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第25回 みらいつくり哲学学校 「第13章 生きがいへの問い(その1) 必然性を生きる自己」開催報告

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22/1/5

 

2022年1月4日(火) 10:30~12:00、第25回となる「みらいつくり哲学学校オンライン」を開催しました。

 

奇数回は、渡邊二郎著『人生の哲学』を課題図書にしています。

今回取り扱ったのは、「第13章 生きがいへの問い(その1) 必然性を生きる自己」です。

レジュメ作成・報告は、今年度から哲学学校に参加している益田さんが担当しました。

 

 

1 生きがいの意味

 

私たちは、生きがいのある人生を求めています。

生きがいを見失った人がいたとすれば、その人は、当初生きがいを求めて出発しながらも、様々な障害や困難に陥り、自己破滅的心境の中に、落ち込んでいったのかもしれません。

しかし、その人が自己破壊を望むのでない限り、生きがいを新たに見いだす再出発の人生を歩みだせるはずである。と、筆者は述べています。

 

生きがいとは、生きるに値する、甲斐ある人生を送ろうとする人間の態度を表す言葉です。

 

その決意に基づき、生きがいのある人生が形成された時、そこに意味と価値、有意義性と目標、充実と幸福が溢れ出て、人生を大きく肯定しうる根拠と理由、由来と行方が見定められ、自己の生存の意義が確信させられることになるのではないかと、筆者は考えます。

 

しかし人生には、生きがいを打ち砕く、様々な労苦や困難、苦難や災害、不幸や挫折が絶えず出現します。

生きがいは、それらの様々な格闘の中でのみ、見出され、築かれ、守られ、信じ込まれます。人生の営みは単純ではなく、相反する様々な矛盾や葛藤、対立や確執に満ちています。

よって、生きがいは、絶えず日毎に新たに確認し直され、繰り返し決意を新たにして獲得し直され、一生を通じて大事に育て上げられていく必要があります。

生きがいは、人生の最も重要な核心であり、根拠であると言えます。

生きがいを見定めた覚悟と決意、それに基づく忍耐強い努力と精進、様々な格闘のみが、人生の有意義な形成を可能ならしめます。

そうした人間的努力の他に、人生というものは存在しないと言っても過言ではない。と筆者は述べています。

人間の一生の課題は、生きがいに向けた精進と忍耐と持久に尽き、その果てしない格闘の上にのみ、人生の花が咲く。

努力の後に、その人は天に向かって、生き抜きえた自己の人生への感謝をささげるのではないか。 と、筆者は考えます。

 

「生きがい」という語において重要なのは「甲斐」という言葉です。

甲斐には充実、幸福、肯定という3つの語義が含蓄しています。

生きがいがある時、その人の人生は充実します。その時、充実した幸福感を味わいます。

そしてそのことは、その人の人生そのものを肯定するに至ります。

 

生きがいへの問いは、人生の充実と幸福と肯定への問いに他なりません。ここに、人生の価値と意義と目標への問いが関わり、生存の根拠と理由と意への問いが絡みます。

これらが、形而上学的問題にまで拡大すれば①生と死②愛の深さ③自己と他者④幸福          といったこれまで考察してきた諸問題と関連してきます。

 

①死の壁を意識すると、生存の意味と無意味に関する煩悶に捕らわれ、いかなる生きがいをも木端微塵に打ち砕く死という無の出現に格闘

②愛にまつわるエゴイズムと無私の他者奉仕との間に立って、生きがいに関する自己中心性と他者中心性との狭間で苦悩

③自己と他者の葛藤は、生きがいの成就をめぐる争いや確執へと発展することもある

④幸福は、この3つの根本において、人間の生活の安寧に関わると共に、私たちの生きがいの問題に結び付き、そして、人力を越えて贈られる恵みとしての至福の概念を含んでいる

 

