介にそれをシェアすることによって共にあるという根源的事例に立ち戻る可能性が開かれる

 

(2)精神と身体の分離とデジタル化

・ソーシャルディスタンシングは、物理的な空間のシェアを困難にしただけではなく、精神と身体の強制的な分離過程でもあった

・コミュニケーションがインターネットを介して遠隔化されることによって身体性はほぼ完全に消去された

・デジタルコミュニケーションにおいても、感情による揺れを極力排除して曖昧さを無くした構成の高い知的な世界を構築する可能性は見い出せるかもしれないが、その学びはおそらく共鳴しない

・情動次元の解放は身体を通した表現が共鳴し合うことを通してなされているからである

・身体性から分離された論理的な言葉は情動を徹底的に抑制する

 

(3)効率性による時間の分裂

・コロナの時代に入り、人間的な自然としての生命の循環とホモエコノミクス(経済人としての合理性)が解離していることが明らかになった

・生物学的な合理性は経済的な不合理性であり、経済的な合理性は経済学的な不合理性である

・コロナの時代によって明らかになったのは、現在の政治システムが暗黙に前提としている効率性という正義概念の虚構性である

・自然、人間、社会のそれぞれの層は固有の再生産の論理とそれにもとづくリズムとしての時間を持ちながらそれらが相互に関連することによって持続可能性が保障されている

・しかしながら、部分的な合理性しかもたらさない効率性の向上の論理が、自然、人間、社会の総体を支配するようになったことによってこれらの有機的な関連が断ち切られた

・今、政治に問われているのは、自然、人間社会の総体を見据えて、人間の可能性を肯定しうる正義の概念を見出して実践することである

・おそらくこれは、地球環境問題と全く同一の構図だと思う

・その意味で2020年は、2050年までに人類が経験するであろう出来事のプロローグ、序幕であったと考えている

 

(4)希望としての限界状況

・どのような窮境にあったとしてもそれに喘ぐ当事者がその状況を再生産していた自己を見出し、自己の限界を意識するときに状況は希望に連なる限界状況に転化する

・それは永遠に続く状況ではなくて特定の条件に規定された有限性を持つ状況である

・限界は宿命ではなくて探求し挑戦すべき課題にそうなると転化する。そして限界の先にある未来の希求が人々の学びへの動機を形成する

・コロナの時代において、時間に埋め込まれた収奪性をあらわにした時にオンラインに代表されるテクノロジーでは満たされない何か、私たちが見失ってはならない大切な何かがあることに地球上の全ての人が気付き始めている

・「社会教育の父」パウロ・フレイレは、そういった気づきを明確にしながら状況を限界状況に転化させる意識を限界意識と呼んだ

・世界中の人々がこのような限界意識を形成しそれが共有されるならば新たな社会に向けた今までにはない共同探求が始まる

・それは直ちに、共にある社会を実現するとは言えないもののそれに向けた歴史的な出発点になると考えている

 

(5)<協同ー協働ー共同>の経験の重層化

・これまで述べたような意味で歴史的な出発点に到着したとすれば地球規模の壮大なアソシエーションが始まる可能性が私たちの目の前に広がっていると言える

・限界状況を克服するという共通課題のためのコーポレーション協働が各地で展開されることによって新たなコミュニティがおそらく生み出される

・対立状況も学びの過程に変えるときに対立する他者を赦すケアの思想も生まれてくる

・ このような過程を経て生成したケアコミュニティは自然、人間社会の相対性を回復するためのモデルになる

・一人一人の個別的な経験が人類史的課題に直結している

・コロナの時代においては、従来型の生活様式を取ることが感染拡大の要因となって加害者性を有すると言う事態を全ての人が経験した

・被害者であると同時に加害者でもあるという深刻な矛盾を抱えた人々は現在の事態に対する当事者性を知覚せざるを得なくなった

・協働する諸個人の小さな共生が人類史的な大きな共生に向けた意義を持つ時代に入った

 

・その正否は共にあることができないという矛盾を共有することによって成り立つ共に学ぶコミュニティにおいて学びの意味転換ができるか否かにかかっている

・私的な個人をベースにした学習感では恐らくそれは達成できない

・デジタル化された学びの延長でもそれは達成できない

 

