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第30回 みらいつくり哲学学校 「第6章 <活動的生活>と近代(44・45節)」開催報告

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2022.2.9

 

2022年2月8日(火) 10:30~12:00、第30回(今年度最終回)となる「みらいつくり哲学学校オンライン」を開催しました。

 

偶数回は、ハンナ・アレント著, 清水速雄訳『人間の条件』を課題図書にしています。

 

今回取り扱ったのは、「第6章 <活動的生活>と近代(44・45節)」でした。

 

まずは44節の内容です。

 

<工作人>の敗北によって、物理学は天文物理学に、自然科学は「宇宙」科学に置き換わっていきました。44節では、

 

  1. なぜこの敗北が<労働する動物>の勝利に終わったか?
  2. <活動的生活>の勃興と共に、人間能力の最高位に昇格することになったのが、ほかならぬ労働の活動力であったのはなぜか?
  3. さまざまな人間能力を含む多様な人間の条件の中で、他の考慮を一切無視した(別の訳者仲正によると誤訳。正しくは「圧倒した」)のが、ほかならぬ生命であったのはなぜか?

という点について考えていきます。

 

近代の究極的な議論の根拠として生命が自己主張し、これまでずっと近代社会の最高善に留まってきました。その理由は、近代の転倒がキリスト教社会の構造の内部で行われたことによります。

 

生命の神聖さにたいするキリスト教社会の基本的信仰は、キリスト教信仰の世俗化と一般的衰退にもかかわらず残っています。

人間の個の生命の不死を説くキリスト教的「福音」が、人間と世界の間の古代的関係を転倒させ、それまで宇宙が占めていた不死の地位に、最も可死的なものである人間の生命を押し上げました。

その影響で、自分たちの世界が破滅の運命にあることを知っていた人たちに予期しない希望を与えました。

 

政治は今や、必要に従属する活動力という低い次元に沈み、一方では人間の罪深さから生じる結果を改め、他方では地上の生命の正当な欲求や利益を満たすためのものになり下がりました。

 

キリスト教で述べられているように生命そのものが不死である以上、世界の不死を求める努力など無意味となってしまいました。

 

かつて政治体の「生命」が占めていた地位を個人の生命が占めるようになりました。

 

キリスト教が生命の神聖さを強調したのは、ヘブライ人の遺産の本質的部分を受け継いでいたためと考えられます。

それは、古代人の態度(以下)と著しい対照を示していました。

・労働や出産など、生命が人間に押しつける苦しみにたいする異教徒的軽蔑

・神々の「安楽な生活」にたいするうらやましげな描写

・期待しなかった子供を棄てる習慣

・健康を欠く生命は生きるに値しない。延命は医師の使命ではない

・自殺は重荷になった生命を逃れる高貴な振る舞い

 

ヘブライ人の信条は、異教徒の罪の尺度よりは現代のものにはるかに近いですが、他方で個人の生命のキリスト教的不死とも異なる民族の潜在的不死を強調していました。

 

キリスト教的不死というのは、地上に誕生することによりユニークな生命を始める人格に与えられています。

それにより、超世界性を一層はっきりと強めただけでなく、地上の生命の重要性をも著しく高めました。

キリスト教の勃興によって、地上の生命も人間の最高善になったと言えます。

 

キリスト教が生命の神聖さを強調したことにより、かつては軽蔑されていた生命を維持するための労働は、軽蔑から解放されました。

キリスト教では、生命の神聖さと生き続ける義務を頑固に主張しました。しかし積極的な労働哲学を発展させなかったと言えます。

キリスト教が広がった時代においても、<観照的生活>が優位に立っていました。

これは、ナザレのイエスの教えではなく、ギリシア哲学の影響によるものです。

 

近代は、世界ではなく生命こそ、人間の最高善であるという仮定のもとで生き続けました。ですが、現代世界そのものはすでに近代全体を抜け出し、労働社会を賃仕事人の社会に変え始めているといえます。

 

キリスト教による生命と世界の転倒と、その後に起こった行為と観照の転倒は、近代の発展全体の出発点となりました。

<活動的生活>は、<観照的生活>という原理を失ったときになってはじめて、まったく文字通り活動的生活となりました。

 

そしてこの活動的生活が唯一の原理として生命に結びつけられていたからこそ、生命そのもの、つまり人間が労働を通じて行う自然との新陳代謝が、活動的となり、生命の繁殖力を完全に解放することができました。

 

次に45節の内容です。

 

近代においては、世俗化の過程が進み、デカルト的懐疑が必然的に信仰を奪いました。それによって個体の生命は、もはや不死ではなくなり、不死の確かさを失いました。

これが無かったら<労働する動物>の勝利はけっして完成しなかっただろうとアーレントは述べています。

 

個体の生命は、古代と同じようにふたたび死すべきものとなったことで、世界はキリスト教時代よりも安定性と永続性を欠き、一層信頼できなくなりました。

 

近代人は、来世の確かさを失ったとき、世界ではなく自分自身に投げ返されました。彼らはただ、生命に投げ返され、内省の閉鎖的な内部志向性の中に投げ入れられたと、アーレントは述べています。

 