上記のように、生きがいの問題の背景には、死にさらされ、愛に苦しみ、自他の確執を生き抜きつつ、幸福を求める私たち人間の宿命的な生存の根源事実が控えています。

この人生の修羅場の中でこそ、私たち一人一人の人生の充実をいかに図り、人生の肯定を達成すべきかが、私たちの日毎の気がかりの種となります。

 

私たちは、人生の充実と肯定を願って生きています。こうした営為と精進の中でのみ、幸福が授けられ、あるいは、予期に反して、不幸と悲惨、挫折と苦悩とが、私たちを見舞ってきます。

私たちは非力で有限な存在者にすぎず、運命の力には勝てません。

生きがいに関して言えば、幸と不幸の運命を度外視して、自分に可能な限り人生の充実に努力し、誘惑を克服し、人生の肯定に達しうる忍耐と精進の態度を培わねばならなりません。

 

自らの努力を怠って、人生の無意義と悲惨の責任を他に転嫁するのは、見下げ果てた無気力、無責任、怠惰、傲慢であると筆者は述べています。

 

おのれに贈られた生命の営みを感謝をもって引き受け、全責任と力の限りを尽くして、それの充実と使命達成に精進することをおいて、人間の存在の意味はどこにもなく、

長い人生の道程を忍耐強く、堅固な意思をもって、人生の充実と肯定を目指しながら、歩み進まねばならない。と言います。

 

幸福や不幸の運命の襲来は、当座二の次の問題として、これを度外視する覚悟が必要です。

私たちは、偶然の贈物に左右されず、自らの人生を築かねばならない。生きがいとは、そこにのみ花開く。と筆者は述べます。

 

2 必然性を生きる自己

 

人生にはさまざまな困難が生起します。しかし、そうした「あらゆる困苦にもめげず、変わらぬただ一つの意志を意欲して、どこまでも初志を貫徹して、いっさいの困苦を転換してこそ、そこに私の必然性が成就する」とニーチェは言います。

その「私の必然性」を生きる「私の意志」こそは「私の魂を支配するもの」私の「運命」なのだと言えます。

私たちは、こうした「やむをえざる必然的なものを愛して」生きねばならないとニーチェは語っています。

それが「運命愛」ということです。私たちは、ひたすらおのれの必然性を生きねばなりません。

 

「必然性の紋章、存在の最高の星辰、ーそこにはどんな願いも届かず、どんな否定による汚れも染み込んでいない。存在の永遠の肯定。私は、永遠にお前の肯定である。というのも、私は、お前を愛するからである。おお、永遠よー」とニーチェは歌っています。

この文からも、私たち自身の存在を愛し、いかなる苦難が降りかかろうとも、私たちの存在を担う必然的な意志に立脚して、自分自身であることを成就し、達成してゆくとき、そこにこそ運命愛が実り、永遠に繋がる接点さえもが確信されてきます。

 

絶えざる「自己超克」に生き、時間の流れの中で偶然的断片と化したおのれの錯乱状態を克

服し、全きおのれを取り返し、「救済」してこそ、おのれであることが成就されます。こうした必然性を生きる強靭な意思の上に、「超え出てゆく人」の姿、「永遠回帰」の肯定も成立ってきます。

 

ニーチェが言う「超人」とは、「超え出てゆく」人、怠惰に安逸を貪り、なんらの創造的営為にもおのれを賭けない堕落した人間のあり方を「乗り越えて」ゆく人です。

「人間において偉大な点」は、人間が「ひとつの橋」であって「目的」ではない点にあり、「人間において愛されうる点」は、人間が「ひとつの超え出てゆくものであり、ひとつの没落するもの」である点にあると、ニーチェは言います。

 

自分のうちから新たな価値を生み出すべく、必死に想像的営為に情熱を賭け、そのためには没落をも辞さない人が、ニーチェが言う「超え出てゆく人」です。

「私が愛するのは、没落する者として生きるより他に生きる術を知らない者たちである。というのは、彼らは、かなたを目指して超え出てゆく者たちだからである」とニーチェは語っています。

