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第2回みらいつくり読書会①報告

みらいつくり大学校企画
第2回みらいつくり読書会@zoom①記録
以下の議論の続きを「第2回みらいつくり読書会@zoom②」として行います。
2020/6/5 10:00〜11:00に行いますので、参加希望の方は事務局までご連絡ください。
事務局 みらいつくり研究所 松井
Eメール:matsui-ka@kjnet.onmicrosoft.com

【課題図書】
芥川龍之介『蜘蛛の糸』
【実施日時】
2020/5/29 10:00~11:00
【参加者】
A,B,C,D,E (全5名)

【内容】
ーそれぞれの感想ーーーーーーー
A:昔に絵本でも読んだことがあるような気がしています。蜘蛛の糸と聞いて思い出すのは、悪い人がいてお釈迦様が蜘蛛の糸をたらす、そして下の人に悪いことをして、自分も落ちてしまう。「悪いことをしたらダメなんだよ」という話だと思っていました。改めて読んでみると、極楽の描写が美しく描かれていると思いました。色や香りを豊かに書いていると感じたので、絵本にするのはもったいないと思っています。考えながら読んで想像しながら読むと楽しい本だからです。気になった箇所は、最後の「蓮はそんなことに頓着致しません」というところです。まるで蓮池の蓮は人のように描かれています。最後の部分はなくても物語は完結するような気がするけどしっかりと一段落を使って書いてあります。もう一つは最初の場面、お釈迦様が「ふと」と書いてある。お釈迦様って気分屋だと思いました。偶然見かけたから、救われるチャンスがあったということですよね。これがお釈迦様の宗教観なのだろうかと思いました。私の知っているキリスト教ではこういう風には書かれ得ないと思いました。
B:短くて読みやすかったです。昔読んだ時の印象と違っていたのは、蜘蛛の糸を登っている最中に、下から来る人を蹴っているような気がしていたんですよね。下から来た人たちを蹴った時にプツっと糸が切れると思っていたけれど、そうではなかったです。発言したことによって切れたということです。ここに、人間らしさが書いてあるのかもしれないと思いました。ぷつっと切れるのが人間を描いているんだなと思ったということです。極楽については、仏教でよく言われるので、極楽の記述についてはすんなり入ってきました。実際うちは仏教です。お釈迦様ではないけど、仏様と言う。こういう話をしていることが多いです。私の中にある、すーっと来て、ふっと見て、こうですね、ああですね、と諭して、我は関せずにまた消えていくというようなお釈迦様への印象は、本のままだと思いました。
C:僕はカラーゾフの兄弟に出てくるネギの話を思い出しました。一本のネギを困っている人にあげた、そうすると、死後に地獄に落ちるけれども、一本のネギが天国から垂らされて、それにしがみつくことで天国に行ける、という話です。全く同じ話ですよね。どちらが先なのか興味があって、一度調べたことがあったんです。でも、どちらが影響を受けたということではなかった、という結論だったような気がします。それにしても似過ぎている。普遍的な話なんだなと思いました。ですが仮説としては、共通のインスパイア元があるということは考えられます。どちらが参照したではなく、それぞれが同じものを読んで思いついたということです。そう考えると、新約聖書のラザロの話があります。貧乏人のラザロと金持ちの話です。二人ともが死んで、金持ちは地獄にいて、貧乏人のラザロはアブラハムの懐にいる。そこから、これらの話を着想することはあり得るよなと思います。仏教的に語ることと、キリスト教的に語ることの違いはあって、ドストエフスキーはギリシャ聖教ですがキリスト教だと言えると思います。Bさんが言っていたように、仏教のいう神観というのは、そもそも神はいないということです。唯物論ですよね。そして、残酷と言えば残酷で、最後のあっさりしたラストもそうだけど、この世を、天国を含めて、突き放すような、それらをもはや超越している世界観ですよね。