・(自身が連携協議会委員を務める)みらいつくり大学では精神と身体は不可分であることが前提にされている。そして自然的存在、生命の次元を含んだ人間的自然を学習した理解の出発点においている。デジタル化されたプログラムを精緻化させるような学習とは異なる響き合う学びが小さなスケールであるけれども実現しつつある

・このような学びを小さな協同、小さな共生の過程で組織できるように支援することが現在の政策的な課題ではないか

 

3) 慶應義塾大学 堀田聰子教授

 

・「ケアレター」というプロジェクトを始めた。<ケアの仕事をするわたしからあなたへ>ということで、ある意味ケアに携わる私たちの当事者研究というような意味合いを持ってはじめたもの

・コロナを通じて今まで眠っていた暗部が炙り出されてしまっているようなところも少なからずある

・新型コロナには三つの顔がある

①感染症としての疾病としての顔

②よくわからない、そしてまだ治療法もどうなんだろうというところからくる不安とか恐れ

③そのことが嫌悪とか差別を生む

・感染症の三つの顔というのは、<共生>ということを考える上で色々な示唆を持っている

 

・ケアの現場では、 水平な関係性の中で何らかの障害疾病がある方が支援を受け取るというだけではなくて、この志と実際の働き、そしてそのものも届く、時にそれは支援者側にも届くというようなそんな循環ということも生まれている

・不安の見える化を通じて、そして学びながら、楽しい体験も何か駆動されていくということが、新たなその街全体のチームスピリットを高めるということにつながっている事例もある

・自分たち自身の不安あるいは現状ということを自分たちの手で簡単なアンケートで見える化するという方法

・医療職からの研修を受けるということで、ガウンを使ってるお母さん達もオンラインで参加して、市役所の方も参加して、これを一緒に学びをやったという事例もある

・ゲームのような感覚で学び始めるということが起こった事例も

・双方が最初は不安から始まったんだけれども、一緒に勉強して、一緒にものを作っていく、一緒にこの学びの場を体験するっていうことで、みんなが元気になっていく。そして有事の時にも助け合うという仕組みにつながっていったりしている

・新型コロナウイルスへの対策について学ぶというところから生まれてくる共同の可能性についても希望を持ちたい

・最も脆弱な、最も弱いという風にみなされている場合も多い方々が、もともと人がすべての人たちが持っている、人が人の ことを気にかけるといったことを体現している

・もともと全ての人が持っている人が人のことを気にかけるという、そういう力をこのケア関係というものだったり、様々な今私たちの社会を占領している規範のようなものが閉じ込めてしまっていないか、逆にそれをどう解放していくかを考えることが必要

 

4) 東京大学 熊谷晋一郎准教授

 

・介護者、介助者との関係は今までよりも緊張感のあるものになってきた

・これまでは、介護者は数が多ければ多いほど良い、少数の介護者、介助者に支えられる暮らしはその人との関係が悪化したときに、すぐに暴力的な関係に転嫁してしまうリスクがあるというふうに主張してきた

・コロナの時代においては、たくさんの人に支えてもらい家にたくさんの人に来てもらうという安心した暮らしはコロナの観点からは安心した暮らしではなくなってしまった

 

・コロナの状況というのは、すべてを悪いほうに変化させたというわけでもなく、逆にすべてを良い方向へ変化させたというわけでもなく、いわば障害の状況の配置が変った

・コロナによって様々な制約が生じたが、それによって研究の在り方そのもの、大学での研究の在り方そのものも、変化し始めている

・研究というものが、多くの人に参加可能なものになるだけでなく、その信頼性や妥当性(現実に見合った研究が出来ているか)も向上するかもしれない

・研究というものや、あるいは高等教育機関というものが「民主化」する可能性がある

 

【ディスカッション】

 

論点1. ともに学ぶ方法論としての研究について

 

・私たちが、前提としている民主主義という社会、私たちがいま大切にしていることっていうのは、この民主主義という社会の中ではものすごく脆弱であって、関心を寄せなければそれはいとも簡単に失われてしまうものだということがわかった