 

万物は、無意味な永遠の繰り返しであり、「時間そのものが一つの円環であり」、「全ての

ものは行き、全てのものは帰り、永遠に存在の車輪はまわり」、「永遠の歩む小道は曲線的で

ある」かのようにも思われます。

しかし、ニーチェはそれに対し、軽々しい言い方をしないよう咎めました。それは、一切が単なる「永遠回帰」であるなら、それは、無意味な出現に過ぎないからです。

そうなれば、「一切は虚しい」という「嘔吐」が生じ、あきあきするような「小さな人間」が絶えず現れるという「嘔吐」が生まれ、「そうであった」という、もはや取り返しえない過去に苦しむ「病気」の自己自身への「嘔吐」がぶり返してくるからです。

こうした「嘔吐」から脱却するには、「黒い重い蛇ーつまり、無意味な永遠の繰り返しという、とぐろを巻く蛇ーを噛み切り、吐き出し、捨て切る他ありません。

そうなってこそ、人間は「高らかに笑い」「変貌した」「光に包まれた」者となりうる。とニーチェは述べています。

 

これは、永遠回帰の道程の中で「瞬間」という門の前に立ち、「これが人生だったのか、それならもう一度」と、自分の人生を新たな決意において、絶えずやり直す覚悟となって現れてきます。

これが、ニーチェの見出した、人生最高の肯定の方式であり、永遠回帰の思想です。

いかなることをなす場合にも、最大の重しに耐えて、あらゆる瞬間に自己の全精力を傾注して、生きがいに満ちた人生行路を選び取り、後悔せずに我が道を行く、という生き方となって、この思想は具体化します。

 

「生きがい」という問題を考える時、以上のようなニーチェの、自己の必然性を生きる強靭な思想を摂取し、そこに生命力に溢れた人生行路の原点を探り当てなければならないと筆者は考えます。

しかし、ニーチェのこの思想は、短絡的に俗解されると大きな危険を生みます。

ニーチェは、人生の無意味と嘔吐感に苦しみ、ほとんど斃れるばかりの病床にあって、この永遠回帰の肯定の思想によって、孤独な自己の内面のうちで、ようやく「快癒していった」のです。ニーチェの思想は、傷つき苦しむ人間の内面のなかでの自己対話であったことを忘れてはならないとして、今回の内容は幕を閉じました。

 

 

ディスカッションでは、

「生きがいや好きなことを見つけなければならないという風潮に違和感がある」、「生きがいではなく、死にがいという言葉であれば、とらえ方は変わるのだろうか」などの意見や、参加者それぞれの生きがいと呼べるものは何だろうという話題が出ました。

また、今回の内容では生きがいは努力をして手にするものというように書かれていて、根性論のように感じた。生きがいは、社会の変革など大きなものでなくとも、仕事終わりのビールやゲームをするなど、日常の中の些細なことでもいいのではないかという感想もあがりました。

生きがいをアーレントでいうところの、労働・製作・活動に分類することも可能かもしれないといった考察も広がりました。今回は、本文自体は短いものでしたが、論点は大きく広がる内容でした。

 

 

次回、第26回(偶数回)は、2022年1月11日(火)10:30~12:00、ハンナ・アレントの『人間の条件』より「第6章 <活動的生活>と近代(38~40節)」を扱います。

第27回(奇数回)は、1月18日(火)10:30~12:00『人生の哲学』より、「第14章生きがいへの問い(その2)時代の現実のなかで」を扱います。

レジュメ作成と報告は、みらいつくり研究所 リサーチフェロー兼ライターの吉成が担当します。

 

 

参加希望や、この活動に興味のある方は、下記案内ページより詳細をご確認ください。

皆さまのご参加をお待ちしております。

 

執筆:吉成亜実(みらいつくり研究所 リサーチフェロー兼ライター)

 

 

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