私たちが喜怒哀楽したりカタルシスみたいなもの感じたりすることを、全て否定したのが釈迦だと僕は思っています。四苦八苦から解脱するんだということなので、私たちが感傷に浸る余韻すらないという感覚はあるのではないかと思います。その辺の仏教の世界観は、高畑勲の『かぐや姫の物語』を観た時にも、同じことを思いました。あれを観た時にも「仏教って怖いな」と思ったんです。本当に厳しくて容赦ないですよね。慈悲って仏教の言葉だけれど、無慈悲と言っても良いくらい救いようのない感じがあります。このお釈迦様の振る舞いからもそう感じました。
D:(画面共有をしながら)1回目はさらっと読んで「短いな」と思いました。2回目に線を引きながら読んでみました。Aくんが音とか匂いとかいわゆる感覚的なことの表現が芥川が上手だなんて話をしていたけれど、自分はそういう読み方はしないんだなと改めて感じてしまいました。なんて感覚的じゃない人間なんだと思いました。センター試験でやったような現代文の読み方ってありますよね。あれが染みついてしまっていて、どうしても構造的に読んでしまいました。あまり良くないと思うのですが。構造的に読んだ結果、最初に書いてある「池の中に咲いている蓮の花は〜」と、全く同じことが最後に書いてあるんですよね。だけど、最初は「極楽はちょうど朝」とあります。そして、最後は「極楽はもう午に近く」とあります。この構造を見た時に「怖い」と思ったんですよね。さっきAくんが言っていたお釈迦様が気分屋だったという感覚は僕も同じように捉えています。ここに描かれていることはたった数時間のことなんですよね。なおかつお釈迦様がずーっと立って横で見ていたという。かわいそうだ、と言っているけど、すぐにまた歩き始めるんですよね。もう一つ「うわー」と思ったのは、最初の方でお釈迦様が、犍陀多(カンダタ)を見た時に「思い出した」とあります。蜘蛛を殺さなかったことを思い出したということです。蜘蛛を助けたからではないですよね。下の方で動いている犍陀多を見て、そう言えばこいつ前に蜘蛛殺さなかったなと思って、救い出そうと思い立ったということですよね。とっても怖いなと思いました。Bさんも言っていたけど、たまたま見てもらって、たまたま助けてやろうと思われた。だけど結果うまくはいかなくて、叫んだ瞬間にプツリと切れるというのは衝撃的です。これが仏教でいうところのお釈迦様を的確にあらわしているかどうかは別の話なんだとは思います。キリスト教的な見方だと「常に見ている」ということがあります。誰もが常に見られているという感覚なので、見ていないから大丈夫、という感覚は無いと思います。でもこれは、たまたまお釈迦様が見たからこうなったというような感じだったので、その辺がゾッとする話だなと思って読みました。最後の「しかし極楽の蓮池の蓮は、少しもそんなことには頓着致しません。」と先ほどAくんが人格化と引用していましたが、その次の「ゆらゆら蕚(うてな)を動かして」とあります。蕚がわからなかったので調べたのですが、仏説で極楽往生したものが座る蓮の花の形をした台なんです。それを「ゆらゆら動かして」というのが、とっても気分的で、思いつきで、次はどいつにしようかな、というように感じました。犍陀多に糸を垂らしたけれど、「やっぱりね」というようにして糸が切れるというような、そんな感じがしました。
E:昔、教科書に載っていたと思います。そんなに読書が好きではなかったので多分読んだことあるというのはそういうことかと思います。すごく怖かったのを覚えています。糸一本で人生が変わってしまうことが怖いなと思いました。「おはなしのくに」というテレビ番組でやっていました。
D:Eさんも、主人公が下から来た人を蹴るイメージでしたか?
E:どうだったか覚えていません。
D:Aくんが言っていたように、必ずしも絵をつけることが良くないかもしれないですね。子どもに伝えるときも気をつけないといけないですね。

ー感想を重ねるーーーーーーー
A:それぞれの感想を聞いて、感想に対する感想はいかがですか?
