みらいつくり大学校企画
第0回みらいつくり読書会
【課題図書】
カフカ『変身』
「世界文学大系58 カフカ」筑摩書房
1960(昭和35)年4月10日発行
【実施日時】
①2020/4/26 10:00~11:00
②2020/5/1 10:00~11:00
【参加者】
A,B,C,D,E,F,G (計7名)
【①における議論】
A:ひたすら気持ち悪い。後半開けてくる感じがある。
B:中途障害について考えながら読んだ。不条理さについて。最後に語り手が変わるのが面白い。本人が死んで、残った人たちが未来が見えてきたような話。何とも言えない不気味さ。語り手の人生が終わったけど、周りの人は続いていくような。
C:いろいろな方向から考えられる本だと思った。愛する人が、自分の許容範囲のもので無くなってしまったら、と考えた。
D:身体の感覚と精神の感覚がズレているように思った。(物語が進むにつれて)心が身体に寄っていく様に感じた。死が描かれる時に、誰が語っているんだろうとなる。
E:虫の描写が鮮烈にあるにもかかわらず、日常のことばかりが描かれる。
B:本人の死と家族から見た死。ズレている。個人の死と、社会的な死について。人が死んだ後に社会的な死がくる場合もあるし逆の場合もある。
B:主観で書く?客観で書く?
E:第三者が見たように客観的に書く。客観的に書くと記事に体温が感じられないことが多い。やはり主観で、私はこう思うと言うように自分の立場をきちんと示して書いたほうが、思いがあるので、そこで体温のある文章に繋がる。客観は冷静に分析する上で大切なんですけど、一方で逃げられるというか。自分が責められない立場から安全なところから論ずることができる。主観で語ることには責任が生じる。「それは違うだろ」ってもろに自分が受け止めなくてはいけない。主観で書く覚悟が必要。
B:医者も同じようなところあって。私はこう思いますというより、〜とされています、〜と言われていますね、とか、医学界みたいなものを主語に立てて、こう言っていますのように半ば逃げているときあります。
E:そういう大きな主語を使う時ってずるくできる。
D:私は客観はあり得ないと思っています。完全な主観もないのかもしれないけれど。割合の問題なんだろうけれど。責任を個人い還元する事ができないのではないかというのも私の考えている事です。
A:「誰が」と言い切れない部分ってある。でも人間は「誰が」が好きだから。そこを見えるようにすることは、人間の欲求を満たすのかもしれない。でも本質的な解決には至っていないというのを感じます。家具を片付けるという行動に注目した。本当にそれはグレゴールが求めていたのか、わからない。グレゴールはしがみつく。妹は困っている人を助けたいと思っている。そしてする行動がグレゴールを追い詰めていくことにつながっていく。そこに妹の責任はあるのではないかと思う。教師としても、生徒にしていることは、求められているのか、追い詰めているのではないか、そう思うこともあります。
C:私が家族に対して良かれと思ってやっていることも実は家族にとっては違ったりすることもあるのかもしれない。
D:グレゴールは一人で働いていた。家族を養っていた。役に立っていることが嬉しかったと。グレゴールの目線から見たケアの矢印も、この中には描かれているのではないか。ケアを媒介にして、グレゴールと妹の関係に焦点を当てて変化を見てみる。
A:グレゴールの不自由さはだんだん減っていく。そして妹のケアは増えていく。そして死に至る。妹のケアが死につながっているのではないかと思う。そして家族はハッピーになる。
B:ケア関係そのものではないよね。少しは関係もしているけれど。関係性の変化にフォーカスして読むよりは、関係性がある、そこでそれぞれの主観がどのように変わっていくのかということの方が面白いような気がする。
E:不条理との向き合い方が変化しているのでは。
【問い】
「グレゴールとグレーテの不条理に対する反応は、どのように変化しているのだろうか。」
【②における議論】
C:グレゴールは最後には音楽を楽しむ虫になっていたように思う。妹が力を身につけていく。二人はそうやって変化していったと読んだ。
D:注目したのは、りんごの爆撃を受けた後のシーン。私は最後まで自己中心も他者への気遣いも残ったままであると読んだ。例えば、引き受けてやろうと思いながら、大きな怒りを感じている。気遣いをしながら大きな怒りをもつという大きな矛盾を抱えている状態が、グレゴールの死という不条理に対する態度だったのではないかと思った。最後死ぬシーンで、身体が動かなくなったことを心で感じる描写がある。身体と心の感覚が一致してきているということかもしれない。近づいてはきたが一致はしきっていない。死ぬ直前に書いてあるのは「空虚な満ち足りた状態」とある。死に向かっていく彼の状態は大きな矛盾を抱えていた。そう読みました。
B:徐々に身体に慣れていって、なおかつ自分を客観的に見つめていく。でも単純ではない。受け入れつつ受け入れられない、そのような描写がある。最後には顧慮という言葉が出てくる。他の人間存在に対する配慮。他の人に対する顧慮が自分のプライド。でも妹は自分を家畜のように扱う。グレゴールは信頼や期待を寄せるが、妹はそうではない。私はCさんがいうように妹がだんだん成長していくというようには読まなかった。贖罪的に甲斐甲斐しく兄の面倒を見ている。でも実際は家畜のように扱っている。亡くなった後の方がすっとしている。最後は両親目線になる。「明るい夢と善意とを裏書き」とある。その転換は興味深いと思った。
