2020年7月1日(火) 10:30~12:00で、第8回となる「みらいつくり哲学学校オンライン」を開催しました。
偶数回はマルティン・ハイデガーの『存在と時間』を課題図書にしています。
今回は第1部第1篇第3章「世界の世界性」でした。
課題図書に用いている原佑・渡邊二郎訳、中公クラシックス版『存在と時間』は全3巻となっており、今回の第3章と次回の第4章で第1分冊が終わります。
今回、レジュメ作成のために第3章を改めて読み直してみたら・・・
あれ?読んでも読んでも終わらない・・・
なんと、130ページもありました(第1分冊は全部で336ページ)。
そこから大慌てでレジュメ作成、書いても書いても終わらない・・・。
レジュメが完成したのは、開催前日でした。油断した・・・。
ちなみに次回の第4章は41ページ。ゆったりやります。
第3章で述べる「世界」は、第2章でハイデガーが現存在(つまり人間)の在り方の特徴として提案した「世界内存在」という概念を構成する一部分です。ちなみに、第5章は「内存在そのもの」というタイトルになっており、今回の「世界」と合わせると「世界内存在」になりますね。
私たちが普段「世界」と考えるとき、「世界中の国々」を思い浮かべたり、「地球」を思い浮かべたり、あるいは「身の回りの世界」を思い浮かべたりと、色々な対象が含まれていると思います。
ハイデガーはこの3章で「世界を現象として記述する」というのですが、上記で挙げたような「世界」の「外見」を描写したり、そこで起こってくるものを「物語る」ということをしても、本当の「世界」を記述したことにはならないというのです。
それはなぜかと言うと、そういった記述の対象となっているのは、「世界の内部にある存在者」、つまり「諸事物」に限られるからだということです。
諸事物とは、 ①自然諸事物 ②価値の付着した諸事物 であると言います。
こういうものは、数学的物理学的に捉えたり、価値というものを基準として捉えたりすることができますが、これは「世界の内部にある存在者」にすぎないのだと。
こういった「客観的存在としての存在者」は、「世界」というものを前提としているだけで、「世界」そのものではないのだと言います。
これらに加えて「世界の内にある存在者」、つまり「世界内存在」つまり「現存在(人間)」も含めて「世界」を考える必要があるのだとハイデガーは言います。
このことについてハイデガーは
「存在論的には『世界』は現存在自身の一つの性格」
だと表現します。
つまり、ハイデガーのように「存在」というものをしっかり考えるのであれば、世界とは現存在(人間)の「一つの性格」だということになるというのです。
つまり、世界というものを考えるには、現存在の在り方を含めて考えなければいけないのだと。
では、どのようにその探究については、現存在の「平均的日常性という地平」のうちで行う必要があると言います。
この日常的現存在の最も身近な世界をハイデガーは「環境世界」と呼びます。
この「環境」という言葉の中に、「空間性」という考え方が含まれているとも言います。
この「空間」というものを考えるとき、例えば「縦が〇センチ、横が〇センチ、高さが〇センチ」ということをすぐに思い浮かべてしまいますが、そういった「拡がりのあるもの」としての世界の捉え方は、これまでの存在論、とくにデカルトの考え方を基盤としたもので、それではいけないとハイデガーは言います。
デカルトは「存在者」について
①拡がりのあるもの
②思考するもの(つまり人間)
③ただそれとしてあるもの(創作されたものでないもの)=神
という三つに分けます。
ハイデガーは、このような存在者の分類自体が誤っていると言うのです。
ハイデガーは人間を「現存在」と呼びますが、デカルトのように「思考するもの」とは考えません。
言いかえると、「認識する主体としての人間」と「認識される対象としての世界(自然)」という「主格二元論」という形で人間を捉えないということです。
現時点では私もちょっとわからないところなのですが、ハイデガーはこの「認識」というものを完全否定しているわけではないようなんですよね…。
ハイデガーの表現で、「視覚」にたとえた表現がときどき出てくるのですが、訳者の渡邊二郎さんによれば「視」というのは「存在論的な意味での認識のことととらえてよい」ということなんだそうです。今回の箇所でも、「配視」という表現が出てきますが、「配慮的な気遣いによる視」ということのようで、「存在者として認識すること」といった意味のようです。