・失うことによって、その必要性というか、大切さを私たちは逆に見出している

・一人一人が自分はこんなことに困っている、あんなことに行き詰まってる、こんな大変さがあるということを、恐る恐るでも出し合って、寄せ合うことが大事

・今までの勝ち組、負け組とか、そういうある種の分け方が全く意味をなさず、みんながコロナ禍という災害の中で被災者として今ある中で、いま、私たちが何をすべきかという、全ては私事になってくる

・私たちが改めてお互いに既存の知識とか経験とか全く役に立たないなかで、改めてこの状況をどう生きるかということについての経験を寄せ合わなければ生きていけないという状況のなかで、私たちは、ともに研究するという、ある種のそういう謙虚さをもう一度私たちは取り戻さなければならない事態にきている

・非常に弱った経験のある人たち、最もこういわゆる社会のなかでなかなか日の当たらない経験を強いられてきた人の経験からこそ、私たちはもう一度学ばなければならない

・私たちは新たな学習をはじめなければならないという事態に直面している

 

・共通の関心がいま急速に形成されている

・全ての人が被害者でもあり、加害者でもあって、それぞれの社会的なポジションに関わりなく、非常に大きな問題、共通のもっとこう普遍的な問題があるのではないかと関心が広がっている。そのこと自体が、新しい研究の分岐をもたらしている

・限界状況のところでいったのは、そういった関心を手がかりにすると、なんらかの振り返り、推察がそこで必ず起きてくるはずで、そのための方法はいま様々にテクノロジーも含めてあるかと思う。その動機の広がりのところに着目する、それに答えていくことが必要だろうと考えている

 

・もう研究しないとどうにもならない

・今まで比較的、介護を受ける方が、日々自分たちが思うことが、思う時に、思う形ではできないということを、介護する側もある意味共有した

・限られた環境で、そして時に必要なものもないという時に、どうやってそれを切り抜けていくのか、ということを、もう一緒に考え抜いていかないとやっていけない

・コロナというのが、戦う対象というところから、ある意味そのリスクと付き合って、人生を取り戻すという捉え方になっていた時期があった

・一緒にその状況をとらえて、考えていく、編み出していくということによって、それとどう付き合うか、ある意味コロナとともにあるということを、自分たちのことにしていくことが重要

・不安と恐れということは、わからないというところからきていて、一緒に仲間と研究していくことが、自分を支える力になって、周りの人もその苦労をまさにともにしているということが、感謝にもつながっていくのではないか

 

・大学というものは、病気や障害を持つ人々を研究される側に位置づけることで、アイデンティティを維持してきた

・介入する側・される側、観察する側・される側、というふうな非対称、対等でない人間関係がベースにあった

・それをどうひっくり返すか、あるいは平等にフラットにしていくか

・これまで研究される側に位置づけられてきた人たちが、研究する側になる

・これまでマジョリティ、介入する側、研究する側だった人たちが逆に研究される対象になる

・研究する側・される側を逆転させるような試みを始めたところ

・教育とは答えがあるものを学ぶというイメージが強いと思うが、今目の前に広がっているのは答えのない問いである

・答えのないものに対しては、どちらかというと研究しかない

・研究を共同研究するっていうのは、教える・教えられる関係ではなくて、ともに考える。つまり対等な関係。両方とも正解を知らないという、対等性がそこに切り開かれる

・研究という方法は、差別や偏見を減らすうえでも重要な候補の一つになる

・コロナによって社会環境の側が急速に変動しているので、ほぼ全員と言っていいほどの人たちが、社会環境との間にミスマッチを起こしている人=障害者として定義される範疇に入っている

・コロナの時代は、分岐点であり、うまくいけば連帯のほうに行くチャンス

・全員が当事者になったという意味で、そこに注目して、みんなが研究をすれば、連帯のほうにいくだろうと思う

・逆に、みんなが余裕がなくなって、我先にというかたちで、人の困りごとを後回しにして、利己的に振る舞うということも当然起きうる

・全員が当事者化するということは、連帯のチャンスも高まるが、分断のチャンスも高まる

・両方の引力に引き裂かれて、私たち一人一人が、いったいどっちに進むのかっていうことを、迫られているのが現状

 