内省において近代人が経験出来た最高のものは、精神が計算するという空虚な過程と精神が精神を相手にする戯れです。そこに残されたのは食欲と欲望だといえます。

近代人はこの肉体の無分別な衝動を情熱だと誤解し、推理や計算ができないので「非理性的」なものと考えました。

 

社会の勃興の中で自己主張したものは、種の生命です。

近代初期には、個体の「エゴイスティックな」生命が主張され、

近代後期には、「社会的」生命や「社会化された人間」が強調(マルクス)されました。

 

社会化された人類は、ただ一つの利害だけが支配するような社会状態で、唯一の目的は、動物の種としての人間の生存と考えられます。

個体の生命が生命過程の一部となり、労働すること、つまり自分自身の生命と自分の家族の生命の存続を保証することだけが必要になりました。

 

この発展で失われた人間的経験は、思考と製作です。

思考は「結果を計算に入れる」ものになったとき頭脳の一機能となり、活動は製作の観点から理解されるようになりました。

 

本来、製作だけが世界性を持っており、本来的に生命に無関心なはずです。今やそれもただ労働の別の形式とみられ、複雑ではあるがそれほど神秘的ではない生命過程の機能として見られるようになりました。

 

他方、私たちは大いに創意のあるところを発揮し、生存の労苦や困難を和らげる方法を発見しました。

これによって人間の活動力の範囲から労働を取り除くことも、もはやユートピア的ではないと考えられるほどになりました。

 

労働社会の最終段階である賃仕事人の社会は、メンバーに純粋に自動的な機能の働きを要求します。それはあたかも、個体の生命が本当に種の総合的な生命過程の中に浸されたかのようです。

個体が自分から積極的に決定しなければならないのは、ただその個別性(個体として感じる生きることの苦痛や困難)を放棄するということだけです。

行動の幻惑され、「鎮静された」機能的タイプに黙従することだけになってしまいました。

 

もっと重大で危険な兆候としては、人間がダーウィン以来、自分たちの祖先だと想像しているような動物種に自ら進んで退化しようとし、そして実際にそうなりかかっているということがあげられます。

現代のモータリゼーションは、人間の肉体が徐々に鋼鉄製の甲羅で覆われ始めるというような生物学的突然変異の過程であるとアーレントは述べています。

 

社会学や心理学や人類学が「社会的動物」について何を語ろうとも、人間は作ること、製作すること、建設することに固執しています。

 

活動する能力も、少なくとも過程を解放するという意味では私たちにまだ残っています。

しかしこれも科学者たちの排他的な特権になっています。

科学者たちは人間事象の領域を押し広げ、自然と人間の世界との間に昔からあった保護線を消滅させました。

 

科学者たちの活動は、宇宙の立場から自然の中へと活動するものであり、人間関係の網の目の中へと活動するものではありません。それは、活動の暴露的性格を欠いており、物語を生み出して、それを歴史とする能力をも欠いています。

 

思考は、人びとが政治的自由の中に生きているところではまだ可能であり、疑いもなく現存しています。しかし残念ながら、思考ほどもろい人間能力はほかになく、実際、暴政の条件のもとでは思考することよりもむしろ活動することの方がはるかに容易なくらいです。

 

生きた経験としての思考は、ただ少数者にのみ知られる経験であると考えられてきました。しかし、これはおそらく間違いであるとアーレントは述べています。

これらの少数者の数は現代でもそれほど減っておらず、この問題は、世界の将来には関係がないが、人間の将来には関連があります。

 

活動的であることの経験だけが、また純粋な活動力の尺度だけが<活動的生活>内部のさまざまな活動力に用いられるものであるとするならば、思考は当然それらの活動力よりもすぐれているだろうと言います。

この点でなんらかの経験をしている人なら、カトーの次のような言葉がいかに正しかったかわかるだろう。

「なにもしないときこそ最も活動的であり、独りだけでいるときこそ、最も独りでない」

として、45節(最終節)の内容は終わりました。

 

 

ディスカッションの時間は、6章の終わりであったこともあり、参加者からの6章全体を通した感想から始まりました。

中でも今回の節は、現代につながりやすい内容であったという人もいました。哲学することの重要性や子供と哲学することの必要性についても語られていました。

また、価値判断について、人が生きていくうえで使用価値と交換価値やほかの基準など、どのように考えていけばいいのかという話もありました。

ある参加者は、全体を通してアーレントが述べている理想像は、健全な人のように感じた。こうした文章を読むことができる哲学する人は、健全なのでは? という人もいました。それに対して、哲学者は健全ではないという反論もありました。

最後に、労働に対しての感じ方が昔は苦しいものであったが、最近は楽しいことを仕事にしてる人もいる。そのことから、様々な考え方は時代によって変わっていくのだろうという話もありました。

 

 

今年度の哲学学校は、これで終了となります。

来年度は4月5日からはじまる予定です。来年度の課題図書などは、後日お知らせいたします。今年度も哲学学校に関わってくださった皆さま、お疲れ様でした!

また来年度もお会いできるのを楽しみにしております。

 

参加希望や、この活動に興味のある方は、下記案内ページより詳細をご確認ください。

皆さまのご参加をお待ちしております。

 

執筆:吉成亜実(みらいつくり研究所 リサーチフェロー兼ライター)

 

 

 

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