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第1回みらいつくり読書会①記録

2020/5/8に行いました「第1回みらいつくり読書会①」の記録を公開します。
以下議論の続きを、②として2020/5/15 10:00~11:00に行いますので、参加希望の方は、事務局までご連絡ください、
事務局 みらいつくり研究所 松井
Eメール:matsui-ka@kjnet.onmicrosoft.com

【課題図書】
梶井基次郎『檸檬』

【実施日時】
2020/5/8 10:00~11:00

【参加者】
A,B,C,D,E,F

【内容】(※語尾を中心に編集しています)
ー〈それぞれの感想〉ーーーーーー
A:高校生の時に読んで以来好きな小説の一つです。当時、自分の心の中にある葛藤、言葉に表せないような憂鬱が書かれていると思って嬉しかった記憶があります。今でも心の中にあるような気がする葛藤、モヤモヤのようなものを感じながら読みました。
B:モノローグで進みつつ、妄想が加わっていくような流れでした。所々で身体性と想像の世界とを行ったり来たりしているところが面白いなと思いました。
C:明るくユーモアが描かれている作品。最後ユーモアで終わるので気持ちが明るくなりました。
D:思い出したいくつかの映画と共通するのは、この世界を破壊したいという「破壊願望」です。破壊願望を抱えた被抑圧階級の人たちが、その怒りを、いわばテロの形によって爆発させています。
E:基本的に精神状態は高揚していきますが、危うさがあります。ユーモアがあって回復したというよりは、鬱状態から極まって躁状態になって終わるというように読みました。闇を抱えたままの終わり方だと思いました。「二重写し」と「矛盾」がキーワードだと思いました。「Aを見ながらBを思う」という「二重写し」。現実と妄想を重ね合わせていることが、身体の弱まりを表しているのかと思いました。「矛盾」は、みすぼらしいけど美しいといったことです。最後の一行で妄想世界が現実世界に転化されているのではないか、と考えました。
F:文章全体を通して、詩的な文章だと思いました。でも、檻のように心に溜まっているものは何なんだろうとまだ言語化できていません。つまりこれは「重さ」なんだなと思う文章がありました。心理的な重みのようなものを感じ、最初に出てくる「得体の知れない不吉な塊」と繋がっているのかなと思いました。
ー〈感想を重ねる〉ーーーーーー
E:病気という「身体性」と、醒めた「自意識」について気になっています。身体の調子が悪い自分のことを上空から眺めているような視点があります。その乖離が面白いと思いました。最後は無駄が削ぎ落とされているような文体に変化していました。
D:前半に「びいどろ」とあり、後半には「檸檬」が出てきます。びいどろのおはじきと、檸檬が、彼にとっては同じものなのではないかと思いました。それぞれが熱を放散させています。主人公は最後に自分の破壊願望を檸檬に託します。いわゆる「冷たい固体」を通して、自分の中の熱を逃すというか、そういうモチーフが繰り返されるのが印象的でした。また、檸檬は元々日本にはなかったものです。びいどろも外来のものです。一方で街は京都。日本的なるものと、外来のものの対比が面白かったです。そして自分の熱を逃すのは、外来のものでした。
E:そうすると「丸善」は外来のものでしょうか。
D:「丸善」が何の象徴なのかは大切ですね。僕は資本主義というシステムのことかと考えました。
E:「近代知識人主義」みたいなものかもしれませんね。「教養主義」というか。
F:今自分が「貧困」な状況にあることに対比されて、「富」の象徴かもしれませんね。
E:「丸善」はキーワードでしょう。丸善だけが「かつては好きだった」ものとしてあります。
