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第3回 みらいつくり哲学学校オンライン 開催報告

 

2020年5月28日(火) 13:30~15:00で、第3回となる「みらいつくり哲学学校オンライン」を開催しました。今回も、全国から9名の参加がありました。

 

奇数回では、『生きる場からの哲学入門』(新泉社, 2019年)を課題図書にしています。

 

今回は、第1講「民衆思想とその方法について」。

北海道在住の在野の哲学者、花崎皋平さんによる講演録という形式でした。

 

花崎さんによると、民衆思想とは「生活の中での実践、生きる活動、具体的な働きをしながらつくりあげられてきた思想」であるとされます。

 

民衆思想の特徴として、友人や周りの人たちへの話、日記や書簡(手紙)という形で思想を語っている場合が多いとされます。世界の古来の大思想家もみな本を書いた人ではないとして、釈迦、孔子、キリスト、ソクラテス、ガンジーなどを例に挙げます。これらはすべて、話したことを周りの人が書き留めたり伝えたものがその人の思想として残っているということです。

 

その後、花崎さんから見た民衆思想家として、アイヌの人たちのことを調べた松浦武四郎、足尾鉱毒事件で農民たちとともに戦った田中正造、村長をやめて個人誌を発行した前田俊彦、沖縄で中学校教師をしながら石油基地反対運動に関わった安里清信、水俣病に苦しむ人々について『苦海浄土』を書いた西牟礼道子などを挙げます。

 

花崎さんは、民衆思想は必ずしも「思想」という容れ物(思想というレッテルを貼った「コップ」)に入っているわけではない、「バケツ」に入っていても思想というのは取り出すことができれば生きてくる、と述べます。

 

また、「バケツ」から取り出して思想にする「抽象化の作業」においては、「真理は芋を洗うが如し」と言うように、「反復を通じて偶有性が削ぎ落されて核芯が残る」のだと言います。

 

つまり、ある人の実践や行動が本人や他者により言語化され、それが何度も反復して言語化されていくうちに偶有性(本質的でない部分)が無くなっていって大切な部分だけが残る、ということです。

 

岐阜や愛知の被差別部落に伝わる民話をまとめた本に『部落に伝わる根っこ話』というものがあります。

人から人へと語り継がれるうちに葉っぱが落ち枝が取れ幹も無くなって根っこだけが残った話、という意味です。偶有的な「枝葉」が落ちて残った根っこに思想のエッセンスがある、ということだと述べます。

 

ディスカッションでは、この「反復」に関心を持った人もいました。

日々の「生活」という具体と、「思想」という抽象を何度も行ったり来たりする「反復」が大事だと思うと。

それに対して、「過去を振り返りながら、色んなことを考えながら日々を過ごしていくことで見えてくるものがある」と自分の体験から意見した人もいました。

一方、日々の忙しい生活の中で「抽象化の作業」をする余裕がないと言う人もいましたが、ステイホームの日々で何度か預かった近所の子どもが、障害のある自身の息子の言葉にならない声をしっかりと聴き取っていた姿を見て「反復」の重要さに気づいたと言っていました。

また、「なぜ生きているか」と悩むのは都会の人だけではないだろうか、生きていくために毎日自然を相手にしている田舎の人はそういうことを考えないのだろうか、という疑問から、「時間」や「環境」と「思索」の関係についても議論が波及しました。

 

また、本文中にあった「人と人、人と自然との間の約束を守らないということが人間の罪であるということに普遍的な共感を抱くところに『人間の尊厳』がある」といった表現に対し、「人間の尊厳」とはある個人の中にあるものではないか、共感と尊厳は結びつきづらい、「自分で決めること」こそが尊厳だと思っていた、という意見が出ました。

 

アイヌの思想については、「唯一絶対的な超越者がいない。自分を取り囲むすべての物に対して恥じない生き方をする。神道の考え方にも共通するものがある。思想と『神』に関する概念とは関係することが多いと思う」という意見もありました。

 

また、前述の前田俊彦さんの言葉で、

「百姓は米を作らず田を作る」

というものがありました。

 

ここから考えれば、「人」をつくるのではなく、「育つ場所」という田をつくればそこで育つのではないか、という意見が出ました。発言してくれたのは、訪問看護師さんでした。重症心身障害を抱える子どもと発達障害を抱える子ども、どうすれば一緒に育つことができるだろうかと考えたときに、「田」をつくることに専念して、そこでそれぞれの感性で育っていけばよいのではないかと思った、ということでした。

 

毎回、課題図書の内容に関係しながら、参加者それぞれのバックグランドや日々の生活に関連した様々な意見が出てきます。

 

次回の奇数回は、第2講「砂漠の中のオアシス -沖仲仕の哲学者ホッファーに学ぶ、生きる場で哲学するためのルール」から学びます。

 

その前の偶数回、第4回はマルティン・ハイデガーの『存在と時間』から。

第2回のイントロダクションを経て、いよいよ本編に入っていきます。

と言っても、最初は序論のみ。

ハイデガーがどのように「存在の問い」をたてたのか。

「存在」にアプローチするために、なぜ「現存在」(人間)からアプローチしようと考えたのか。

これらについて述べている部分を扱います。

 

『存在と時間』の日本語訳には複数ありますが、どの訳を読んでも最初はまったく意味がわかりません。

何度も何度も、色んな訳を繰り返し読む中で、少しずつ「ハイデガーの思想」が見えてきます。

「何言ってるかわからない」と言って放り投げてしまうのは簡単です。

でも、まさに「芋を洗う」ように、何度も何度も反復することで、きっと「真理」のかけらが現れてくるのだと思うのです。

 

次回第4回は明日6月2日(火) 10:30~12:00です。

 

 

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