F:『変身』という作品がのちに様々なものに影響を与えていることに興味がある。村上春樹の作品もカフカ的であると言われる。カフカの『城』という作品がある。これも不条理の話。『城』という作品と『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』はよく似ている。人気な解釈は、『城』は近代を動かすシステムであるという捉え方。村上春樹はシステムを批判したいと言った。『変身』は、形を変えて繰り返されている物語である。何かあるということ。それは言葉にすると「不条理」だと思う。人生で本質的なものは、不条理にどう反応するかで決まると思う。『変身』の秀逸なところは、問いにもあるように、グレゴールと家族の不条理に対する反応が対照的に描かれているところにある。唯一、不条理と共存しようとしているのはグレゴール。正常性バイアスは脳が強引に正常であると取り戻そうとする働きのこと。タイタニック号が沈む船の上で椅子を整理していた人たちがいるという記録がある。異常な状態の中で正常を取り戻そうとするけれど、全体が異常なのでその行為には意味がない。グレーテと家族の反応はそれに似ている。異常な状態に正常を取り戻そうとする。そんなバイアスを働かせて異常に反応している。それは不条理の排除につながる。グレゴールは当事者であるが故に、不条理と共存することを学ばざるを得なかった。両親の視点に行くのは、両親の視点に社会の真っ当な人間たちを代弁させているように思う。やっと希望が見えたというのは、僕には絶望にも見える。そういう皮肉を最後に言っているのかと思う。唯一グレゴールが正常で、この世界が異常だった。グレゴールはそれを世界に唯一知らせる存在だったのに、それを排除したときに世界に平和がきたという異常な世界の住人が「自分たちは正常なんだ」と呟いて終わる、アイロニックな結末なんだと思った。
B:『変身』におけるシステムというのは、いわゆる日常性のことだろうか。
F:『変身』でシステムとしてメインに描かれているのは家族ではないかと思う。高齢者の介護は「この人が死ねば」と思っていたりする。そんな気持ちが一ミリもないというのは嘘になる。あとは引きこもりなどにも言えるかもしれない。グレゴールの姿そのものだろう。現代にも読まれ続けることの意味はよくわかる。
G:介護をしているときに、介護されている人が亡くなって、解放されるような感覚とか、それは患者さんに関わる場面にも、ゼロではないよなと思う。本質的な問題なんだと思う。それを自分たちがどれくらい認めているのかというのは個々に差はあると思うけど。いろいろな人たちにつながる本質的な話なんだと思う。
B:正常性バイアスで言うと、逆のことがグリーフ当事者研究で言われたりする。介護を受ける人が亡くなって悲しみに暮れて食欲も出ない、と言うのは想像できる話なんだけど、逆だと言う。心は悲しみに暮れているけれど、介護するのが無くなっているから逆に食べすぎて太ると。自分としては悲しみの中に沈んでいたい、これをこそ日常にしたいと思うような気持ちがあって、それでも身体は食べ物を欲すると言う。正常性バイアスはコロナ関連のことも言われているよね。一週間二週間頑張れば、元の正常に戻ると言う人と、そうではなく新しい秩序に変わるんだって言う人がいる。その人によって問うことが全然違う。
D:変身の中で、私はどこに立っているのかと思う。不条理に対してどう立つのかと言ったような、どこに立つのかが問われているなと思った。
G:不条理とともに生きる、不条理を内包して生きることがテーマなんですね。シンパシーというか自分の中でも大切な表現だと思った。
B:中途障害の人がどう読むのかが気になりますね。「べてる」で言うと、精神疾患になった人たちが、自分は異常だと思っていないけれど、周りの人たちがむしろおかしいと思ったりする。
F:不条理って、近代的秩序の副産物なんだと思う。近代的秩序という背景がないと不条理って見えてこない。前近代って社会全体が不条理。社会全体がいわば不条理だったのが、近代的秩序、啓蒙主義というものが秩序や合理性で塗り固めていったときにそれでも残ってくる合理性では説明のつかないものが世の中にはあって、それを近代が勝手に不条理と呼び始めたということがあるんだと思う。言葉では表現できないもの、人間の理性ではコントロールできないもの、最たるものはウイルスとかだと思う。予想できないということが証明されている。自然を相手にしているから。人間はそれでも合理性で塗り固めようとしたいけれども、こういうものと共存していく知恵というものが近代を抜けていくためには、獲得しなくてはいけないものだと思う。
B:今の2020年に、近代的システムがもっと世界全体に行き渡っている世界において、全世界の人が不条理と思えるような課題を一時的に共有している。すべての人が当事者である今ののちに、カフカやカミュのような書き手のような人たちがどういう風にこれを書くのか興味があるところですね。いのちって生命とか人生とか生活とかいろいろな意味があるけど、今まさにすべての人にとっての生活における差し迫りを感じている人は誰もいなくて、さらに生命の差し迫りを感じ、就職がダメになると言ったような人生への差し迫りもあるから。いのちの差し迫りからの学びがどのように発動していくのかというのにとっても興味がある。今までは急に障害者になったとか、急に障害者の家族になったとか、ということからの学びって言うのが発動しているし、そこからの学びって必ずあると思うんだけど。それが文学としてどう描かれるのか、それぞれがどう書くのかって言うのは関心あるなと思います。
D:この変身において時間軸も淡々と描かれているなと思った。自分が老いていくと言うような。何を悩むかによらず時間は流れていくことも描かれていると思った。時間という視点も読んでみると面白いと思いました。