C:主人公は身体がつらくて、鬱々として負の感情がいっぱいある。たった一つの檸檬を持つことで、気持ちが前向きに変わったり、最近行けていなかった丸善に行こうとしたりしています。そして最後本を読んだけど、やっぱりつまらないと思って檸檬を置いて出ました。その時に「爆発したら面白いのに」とユーモアを思います。人間は鬱々した感情とか、身体が辛かったとしても、たった一つで変わるんだということを表現しているのかなと思いました。たまたま主人公にとっては檸檬だったけれど、不安な感情とか鬱々とした感情を持っていない人はいません。自分にとっての檸檬って何だろうと思って読みました。落ち着かない時に持つもの、必要なユーモアって何だろうと思いました。
B:丸善が資本主義システムかどうかはわからないけれど、丸善と果物屋、かつて自分がいた世界と今の自分がいる世界、それらを二項対立させて考えてみると楽しいかなと思いました。檸檬自体は、丸善側にあったものです。でも今では八百屋に置いてある。今、自分は買い物を果物屋や八百屋でしかできません。そこで買った檸檬、かつて丸善側にあった檸檬を手にして、丸善側の象徴としての美術本の上にあえて置いて、それが爆発すると考える。活動写真は洗練されてはいないだろうと思います。洗練されているものとそうでないものの二項対立を唯一媒介した「檸檬」と考えるのは飛躍しすぎているでしょうか。
A:高村光太郎のレモン哀歌には「トパアズいろの香気」とあります。病気の妻が生きていることをその香気が思い返させる、というような詩です。檸檬はとっても酸っぱくて刺激的で、身体性に関わる果物だと思います。二項対立を媒介しているのが檸檬だということかなと思いました。
E:かつて自分が好きだった世界と、今好きな平凡な街並み。そのかつて好きだったものの上に檸檬を置くっていうのは、自分がかつて憧れていた西洋近代、教養主義の上に、身体性のものを置くと読めないでしょうか。
B:主人公は「丸善」ではない方を好きなのでしょうか。僕は逆だと思います。そちらへの憧れを捨てられないまま自分は別な方に居ざるを得ない。だから自分が憧れている、手に入れたかったものを、あえて破壊するのだと思います。実際には破壊していませんが、憧れを捨て去ったかのように捉えることのできる行為をして、そのまま去っていく。
E:「なぜ丸善か」ということです。もう嫌いだったら行かなくていいのに、檸檬を持ってテンションが上がったら行くのなら、まだ未練があったのだと思います。
B:未練というか、強がっている人のモノローグに見えました。「心惹かれないですよ」と言いながらそうではないと思います。
F:この文章全体で色にこだわっているのかなと思います。過去、まだ自分に余裕があったときの世界は色彩に溢れています。現在、貧しい生活に陥った時には、一切色がありません。何となく手にした「レモンエロウ」だけが、白黒の中に唯一際立って見えるものとして彼の手の中にあります。丸善の世界にごちゃごちゃに積み重なった美術書、きっと彼の中にはグレーのように入り乱れている色の上に「レモンエロウ」を置いてきたという、その色による自分の意思表示がある、そんな感じがしました。
E:檸檬のことを「レモンエロウを出したような」とあるのが不思議だと思いました。檸檬だから、檸檬色に決まっているのに。檸檬の描写がくわしくあります。重さ、匂い、五感で書いてある。でも、最後には「黄金色」と飛躍した妄想世界が描かれています。黄金色の爆弾がくると。具体性と飛躍が面白いと思いました。
B:昨日たまたまハイデガーの関連本、現代思想の特集を読みました。その中にハイデガーと梶井基次郎を比較している論文がありました。「『器楽的幻覚』から『哲学的幻想』へ」。ハイデガーと梶井基次郎が活躍した時代はほぼ一緒です。『器楽的幻覚』では、檸檬と対照的に、音にフォーカスしています。西洋から来たオーケストラの音を主人公は音楽館で聞いているけれど、その前に日本的な雅楽を聞いているシーンがある。それは先ほど言っていたような、西洋近代的なものと日本土着のものの間に置かれて、想像力を使って何かを構想するということです。場合によってはそれが幻想だったり幻覚だったりする。それが梶井基次郎の文学の特徴で、その根底にあるのが、西洋近代的なものの裏側にある、近代性や合理性では説明しきれない「存在不安」であると。「存在不安」が感覚を通して書かれているとこの論文にはあって、なるほどなと思いました。ハイデガーの言った根本概念「世界」「孤独」「有限性」。確かに梶井基次郎も近い言葉を使っています。梶井基次郎はハイデガーのことを知らなかっただろうけど、同時代的にパラレルに同じ様なことを扱っていたのではないかと書いてありました。
