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21/12/9
2021年12月7日(火) 10:30~12:00、第23回となる「みらいつくり哲学学校オンライン」を開催しました。
奇数回は、渡邊二郎著『人生の哲学』を課題図書にしています。
今回取り扱ったのは、「第12章 幸福論の射程(その3) 幸福論の教え 2」です。
レジュメ作成・報告は、哲学学校に初回から全て参加してくださっている和田さんが担当しました。
前回に引き続き、哲学者の幸福論をみていきます。
前回までのアランやラッセルの幸福論は、礼儀や外向的活動を勧めるものといえます。それらは、あまり慰めになるものを含んでいないように思われます。
上述の幸福論は、その楽天的な明朗さが、かえって躓きの石となることは避け難いように思われると筆者は述べます。
今回は、より人生の苦しさに悩み抜いた幸福論として、ショーペンハウアーやストア派に見られる「内省と諦念の勧め」とも言うべき人生論や、ヒルティや三谷隆正に見出されるキリスト教に支えられた「揺るぎない信仰の勧め」とも称すべき幸福論についてみていきます。
1 内省と諦念の勧め
まず登場したのはストア派の哲人エピクテトスです。
エピクテトスの語録は、ヒルティの著名『幸福論』の中で、みずからギリシア語原典から注釈つきで独訳し、そのまま邦訳されて、これまで広く読み継がれてきました。
エピクテトスの基本的な考えは、「世にはわれわれの力の及ぶものと、及ばないものとがある」というものです。
力の及ばない事柄に対しては、諦念をもって生きることを勧め、自分の力の及ぶ事柄にのみ意を用いて生きるべきだとする厳しい自己制御を説く、人生観であると言えます。
「われわれの力の及ぶもの」とは、私たちのなす「判断、努力、欲望、嫌悪など」の心の動きです。
心の動きは、誰にも「禁止」も「妨害」もされずに、私たちの「自由」になるものです。
「われわれの力の及ばないもの」とは、健康や財産、名誉といったものが挙げられます。
ピクテトスによれば、「われわれの力の及ばないもの」に関しては、「それは、わたしにはかかわりがない」と考えたほうがよいとしています。
自分の自由にならない事柄については、高望みなどせず、最初から無いものと思い、諦めて生きれば、不幸を嘆くことも生じないであろうとエピクテトスは述べています。
これは、まことに厳しい禁欲の教えであると共に、ある意味ではきわめて悲しい諦めの人生観であるとも言えます。しかし、所詮人生とはそういうものだという人生観がそこにある。と筆者は述べています。
その後は例証として、エピクテトスの幸福論の根拠となるエピソードがいくつか語られます。そのうちの二つを紹介すると、
「きみが一個の壺を見るならば、その時きみの見るものは一個の壺であると自分に言い聞かせるがよい。そうすれば、それがこわれても心の平静をやぶることはないであろう。もしきみが妻子を胸にいだくならば、きみの愛撫するものが一人の人間であることを、自分に告げるがよい。そうすれば、その人が死んでも狼狽することがないであろう」
「きみ自身のものでない美点を誇ってはならない」。「自分は美しい馬を持っている」と言うとき、きみは「馬の美点」を誇るのであって、君自身が美点をもっているわけではないのである。
という内容です。
エピクテトスは「名誉ある地位につく」ことが大事かという点については否定しており、自分らしさをしっかりと確立して生きることが、最大の名誉だといえます。
また、仕事については、「社会から当てがわれた仕事や役割を、立派にこなすことが大切であり、自分にあてがわれた役割にみだりに不平不満を言うべきではない」と述べています。
きみがもし、それをしなければならぬという確個たる信念をもってある事をなすとき、たとえ多数者(大衆)はそれについて違って考えようとも、公然とそれをするのにはばかることはない。
きみが最善と認めるものを、あたかも神に指令された持ち場につくかのように、固持せよ。
きみは模範とするに足るある人物を心にえがいて、私的生活においても、公的生活においても、これに倣って生活するように心掛けよ。