B:宗教的な話にはなってしまいますが、仏教で怖いなと思うことがあるんです。私は日蓮宗なのですが、鬼子母神という神様がいます。昔、鬼が村の子どもをさらって食べていた、だけど、次は村の人たちが鬼の子どもをさらったんです。あまりにも鬼が村の子どもたちを食べるからです。そして、村人が鬼のたった一人の子どもをさらった時に、鬼が泣いて謝って、もうしませんとなって、神様になったということなんです。そこから子どもを守る神様になったということで、その日蓮宗の鬼子母神という、鬼の母の神様をまつるようになったんです。鬼が村の子どもを食うというのも残酷だなと思うし、自分の子どもがさらわれた時に申しませんと言って神様になるというのも、身勝手だなと思います。
A:今の話も怖い話ですね。
C:仏教はいろいろありますし、日本に来てからすごく変わっているので、論ずるのが難しいですよね。主語が大きくなり過ぎてしまうので。小乗仏教、日本で変異する前の仏教で言えば、仏教は突き詰めると唯物論になるのではないかと思っています。量子論や最先端の物理学を研究する人たちが「世界は仏教だ」と言うことがあります。量子は確率の世界です。因果の世界ではありません。「因果ではなく確立が全てを決める」というのが、量子論の描き出す世界だと思います。その量子論と仏教が似ているという人たちがいるんですよね。仏教はそういうところがあって、物だけを透徹して考えると仏教になるということがあるような気がするんです。お釈迦様が偶然見たというのはとっても量子論的ですよね。ビリヤードの玉のようです。ゆらゆらというのが、右に行くか左に行くかわからないということからもわかると思います。そこには良いも悪いもなくて、感情もなくて、ただそれが起こったそれだけ、というのは仏教的だと思いました。芥川なりの仏教観なんだと思います。芥川は『西方の人』でキリスト教についても書いています。なので、芥川はキリスト教にもある程度精通した上で、これが仏教の世界なんだと小説で表現したかったのかなと思います。羅生門も、真実なんて無い、真実の捉え方があるんだ、という話です。真理があるという前提を疑うということです。キリスト教的世界観に対する東洋的なものの見方を描くのが芥川は上手だと思います。だからこの作品は彼なりの仏教観の表明なのかなと思いました。
A:芥川は、美について神秘性をもっていたというイメージがあります。芸術というものを信じていたのかと思います。
D:よく見ると、救い出してやろうと考えた後に、蜘蛛の糸を差し出すところで、「幸いそばを見ますと」とあります。何て言うんでしょう、お釈迦様が助けようと思って、周りを見渡すとたまたま「おっ」とこれだと思ったのか、あるいは穿った見方をすると「これを使うと面白いな」と思ったのか。どう考えても切れますよね。お釈迦様ですら、それに意味があるかどうか有効かどうかもわからない、もし無効であると思ってやっているんだとしたら、さらに怖さが増しますよね。蜘蛛の糸でやってみてうまくいくのかどうか、糸が切れるかどうか、何人のったら切れるかどうか、あるいは犍陀多がそういう無慈悲な言葉を言ったら切れたとか、それらを見ているんだとしたら。それもお釈迦様が切ったのでもないとしたら…「お前はやっぱりそんなこと言うのか」となって切ったならわかるけれど、「言った時に切れたな」とお釈迦様が発見していたとしたら、さらに偶然の話なのかもしれませんね。
C:先程の絵本の話じゃないですが、蜘蛛の糸を、教訓めいた話として、勧善懲悪的な話として解釈することがあると思うんですよね。でもこれは、教訓めいた道徳をちょっとも大事にしていないと言うか、それを侮辱するような話ですよね。逆なんですよね、芥川は。僕はそう読みとっています。「良いことをしましょうね」を踏みにじると言うか、ちょっともうコケにしていると言うか、突き放していると言うか、「世界はそんなにエモーショナルな場所ではない」と、「ナイーブに勧善懲悪とか信じてんじゃねえよ」という感じがします。芥川は、これらによって、そんなことを皮肉っている、解体しようとしていると思います。
D:そうやって聞いていると、芥川をもっと読みたくなりますね。
A:最後に大正7年に書かれたとありますよね。調べると、スペイン風が流行り始めたころのようです。今とも重ねながら読むべきだとも思いました。カントの『実践理性批判』が邦訳された年でもあります。カントが日本に入ってきたころなのかと思うと、そんな世の中の雰囲気で、今の話の中の道徳を皮肉る、勧善懲悪を皮肉るということを、子ども向けに書くってすごいなと思いました。
D:これって子ども向けなんですか?