ー〈問いに向かう議論〉ーーーーーー
A:キーワードになりそうなのは、「二項対立」、そして「それを媒介しているもの」でしょうか。
E:二項対立を重ねると面白そうですよね。縦軸と横軸に。幻想世界と身体性、日本的なものと西欧世界と。二項対立が二つあります。
B:四象限にするということですね。
D:私は「救済」が、描かれているのではないかと思います。救済のあり方についてです。破壊というのはその一つです。破壊願望は、先ほど言った映画にも描かれています。客観的には救済ではありませんが、主観的には救済の一つだと思いました。二つの二項対立で言うと、日本的なる京都の風景みたいなものは、美しいのですが、どこかで閉塞感がある。丸善という外来のものにも、彼は救いを見いだせていない。身体性はいうと絶望的なわけです。最後に救済として「破壊」と「ユーモア」が著されています。Cさんが「ユーモア」と話していたけれど、一つ類の破壊願望ってどこかユーモラスです。そういうことを何か妄想していること自体がユーモラス。スガシカオの歌詞もそんなことが多い。また、又吉直樹が檸檬を好きだという話があります。又吉直樹のギャグってこういう世界観です。太宰とか梶井基次郎の世界観のギャグ。演じる人の内面は相当イカれているが、そういったことを笑うと言う構造になっています。破壊願望としての救済でありながら、ユーモアの救済を見出そうとしていると言うか、一つの救済の形として、「破壊」と「ユーモア」がここにあると思います。
F:シュールな笑いですよね。
D:シュールですよね。だから、この世の中にも自分の将来にも希望が持てない時に、最後に逃げ込む場所としてシュールなユーモアがあると思います。自分を笑うしかないというユーモアです。
E:四象限の縦軸のうち、上の方に、幻想世界、破壊、ユーモアが入ってきますね。最後の一行が気になります。想像の世界だけではなく、現実の世界に降りてきたという様な書き方なのでしょうか。「活動写真」は現実世界に戻ってくるという発想なのでしょうか。
B:写真自体が幻想だと思います。映画は幻想です。幻覚を表現したものです。それを看板にしています。他の人が書いた様な絵。映画という幻想を、誰かの絵という身体性を通して、看板にする。看板としていろいろな形に表されています。それもユーモアです。そんな街に戻っていく、そうせざるを得ないです。相変わらず友人の家を泊まり歩くし、相変わらず病気は治っていないし、お金はないから。
E:これは一種の回想小説ですよね。「その頃の」ともある。過去を語っています。ユーモアで救われたならば『檸檬』を語っている時点の私は、すでに救われているのでしょうか。
B:これで終わりではないところも面白さだと思います。「また見にいくのかな」とか。爆破されているか確認しに行くのか、さらにもう一つ檸檬を持っていくのか。もちろん世界は元に戻っているだろうし、何も変わっていないですけど。この後この人どうするのかなと思いました。
D:又吉さんはエッセイに、「『檸檬』を読んでから実際にやった」と書いていました。缶コーヒーかなんかを団地に置いて、爆発すると思い込む。二時間くらいすると脂汗が出てきて、世間は大変なことになっているのではないかと自分の嘘に騙される。そんな遊びをしていたと書いてありました。多分、これもある種の救いのあり方なのではないかと思います。彼も生きづらさを笑いに変えてきた人だと思いますから。
B:子どもの頃ってこんなことをして遊びますよね。「これは別なものってことにしよう」ってルールを決めて、お互いそのルールの中で楽しむといったような。子どもながらの純粋さ、それがある主人公の世界と、それを排除する丸善に象徴されるような洗練された世界という対比があるのかもしれません。子供と大人と言ったような対比です。