論点2.  関心・ケア・気づかいについて

 

・私たちの身近なそういう課題に私たち自身が誠実に向き合う中で自分の中でのそういうジレンマを正直に周りに発信し、私たちもこういうことの大変さとかこういうことでの課題、ぶつかり合いもあったけどこうやって私たち生き抜いているというかこういうふうに暮しているといことを私たちは発信し続けてきた

・時間が経ってみるとそれは時間の中でちゃんとそれが地域とか社会にも届いてまたそこに新しい共感とか私たちの情けない話が逆に多くの人たちの学びに生かされていく

 

・連帯と分断の同時発生が起きている

・そういうふうに振る舞わざるを得ない自分自身の限界を意識するということも含めて、より根源的な価値があるということが、意識される機会になる

・自動的には進まない、ジグザグを経ながらだと思うが、その分断批判の中でより根源的な価値が見出されていくというプロセスを考えることができる

・矛盾はずっと続くんだけれどもその矛盾から逃げないで向き合い続ける、引き受け続けるということが必要なんだろう

・被害と加害が同時存在している、そのことを自覚した時に、二項対立の図式では無くなる

・加害の側面だけでその人を評価するのではなくてより根源的な地平からですねそのような形で振る舞わざるを得ない人たちを理解する努力も同時に進んでいくんだろう

・ある種の「ゆるし」を人類史的に学んでいく機会として捉えることが必要

 

・「気にかける」ということは、実は全ての人たちが持っているのではないか、それが発揮されないような環境をどう取っ払うか、ということが大事

・感染症とか障害ということを手掛かりにして排除と共生ということを改めてそれがどのようなメカニズムで起きているのか、ある意味それは自らとその外界との関係ということで捉えてみたい

・自らの中での揺らぐ人生の軌跡、喪失とか逸脱、と自ら感じてしまうかもしれない

・それをリスタートというか、自分がどのように捉え直すことが出来るか、という自らの中での再生、というか、自分の中での折り合いと、自分と外界との折り合いということの、二つを組み合わせて考えてみることで、この気遣いということがもともと持っているはずのものがどうなるのかということを考えていきたい

・小松理虔さんという方が『ただそこにいる人たち』という書籍の中で「共事者」という言葉を使っている。当事者はもちろんだが、共事ということも考えていくことが気遣いというところにも繋がっていくのではと思う

 

・ケアする人、される人という非対称な関係があるのではなくて、全員がケアを求めている人なんだということ

・実は上司も健常者もニーズを抱えた配慮を必要とする人なんだ、だから取扱説明書が必要なんだということ

・する側される側というふうな非対等な関係を乗り越えるような方向というのが必要

・刑務所のプログラムを映画化した『プリズンサークル』の中で、自分の被害性やケアを求めていたのに得られなかったという事実を手当てされて初めて自分の加害性に認められるようになるということがある

 

 

・人間というものをどう捉えるか、人間観ていうものをもう一度考え直す必要がある

・全ての人がすでに状況に巻き込まれていて、そこで自ら関与しようとするかどうかが大事で、なおかつ人間と言うものをとらえる時に最終的にはいずれ死ぬ、死というものを絶対的なものとして抱えている、つまり自分の命の有限性というものを自覚した上でどう自分の生を命を生きるか

・ケアとか気遣いとか共生とを考えながらそれを突き詰めた結果、ある種自分が加害者側に無自覚であれ自覚的であれ回ってしまうというリスクを非常にはらんでいる

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コロナを挟んでの二年間の「コミュニティ」に関する議論、本当に有難い機会でした。

 

来年度のブロックコンファレンスがどのようなテーマと内容になるのかまだわかりませんが、この二年間の「コミュニティに関する学び」と、そこで生まれた「学びのコミュニティ」は、必ず来年度以降につながっていくと思います。

 

 

みらいつくり研究所

第1部 シンポジウム企画担当

土畠智幸