『つくると食べるの意味』
土畠智幸
2020.5.18
私は学生結婚した。
私が医学部5年生、妻が医学部4年生の時だった。
私は生まれてからずっと札幌市清田区の実家で過ごしていたが、結婚することになったのと、医学部5年生の9月から病院での臨床実習が始まるということで、大学から徒歩圏内の札幌市東区のアパートで初めて一人暮らしをすることになった。
結婚するのに「一人暮らし」の理由は、私が札幌、妻が旭川の大学に通っていたからである。
結婚してしばらくは、いわゆる「週末婚」の状態だった。
初めての一人暮らしの家は「ミルクハウス」という名前のアパートだった。裏に「ミルク」という、その業界では有名なご夫婦がやっていらした喫茶店があって、そのご夫婦が大家さんだった。
当時でも珍しく、毎月の家賃をその喫茶店にいる大家さんに届けるシステム。
家賃をお渡しするときに、大学のこととか、妻のこととか、色んな話をした記憶がある。
風邪をひいて体調が悪かったときには、ご主人が「これ効くから使いな」と言って葛根湯をくださったこともあった。
毎月、家賃を払いに行くのが楽しみだった。
「ミルクハウス」は、その名の通り白い建物で、1階が駐車場になっていて、私の部屋は2階にある101号室だった。下が駐車場ということと、建物自体が古いということもあり、とにかく寒かった。
真冬には、帰省などで数日家を空けたとかでも無いのに、トイレの水が凍っていたこともあった。もちろん、玄関に置いた飲み物は必ず凍っていた。
アパートの前の道路は、なんと舗装されていない道路だった(2001年当時)。
古い家も、冬の寒さも、舗装されていない道路も、なんだか色々懐かしくて、毎日楽しかった記憶がある。
月曜から木曜までの夕食は、一人で食事をつくって一人で食べる。
一人暮らしをしていると、独り言が多くなる。
というより、何か言葉を発したら、すべて独り言になる。
帰宅して玄関を空け、「ただいま~」と口にした後、「っていうか一人だし」と自らへツッコんでも独り言。
「よし、今日はこれをつくろう」
「じゃがいもの皮をむいて~」
「大根をかつらむきして~」
「しょうゆ大さじいち、みりん大さじいち」
全て独り言になる。
金曜日は、夕方に臨床実習を終え、急いで家に帰って食事の支度をする。
「人参を乱切りして~」
「たまねぎの皮をむいて~(涙)」
「たまねぎを薄切りにして~(涙涙)」
「今日は二人だから、いつもの2.5倍くらいの分量で」
やっぱり独り言だけど、誰かを想像しながらだと、いつもとは違う。
急いで夕食を作り終えると、車に乗ってJR札幌駅に向かう。近くに車を停め、札幌駅西口へ。
「旭川からの特急カムイ、遅れてないかな」
「お腹空かして帰って来るかな」
「今日はどんな服着てるかな」
あれこれ考えながら、改札に向かってくる群衆の中に妻を探す。
「この人たちの中に、1週間ぶりに家族に会える人たち、他にどれくらいいるのかな」
そんなことを考えていたら、妻がやってくる。
「お腹空いた?」
「空いた!」
「今日は〇〇だよ」
「やった~!」
そんな会話を交わしながら、三日間だけの「二人の家」に帰る。
週末も、基本的には私が食事をつくっていた。
普段使っている家だから慣れているというのもあったが、医学書で勉強をしている妻の姿を見ながら料理をするのが好きだったという理由もあった。
夜は、映画館に行ったり、喫茶店に行ってそれぞれ勉強したり、喫茶店のはしごをしたり、夜景を観にドライブしたり…。毎週、二人で色んなことをした。
二人とも学生なので、夏休みや冬休みは文字通り「朝から晩まで一緒」。
もう、あんな時間は無いだろうな。
いや、娘たちが独立していったらまたそうなるのか。
そうなったら、また映画館に行ったり、喫茶店のはしごしたりできるかな。
就職する病院が手稲に決まり、私はミルクハウスを出た。
毎月喫茶店に家賃を払いに行くことが無くなり、寂しくなった。
(でも、引っ越したアパートも隣にいる大家さんのお宅に毎月家賃を払いに行くシステムだった)。
その年の12月に長女が生まれた。
翌年、妻は医学部を卒業して一年間「育休」をとり、ずっと家にいるようになった。
私は研修医として毎日忙しく働いていたので、食事をつくることは一切無くなった。
その後、妻と二人で、小児や障害当事者の在宅医療に関わるようになった。
