2020年7月14日(火) 10:30~12:00で、第10回となる「みらいつくり哲学学校オンライン」を開催しました。
偶数回はマルティン・ハイデガーの『存在と時間』を課題図書にしています。
今回は第1部第1篇第4章「共存在および自己存在としての世界内存在 『世人』」でした。
課題図書に用いている原佑・渡邊二郎訳、中公クラシックス版『存在と時間』は全3巻となっており、今回の第4章で第Ⅰ分冊が終わります。
第2章で「現存在は世界内存在である」という主張がなされ、前回の第3章では「世界」についての分析がなされました。
今回の第4章では、「世界内存在としての現存在」に関して、「日常性において現存在であるのは誰であるのか」ということが分析されます。
この「誰か」を考える上で、ハイデガーは「自我とは何か」を考える必要があると言います。
それに加えて「他者とは何か」を合わせて考える必要があるとも言います。
デカルトやフッサールなどと異なり、ハイデガーは
「世界なしのたんなる主観というものが、差しあたっては『存在している』のではない」
「孤立的自我というものが多くの他者たちなしで与えられているのではない」
と言います。
つまり、「現存在」が存在するとき、そのつどすでに他の「共現存在」が存在しているのだと。
このように、他者と「ともに」存在しているという現存在の在り方を、「共存在」とハイデガーは呼びます。
世界の内において、現存在が現存在ではない存在者(つまり「モノ」)に関わるときの在り方を、「配慮的気遣い」とハイデガーは名づけていました。
ここでは、現存在が共現存在に関わるときの在り方を、「顧慮的気遣い」と名づけます。
突如としてここでハイデガーは、「顧慮的な気遣いの二つの極端な可能性」というものを挙げます。
①支配する顧慮的気遣い
・特定の他者から「気遣い」を奪取して、その他者に代わって配慮的な気遣いのうちに身を置き、その他者のために尽力する
・配慮的に気遣われるべき当のことをその他者に代わって引き受ける
・その他者はそのさいおのれの場面から追い出され、身を退くことによって、その結果、配慮的に気遣われたものを、意のままになるように仕上げられたものとして後で受け取る or 配慮的に気遣われたものからまったくまぬがれる
・そうした顧慮的な気遣いにおいてはその他者は、依存的で支配をうける人になる
・この支配は暗黙のうちのものであって、支配を受ける人には秘匿されたままのこともある
・尽力して「気遣い」を奪取してやるこうした顧慮的な気遣いは、相互共存在を広範囲にわたって規定しており、たいてい道具的存在者の配慮的な気遣いに関係している
②解放する顧慮的気遣い
・特定の他者が実存的に存在しうるというあり方の点でその他者に手本を示すような顧慮的な気遣い
・その他者に「気遣い」を気遣いとしてまず本来的に返してやる
・本質的には本来的な気遣い(特定の他者の実存)に関係するのであって、他者の配慮的な気遣いの対象になっているものに関係するのではない
・その他者を助けて、その他者がおのれの気遣いのうちにあることを見通し、おのれの気遣いに向かって自由になるようにさせる
「極端な可能性」と言っているので、必ずいずれか一つになる、ということではないのですが、他者を支援する仕事をする私たちのような立場の者にとっては、非常に示唆に富む箇所であるように思います。
「日常的な現存在とは誰か」という問いに対してハイデガーは、それは「世人(せじん)」であると言います。
ドイツ語の言語では Das Man 他の訳書では<ひと>と訳したりしています。
英語の訳書では They と訳されているものもありますが、これだと「彼/彼女ら」になってしまうので、「自己」が除かれてしまう感じがしますね。
ハイデガーの言う「世人」あるいは<ひと>は、「自己と他者の境界が無くなった状態」というものです。
ハイデガーの言う「世人」の特徴を列記します。
・日常的な相互共存在において差しあたってたいてい「現にそこに存在している」当のもの
・このひとでもなければ、あのひとでもなく、そのひと自身でもなく、幾人かのひとでもなければ、また、すべての人々の総計でもない
・中性的なもの
・公共的な交通機関を使用するときや、報道機関(新聞)を利用するときなど、あらゆる他者が他者そのものと同然 → おのれに固有な現存在を、「他者たち」という存在様式のうちへと完全に分解してしまう → このように目立たず確認しがたいことのうちで、世人はおのれの本来的な独裁権をふるう
・われわれは、ひとが楽しむ通りに楽しみ興ずる。ひとが見たり判断したりするとおりにする
・世人はおのれに固有な存在する仕方をもっている = 平均性:懸隔性と名づけた共存在の傾向の根拠は、相互共存在そのものが平均性を配慮的に気遣っていることのうちにある
・世人にはおのれの存在においてこの平均性へと本質的にかかわりゆくことが問題
・あえてなされうるし、またなされてよいことが、その下図をそこに描かれているこうした平均性は、でしゃばってくるあらゆる例外を監視する。あらゆる優位は音もたてずに押さえつけられる。すべての根源的なものは、一夜のうちに平滑にされて、とっくに熟知のものになる。すべての戦いとられたものは手ごろなものになる。
またハイデガーは、この「世人」と「現存在」の関係について、以下のように述べます。
世人はいたるところに居合わせている
⇒ しかしそれは、現存在が決断を迫るときには、いちはやくつねにこっそりと逃げ出す
⇒ 世人は、すべての判断や決断を前渡ししておくゆえ、そのときどきの現存在から責任を取り除いてやる
⇒ 世人はいとも容易にすべてのことの責任を負いうるのだが、それは、誰ひとりとして或ることのために責任をもつ必要のある者ではないから
⇒ 世人は、その日常性におけるそのときどきの現存在の責任を免除する
⇒ 現存在のうちには安請けあいや軽率な振るまいへの傾向がひそんでいる
⇒ 世人は存在免責でもってそのときどきの現存在に不断に迎合するゆえ、世人はおのれの執拗な支配を保ちつづけ強化する
ハイデガーが言うには、平均的日常性において現存在は、このような「世人」というあり方をしていると言うのです。
ディスカッションではまず、「二つの極端な顧慮的気遣い」について議論になりました。
障害当事者と支援者の関係について、「支援」しているつもりが「支配」することにつながることがある、などなど…。
親と子の関係にも言えることがありそうだ、という話にもなりました。
また、「世人」という概念についても議論になりました。
オルテガ・イ・ガセットが『大衆の反逆』で述べた「大衆」だったり、福沢諭吉が英語のcitizenを「市民」と訳したことだったり、他の思想家も同様な問題について検討している、という話になりました。
ハイデガーが『存在と時間』を公刊したのが第1次世界大戦後の1927年、その後ハイデガーがいたドイツは「世人」が追従する形でヒトラーとナチスを生み、ハイデガー自身も一時はナチスに加担していく…。
色々、考えてしまいます。
今回は、『存在と時間』の中で唯一と言ってよいほど、「他者」ということについて述べられた箇所でした。
分量が少ないこともあり、読みやすかったです。
次回の偶数回は、7月28日(火) 10:30~12:00です。
課題箇所は、いよいよ第Ⅱ分冊に入り、第5章「内存在そのもの」です。
この章も、「世界の世界性」と同じく、120ページ超とかなりの分量になっています。
前回と同じ轍は踏まない!ということで、2回に分けます。
第12回で前半の「A. 現の実存論的構成」
第14回で後半の「B. 現の日常的存在と現存在の頽落」
を扱います。
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