E:子供というと、好きなもの中に、南京玉とか書かれていますよね。
ー〈問いに迫る議論〉ーーーーーー
E:「不安から始まってユーモアにたどり着く、その媒介点としての檸檬の意味とは」とかどうでしょうか。「不安からユーモアへの転換を可能にした檸檬の意味とは」とか。
D:ある種の二重構造が見えてきますよね。主人公にとっては、檸檬が、自分の中の怒りとか熱を逃すための媒介物です。そして、小説とはそもそもそういうものですよね。この現実世界の不安とかから、一瞬忘れさせてくれるものが、小説とか、活劇とかでしょう。そういう入れ子構造になっていると思います。「『檸檬』という小説」は、あなたにとって「檸檬」なんですよと。そんな話でもあると思いました。
E:不安な主人公が檸檬を通して救われた、それを読んだ私たちが救われたというようなことですね。
A:「不安からユーモアへの転換を可能にした檸檬の意味とは何か」「なぜ檸檬が転換を可能にしたのか」でしょうか。「なぜ檸檬が可能にしたのか」という問いだと、「近代と身体を媒介するものとして檸檬があった」という議論になります。先程の議論に出てきた二項対立が生きてくるように思います。
B:二項対立が重なっていることをなんと言いますか。マトリクス構造で良いでしょうか。日本的と西欧近代、身体性と幻想というマトリクス構造があります。そして、その下には不安があります。存在不安みたいなものです。その存在不安の上に乗っかっているマトリクス構造を、全体として破壊するのが、ユーモアなんだと思いました。そもそも、その構造自体を無くす、破壊するものとして檸檬があったのではないでしょうか。
D:ユーモアはある種の破壊ですよね。
E:問いの立て方自体を壊しているということですね。
B:ルールを変えることによる笑いですよね。そうやって考えると、檸檬はマトリクス構造のど真ん中にくるはずです。
E:不安をなくすためには、不安と同じレベルの問いや答えではだめです。その不安の前提を壊さないとダメだから、それが檸檬だったということです。
B:それを一言でまとめられないでしょうか。
A:そんな続きの議論を次回できたらいいと思います
F:「なぜみかんじゃなくて、りんごじゃなくて、檸檬なのか。」はどうですか。
E:芥川は蜜柑を書いていますよね。汽車の中の話。救われる話。芥川にとっては蜜柑だった。
D:現代に引きつけるのも面白いですよね。読書会の趣旨と合っているのかわからないけれど。『檸檬』の百年後の今、現代もこの問いはあまり変わっていません。当時が「日本的なもの」対「西洋外来的なもの」だったとしたら、現代は「グローバリズム」対「ローカルなもの」という対立に変わっていると思います。私は現代の行き詰まりはそこにあると思っています。ならば、現代の檸檬は何かと問うのはどうでしょう。
B:「コロナウイルスです」と名乗ることも、破壊願望のメタファーになり得ます。自分は致死的なウイルスにかかっていて、密なところに行って「うつりました」「うつりました」と言うことだってあり得ると思います。破壊願望を満たすものになり得ます。
F:そういう妄想をしている人はいそうですね。
B:実際に感染していてやった人もいたはずです。赤木智弘が書いた「『丸山眞男』をひっぱたきたい」という論文がありますよね。戦前の知的な階層の人たちを丸山真男に重ねて、フリーターである自分の状況を根底から覆すような戦争が起これば、二項対立そのものがなくなる、という論文。今の状況をそう捉えている人もいるかもしれませんね。その人の暮らしぶりによっては。
E:二項対立ですが、「みすぼらしくて美しい」とあるので、二項対立と一緒に、矛盾も描かれていますよね。二項対立だけではないのかもしれません。
ー〈再読のための問い〉ーーーーーー
「日本←→西欧近代、身体←→幻想というマトリクス構造とその前提にある不安、それら全てを破壊するユーモアとして、なぜ檸檬が用いられているのだろうか。」
以上