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第4回 みらいつくり哲学学校オンライン 開催報告

 

2020年6月2日(火) 10:30~12:00で、第4回となる「みらいつくり哲学学校オンライン」を開催しました。

 

偶数回では、マルティン・ハイデガーの『存在と時間』を課題図書にしています。

 

前回はイントロダクションで、今回から本編に入りました。

 

といっても今回の箇所は「序論」。ハイデガーの壮大な構想である2部構成に入る前の前段です。

…だけど、実はこの構想は第1部の途中までしか実現しませんでした。

ただこの「序論」の後半では、未刊となった部分についての構想も述べられています。

 

序論は「存在の意味への問いの開陳」として2章構成となっています。

 

第1章は「存在問題の必然性、構造、および優位」

 

なぜハイデガーが「存在の問い」をたてるのかということについて述べられています。

 

哲学の二大領域と言われているのが「存在論」と「認識論」。

 

「存在論」は、ソクラテス以前の古代ギリシア時代から近代に至るまで、繰り返し哲学されてきた領域です。

にもかかわらず、ハイデガーは「存在問題は今日では忘却されてしまっている」と言います。

その意味は、「わかっているつもりで語られているが、『存在の問い』についての答えは得られていないし、実は問いのたて方からして間違っているのだ」ということです。

 

私たちは、つねに何らかの「存在了解内容のうちで動いている」とハイデガーは言います。

つまり、「存在」というものについて何らかの形で「了解」しているということです。

ですが、ハイデガーは「存在」というものの意味を捉える「地平」をすら捉えることができていないのだというのです。

 

ハイデガーによれば、「目の前にある」ということは「事実存在」(「実在」と呼んだりしますね)であって、本当の「存在」の意味とは違うのだと言うのです。ハイデガーの結論を先取りして言うと、「存在」というものの意味を捉える「地平」は、「時間」であると言います。本当の「存在」の意味は、「目の前にある」とかいう空間的なことではなく、「時間」という地平で捉える必要がある、と言うのです。

 

ハイデガーは、「存在するもの」すべてを指して「存在者」と言います。「者」と言っても人間だけに限らず、机や自然などの「物」も含みます。

ハイデガーは「存在の問い」にアプローチする上で、この「存在者」の中から「ひとつの際立った存在者」を取り上げます。それが「現存在」です。この「現存在」というのは、ハイデガーによる「人間という存在者」の表現です。

 

「なんで普通に人間って呼ばないんだ」、当然の疑問ですよね。

ハイデガーが言う「現存在」は、「目の前にいる」つまり「事実存在する」人間のことでは無いのです。

「人間」という「場」における「存在」の「現われ」という感じで「現存在」という用語を使います。

 

またハイデガーは、「現存在」がそれ自身に対して何らかの態度をとることを「実存」と呼びます。

 

ハイデガーは「存在の問い」、つまり全ての「存在者」の「存在」の意味を問うアプローチとして、この「現存在」の「実存」というものを分析すると宣言します。

 

そして、全ての存在者の「存在」の意味を問うことを 基礎的存在論 と呼び、

際立った存在者として現存在というものを取り上げるアプローチを 現存在の実存論的分析論 と呼びます。

 

結局ハイデガーは、『存在と時間』においては後者の「現存在の実存論的分析論」しか取り上げることができず、そもそもの目的であった「基礎的存在論」についてはその後彼の一生をかけて思索していくことになるのです。

 

っていうかその前に、「現存在の実存」にアプローチする上での「地平」となる「時間」についてすら、十分に分析できないまま終わってしまうんです。本来は、第1部の第3篇「時間と存在」においてそれが分析されるはずだったのですが、これも未刊に終わっています。

 

第2章は「存在問題を仕上げるときの二重の課題 根本的探究の方法とその構図」

 

まず最初に、現存在の実存にどのようにアプローチするのかという事が述べられます。

 