共働きだけど、なんとなく、私が食事をつくることは無くなった。
医師になって17年目、私は「臨床医」を辞めた。
患者さんの「生きる」を支援する仕事を続けてきたが、臨床医という立場ではなく、「死」や「喪失」に関わる活動をしたいと思ったからだった。
そうして始めたのが「みらいつくり食堂」。
「死」や「喪失」と、「生きる」や「みらい」を媒介しているのは、「食べる」なんじゃないかと思った。
逆に、「食べる」ことを通して「死」「喪失」「生きる」「みらい」の意味を考える場をつくれるんじゃないか。
そんな思いから、仲間とともに始めた活動だった。
食堂をつくることになったものの、自分自身はもう15年以上は料理をしていない。
自分で食堂やるとか言っておきながら、料理はしないっていうのもどうなんだろ…。
でも、いまさら料理なんて無理だな…。
そんな風に思っていたある時、共通の知人を通して、クックパッドの初代編集長であった小竹貴子さんと一緒に食事をする機会があった。
小竹さんは、出会う人に「一番思い出に残っている食べ物は何ですか?」と聞くらしい。
そうすると返ってくるのは
「ハンバーグかな。誕生日のときに毎年作ってもらってたんですよね。誕生日のときは家族そろって、みんなでゲームしたりして、楽しかったな」
「母と二人で食べに行ったフランス料理です。あのときは、初めて二人で食事に出かけて、色んなこと話したんですよね。大人になったような気がしました」
「手巻き寿司ですね。お祝いのとき、うちはいつも手巻き寿司なんです。父が刺身を切ってくれて、母はそれになんだかんだ文句つけたりして…」
そう、「食べ物」の話じゃない。
それを食べたときに、誰と一緒にいたか。
誰とどんな風に過ごしたか。
その時自分がどう感じたか。
人は、食べ物じゃなく、人を記憶するんだ。
翌日、小竹さんはクックパッドの本社に誘ってくれ、社内にある職員の共同キッチンを案内してくれた。
別れるとき、クックパッドの本が数冊入ったクックパッドの布袋をくれて、一言。
「先生、食堂やるなら、先生も料理しないとだめ」
そうだよね。
何にもできなくて、今さら教えてもらうのが恥ずかしい事ばかりだけど、挑戦しよう。
それから、家で(妻の厳しい指導を受けながら)料理を練習、砂糖と塩を間違えたり、塩と砂糖を間違えたり、ゆでたばかりの冷やし中華の麺がくっつくのを防ごうとしてごま油をかけたら油が析出してきてどうしていいかわからなくなったり。毎日が失敗の連続だった。
そんな私も、みらいつくり食堂で、2時間で30人分の料理をつくれるようになった。
食堂で一度、両親と一緒に料理をつくったことがあった。
初めての親子三人での調理。さぞかし楽しい時間になると思ったら、二人とも朝から青ざめた表情。
母は「30人分なんて作ったことないから、それ考えたらぜんぜん寝られなかった…」。
父は、緊張のせいか、周りの声も耳に入らず、無言でひたすらに材料を切っていた。
なんとか無事に作り終え、職員から「お父さん!めっちゃ美味しかったです!」と声をかけられ、ご満悦の父。
そこで私に一言。
「やればできるもんだな」。
そう、何歳になっても、やればできるもんだ。
「食べる」って、同じ物を食べるだけじゃなくて、時間を共有すること。
誰かを想ってつくることで、そこにいなくても、その人と時間を共有すること。
この状況で、食堂は休止することになった。
一緒の場ではなくても、「つくると食べる」を通して、誰かと時間を共有したい。
そう思って、「オンラインみらいつくり食堂」を始めた。
普段食堂で一緒に活動しているメンバーはもちろん、患者さんのご家族も参加してくれた。
それぞれ自宅など別々の場所から参加しているから、もちろん同じ物を食べているわけではない。
でも、「つくると食べる」を通して、確かに時間を共有している。
妻が、患者さんをオンライン食堂に誘い、その子の誕生日にその子が好きなメニューをつくろうと提案してくれた。
その子は、お昼の時間は生活介護事業所に通所しているので、その時間には家におらずリアルタイムの参加はできない。
でも、その子を想って「つくり、食べる」。
夕方帰ってきてから録画を観てくれるかな。
喜んでくれるかな。
食堂が再開したら、いつか食べに来てくれるかな。
「つくると食べるの意味」。
こんな機会だからこそ、考えよう。