A:児童書ですよね。『赤い鳥』に載っているはずです。
D:それは怖いですね。先程の「そんなんじゃないよ」っていう風に書かれたと言われるとそう読めるような気がしてきました。
C:聖書の福音書の例え話も、僕らは道徳めいた話として捉えますよね。自分の道徳観をそこに読み込みがちですよね。最近、カトリックの神父が書いた本を読みました。聖書の中に、右の頬を叩かれたら左の頬を差し出す、という話があります。それを究極の博愛主義者のようにして僕たちは読んでいます。でも当時の文脈は逆だという話です。左手で何かをするというのはもうあり得ないことだったらしいです。つまり右手で叩いたことになる。右手で叩くと、普通は左頬に当たるはずです。だけど、右頬に当たっているということは、右手の甲で叩いているということになる。右手の甲で打つというのは、侮辱を表す行為だったようです。だからローマの法律で、主人が甲で奴隷を打ったとしても訴えられてしまうことがあったようです。つまりひどいことだったということです。つまり、左頬を出すということは「俺を人間として扱え」ということになる。つまり「あなたは私と同じくらいの、対等の土俵にいるんだ」という記号になります。左頬を差し出すのは「俺は人間だぜ」と言ってやれという意味だと書いてありました。もちろん諸説あるのだと思いますが、ここから僕が思ったのは、聖書の話って、当時の文脈でわからなくなっていることはあるけれど、僕たちが勝手に、道徳とか僕らがあらかじめ持った道徳、勧善懲悪観といったものに引っ張られているところがあると思います。この『蜘蛛の糸』はその典型だと思います。僕らは「良いことしましょうね」とこの本を読みます。でも芥川はそれを逆手にとって、こういうものを嘲笑する立場で書いているのではないでしょうか。そういう芥川の意地悪さみたいなものを感じます。
A:犍陀多の無慈悲な心とあります。心が問題だと書いてあります。私も心が大事だと思いがちです。でも心だけではなく、行為も大切ですよね。そしてここには「心が」と書いてあるんだけれど、もっと広い目で見ると、お釈迦様の気分次第だっていう構造になっている、確かにそんな道徳を皮肉っているのではないかと思いました。
D:お釈迦様の気分ですらないということですよね。蜘蛛の糸を垂らしたのはお釈迦様の気分だったけれど、それがどこで切れるかというのにお釈迦様の観念が介入したようには見えないです。お釈迦様は「悲しそうな御顔」とあります。救おうとしたけれど、やっぱりダメだと思って自分で切ったということではなく、見ていたけれど切れちゃって「そういうことか」と思って、またぶらぶらと歩きます。僕にはまた違うターゲットを見つけて歩き出しているように読めました。
C:僕は、高畑勲の『かぐや姫の物語』をみた時に「ホラー映画だ」と思ったんです。とっても怖いんです。月に連れて行くんですが、その使いたちの顔がめちゃくちゃ怖いんです。全ての私たちの悲喜交交を嘲笑うかのようにしている。超越しちゃっている。まさにこのお釈迦様のようなんです。仏教ってこういう厳しさが本来あるんだよな、と思ったんです。それが親鸞になるとキリスト教に近付いてきますよね。親鸞の前の仏教って、本当にこういう徹底した無情感があります。もう一つ思い出したのは、松本人志の『シンボル』という映画です。あれは松本人志の神観の話だと思っています。ある日、白い部屋にパジャマのまま自分がいる。そして壁にある何かわからないものを押すと、壁から何かが出てくる。あるときはお寿司が出てくる。次は醤油かなと思ったらソースが出てくる。ずーっと続くのですが、一つ言えるのは、何をしたら何が出てくるという法則が何も無いんです。それで彼は気が狂いそうになるんだけど、最後ラスト5分で話が変わります。白い部屋は超越空間を表しています。つまり白い部屋はこの世界とは違う場所なのですが、彼が押したスイッチが、この現実世界で何かを起こしているということが明らかにされていきます。