ハイデガーが面白いのは、「実存」には「本来的」なものと「非本来的」なものがあるというのですが、「非本来的」なものからアプローチしていくんですね。

「非本来的な実存」を「差しあたってたいてい存在している状態」とか「平均的日常性」と呼びます。

つまり、「人間って、普段はこんな感じでいるよね?」という状態からアプローチするということです。

ハイデガーによると、時間も「本来的な時間」と「非本来的な時間」があると言います。

「非本来的な時間」とは、私たちが普通に考える「過去-現在-未来」という流れにあるものですが、ハイデガーはこれを「通俗的な時間概念」と呼びます。つまり、「みんなが普通はそうだと思っている時間の考え方」だというのです。

 

ハイデガーは、「現存在の存在はおのれの意味を時間性において見いだす」と言います。

ここでいう「時間性」は「通俗的な時間概念」によるものではなく、「本来的な時間」であり、ハイデガーはそれを「存在時性(テンポラリテート)」と呼ぶのです。

 

またハイデガーは、現存在には「歴史性」というものもあると言います。

 

このように、本来「存在」というものを考えるときには、「存在時性」や「歴史性」をともなう「現存在」について考えなければいけないのですが、これまでの哲学における存在論ではそれをしてこなかったと言うのです。

 

ハイデガーは自らに「存在の歴史の破壊という課題」(第2章第6節のタイトル)を課します。

哲学の二大領域のひとつである「存在論」のこれまでの歴史を「破壊」しなければならないと言うのです。

ハイデガーが想定した「誤った存在論をつくってきた相手」は、アリストテレス、中世の神学者(トマス・アクィナスなど)、デカルト、カントと言った、誰でもその名前を聞いたことのある「大哲学者」たちでした。

 

残念ながらその戦いも、『存在と時間』においてはなされないままに終わります。

 

ちなみにこの戦いの一部は、『存在と時間』発刊の翌年に行われた講義『現象学の根本問題』として読むことができます。もっともこれはあくまで「講義録」という形であって、『存在と時間』のように体系的になされたものではありません。

 

後半の対話では、ハイデガーが考え出したこの「現存在」という概念について議論がなされました。

現存在=人間ではないのか?

人間の中でも現存在ではない存在者はいるのか?

現存在は、「類」なのか、「種」なのか、それとも個人なのか?

動物は現存在とは言えないのか?

重症心身障害者も現存在なのか?

 

哲学学校のメンバーとして参加している障害当事者の一人は、自分の「存在の意味」というものについて最も考えたのは、「死」というものを意識した時だったと言います。

「10歩で死に至るとして、9歩までいってしまうと『自分の存在の意味』について考えている暇など無くなる。

逆に、1歩とか2歩とか、つまり『死』のことなど全然意識しない時には『自分の存在の意味』についてなど考えない。

9歩のところから、6,7,8歩くらいまで戻った時にもっとも『自分の存在の意味』を考えられるように思う」

と発言してくれました。

 

実際ハイデガーも、「実存」についての「全体性」を考えるときに、「死」というものを考える必要があると言います。

第1部 第2篇「現存在と時間性」において、第1章で「現存在の可能的な全体存在と、死へとかかわる存在」というテーマを掲げ、「死」の問題について分析しています。

ハイデガーが、「死」について考察した哲学者として一番にあげられる所以がここにあります。

 

ちなみに、私が高校生の時に「人生で初めて読んだ哲学書」としてこの『存在と時間』を手に取ったのも、「死」についての記述があったからでした。もっとも、当時は書いてある内容が1ミリも理解できませんでしたが…。

 

『存在と時間』のように難解な哲学書も、多様性のある人たちと議論しながら一緒に読むと「もしかしたらこの本、面白いのか?」と(1ミリくらい)思えたりします。

また、対話の中で参加者が発した言葉が、大哲学者が考えたのと同じ内容だったりして、驚くこともあります。

 

 

次回第5回は6月11日(木) 13:30~15:00です。

こちらは奇数回として『生きる場からの哲学入門』、課題部分は第1部第2講「砂漠のなかのオアシス -沖仲士ホッファーに学ぶ、生きる場で哲学するためのルール」です。

 

その次の第6回は6月16日(火) 10:30~12:00の予定です。

『存在と時間』のいよいよ本編に入っていきます。

まずは第1篇「現存在の予備的な基礎的分析」の第1章「現存在の予備的分析の課題の開陳」と第2章「現存在の根本機構としての世界内存在一般」です。

 

 

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