ハイデガーは他に、「聴覚」にたとえた表現がときどき出てきます。例えば、「良心の呼び声」とか「聴き従う」とか。ハイデガーは、「視覚」を「存在者を認識すること」、「聴覚」を「存在をとらえること」として用いているような印象があります。
話を戻します。
今回の箇所でハイデガーは、「道具的存在」というものを挙げています。「道具」は、人間が何かの目的に用いるものですね。
ハイデガーは「環境世界」の在り方についてこんな風に表現しています。
「現存在が道具的に存在している道具のもとに配慮的に気遣いつつ没入するとき、現存在自身は、配慮的に気遣われた世界内部的存在者とともにこの存在者の世界性が或る種の仕方で現存在に閃いてくるような存在可能性をもっているのではあるまいか」
また、道具の在り方として、こんな風に書いています。
「最も身近に道具的に存在している存在者は、利用不可能なものとして、その特定の利用にはあつらえむきでないものとして、配慮的な気遣いのうちで遭遇されることがある」
「利用不可能だとそのように暴露されるときに、道具は目立ってくる」
私たちは、日々の生活の中で、色んな「道具」を使っていますが、普段はその道具の存在をあまり意識することはありません。でも、例えば、普段使っているスマートフォンが急に何かの理由で使えなくなった時、普段はあまり意識しないその道具が『目立ってくる』。
そんな風な「現存在と道具の関係性」が、環境世界の特徴だというのです。
ところでハイデガーは今回の箇所で、色々な「道具」の例を挙げていますので、いくつかご紹介します。
・自動車の方向指示器(ウインカー):運転手は配慮的な気遣い(操縦)のうちで道具として使用するが、車に乗っていない人は「避けたり、立ち止まったりして」この道具を使用している。
・ハンカチの結び目:記号自身が、おのれの目立つことを、日常きわめて「自明」に道具的に存在している道具全体の目立たなさのうちから取り出してくる
・眼鏡:眼鏡をかけている人にとっては、それが彼の「鼻のうえにある」ほど距離的には近いのだが、使用中のこの道具は、正面の壁にかかっている絵よりも、環境世界的にはずっと遠ざかっている
ハイデガーは、空間についても道具と同じように考え、以下のように述べます。
・空間は主観の内で存在しているのでもなければ、世界が空間の内で存在しているのでもない。むしろ空間は、現存在にとって構成的な世界内存在が空間を開示したかぎりにおいて、世界の「内」で存在している
・空間は、世界へと帰ってゆくときにはじめて概念的に把握されうる
・世界内存在というその根本機構に関する現存在自身の本質上の空間性に対応しつつ、空間が世界をなんとしてもともに構成しているというふうに、暴露されうるのである
最後にひとつだけ、これまで『存在と時間』を読んできた流れから考えると「あれ?」と思うような表現がなされている箇所があります。
「存在論的に十分によく了解された『主観』、つまり現存在が、空間的なのである」
デカルトの「主観-客観」図式を批判するハイデガー。人間を「主観」と誤って受け取らないよう、「現存在」という表現をしていますが、「存在論的に十分によく了解された『主観』」であれば「現存在」であると言うのです。
デカルトに代表される、それまでの哲学者が打ち立てて来た哲学を「全否定」するというのではなく、それらを批判し、深化させる、そして新しい「存在論」を作り上げる。それがハイデガーの狙いだったということですね。
後半のディスカッションでは、元設計士の参加者からソ連の建築家による「精神世界の建築」の紹介があったり、女性の参加者から「キッチンの設計」の話があったり、カメラの出現により変わったアートの世界の話があったり・・・。
初めて参加してくれたドクターは「話を聞いていて、ハイデガーはなんでこんなにめんどくさい考え方をするんだろうな、って思いましたが、自分の普段の生活にあてはめて考えると、確かにそうかもな、って思うところもあるような気がします」とコメントしてくれました。
あまりにもボリュームが多く、内容の理解も大変だった第3章「世界の世界性」。これからの生活の中で、私たちの環境世界の中で「閃いてくる」道具や空間とともに、ハイデガーのいう「世界の世界性」も閃いてくるといいなと思います。
次回の偶数回は、7月14日(火) 10:30~12:00です。
課題箇所は、第4章「共存在および自己存在としての世界内存在 『世人』」です。
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