彼がスイッチを押したことで、現実世界では、あるレスラーの骨折した首が治ったりする。でも押したスイッチによって、スターリンが現れたりもする。冷戦の終結にもなる。現代史を変えていくということになる。最後の最後、ラストシーンで、超越空間のさらに超越空間に行きます。そこに巨大なスイッチがある。巨大なシンボルがある。それを押すぞという所でエンドロールになります。何かというと、神はこういうものだという松本人志なりの世界への宣言だと思います。「この世界は統一された神が支配している」と西洋の人なら思いたいのですがそうじゃ無い、パジャマを着たおっさんがシンボルを押している結果が、世界に起きているんだということです。世界は偶然の連鎖であると。それはとっても仏教的ですよね。
D:もう少し芥川のそういう感じを扱いたいですね。同じくらいの長さはないでしょうかね。
C:『藪の中』は黒澤が『羅生門』というタイトルで映画化していますよね。小説は『藪の中』ですよね。黒澤は二つを合わせたんでしたっけ?真実がわからないというのは『藪の中』ですね。
D:『羅生門』は若干長いですよね。『蜘蛛の糸』に比べると。『蜘蛛の糸』とセットで『杜子春』がありますよね。これはそんなに長くなさそうですよね。同じテーマでしょうか。
A:やはり『杜子春』も児童向けのようですね。
D:そうなんだ。
B:えー。
C:本当だ。
D:次は『杜子春』にしましょうか。
A:仏教を皮肉るということなのでしょうか。
C:仏教の定義にもよりますよね。大乗仏教以降は道徳性も社会規範も出てきますよね。でも釈迦はそれらを否定しています。世界を突き放す生き方をしたと認識しています。芥川は本来の仏教はこういうものだと言いたかったのかもしれないですよね。日本のセンチメンタルな仏教を皮肉りたかったのかもしれないと思います。
D:禅宗はさらに唯物論的だと思います。でもこの物語は禅宗的ではないですよね。やはり児童向けの芥川を読んでみたいですね。
A:仏教とすると言葉が広いので、仏教ではなく、徹底した法則の無さや無情を、杜子春でどうやって書こうとしているのかを読みましょうか。
D:『蜘蛛の糸』でこんなに広がると思いませんでした。
C:芥川は面白いですよね。「お前らどうせこう思っているだろうけど、自分は違う角度から書いているんだぜ」っていうか、思い込んでいる人たちを嘲笑うっていう感じがあります。『藪の中』もそうですよね。人の思い込みを嘲笑う趣味がある気がします。
A:高校の時の現代国語の授業で、芥川の凄さを語っている先生がいました。芥川は「弟子にしてください」と文系の頭のいい若者が来た時に「君は数学ができるか」と尋ねたと言っていました。そして追っ払ったと。数学ができないと小説は書けないと。私は「数学がんばりなさい」と国語の時間に教わりました。
D:それは構造的に作っているということですよね。
A:そうだと思います。
D:芥川はキリスト教的な作品も書いているんですね。
C:僕が知っているのは『西方の人』ですね。
D:『煙草と悪魔』というのも、キリスト教関係のようですね。他にもありそうです。「芥川とキリスト教」という論文を書いている人もいますね。そっちの観点で見ても面白いですね。
A:仏教を皮肉っているとしたら、キリスト教を皮肉っている可能性はありますよね。
D:『杜子春』にしますか、それともキリスト教関係にしますか?
A:今Wikipediaを見ると、『蜘蛛の糸』と同じように『赤い鳥』に載っている『犬と笛』は神道っぽい話ですね。
D:確かにそうですね。同じ児童書で『犬と笛』にしますか。そしてまだ芥川熱が覚めていなかったら、キリスト教関係に行ったらいいかもしれないですね。
A:次回は6月5日(金)同じ時間にお願いします。

ー再読のための問いーーーーーーー
「芥川は『犬と笛』で、『蜘蛛の糸』に書かれているような無慈悲や法則の無さ、徹底した無情をどのようにあらわしているのだろう。」