このように、エピクテトスは、しっかりとした自己確立をして生きることを最大の善と考えていると言えます。
その他、人なかでの振る舞いなどについても述べています。
次に、ショーペンハウアーです。ショーペンハウアーの幸福論は、エピクテトスの考え方を近代的な形でより分かりやすく広めていったものといえます。
ショーペンハウアーの考えは、エピクテトスの言う、自分の力の及ぶものと及ばないものとの相違と同じで、自分の力の及ばない事柄のうちに幸福を探すのは不幸を招くとみなし、そうした事柄を当て所ないものと考えて無視して生きることを勧めるものです。
この世の中ではたいてい、悪がのさばっており、愚劣さが大きな口を叩いている。運命は残酷であり、人々は哀れむべきありさまで生きていると、ショーペンハウアーは述べています。
また、われわれの人生の幸福にとって、何よりも本質的なのは、人格であり、われわれの個性である。ともいいます。
その他、「孤独の大切さ」や「自足の境涯」、「財貨の空しさ」、「他人の意見に振り回される愚かさ」、「虚栄心・名誉心など」について語られていました。
これまで見てきた、エピクテトスやショーペンハウアーはまさにストア派の人生観と幸福論の核心をなすものと言えます。その見事な表現を、セネカの幸福論のうちに見出すことができるとして、セネカの幸福論を見ていきます。
セネカによれば、私たちの誰もが仕合わせに生活したいと望むが幸福な人生に到達することは容易な業ではなく、目標と道をよく考えねばならないとしています。
幸福論の教えとしては、以下の3つがあります。
第一に、心が健全であり且つその健全さを絶えず持ち続けることである。
第二に、心が強く逞しく、また見事なまでに忍耐強く、困ったときの用意ができており、 自分の身体にも、身体に関することにも、注意は払うが、心配することはない。
最後に、生活を構成するその他もろもろの事柄についても細心であるが、何ごとにも驚嘆 することはなく、運命の贈物は活用せんとするが、その奴隷にはなろうとしない。
こういった人生自体の自然に適合した生活は、幸福な人生であるとセネカは述べています。
2 揺るぎない信仰の勧め
ストア的な人生観は、人間の自力を頼みとするものです。その理性的な克己の精神を根底から揺るがすような大きな苦難が人に襲いかかってきたとき、人はその立場にとどまることはできないと筆者は述べます。
実際、思想史の上でも、ヘレニズム・ローマ時代の哲学は、自力に依拠する倫理的人生観から、他力に縋る宗教的人生観へと転換していきました。
筆者は、逆境においても自己を支えてくれるような、ある絶対的なものからの助力、若しくはそうしたものへの信仰を、必要としていると思うとして、ヒルティと三谷隆正の幸福論によって、「揺るぎない信仰」にもとづく人生観の一端を垣間見ようとします。
ヒルティは、既述のように、エピクテトスの語録を独訳してみずからの幸福論の一部に組み入れるほど、ストア的人生観を高く評価しました。しかし他方ではキリスト教の立場から、それに対しては批判的でした。
ヒルティによれば、ストア主義は、あくまで「現世の幸福」しか念頭におかず、しかも「人生の苦難を否定し、常にすぐれた精神力をもってこれを蔑視しようとつとめる」ものです。
キリスト教は、自力への頼みが崩れるこの世の苦難の現実を直視し、それに耐え抜こうとして、力弱い有限な自己を越えた、絶対的な神の愛を信じ、神のみ心に従う生活のうちに、「揺るぎない信仰」の基礎をおき、それにもとづいて生きることを勧める宗教的な人生観・世界観であるということになる。
ヒルティの幸福論の核心は、このキリスト教的信仰のうちにあります。
「幸福」とは「神と共にあること」であり、これに到達する力は「魂の声なる勇気」です。「人生の幸福は、神の世界秩序との内的一致であり、こうしてまた神の側近くあるという感情である」。
いかなる人生の不幸に出会っても、これに打ち克って慰めを与えてくれるものは、「道と真理と生命」の源泉である神への信仰に存するというのが、ヒルティの確信と言えます。
その他ヒルティは、「仕事」や「習慣」、「時間の使い方」、「理想主義」、「不幸への対処」についても述べています。
最後にクリスチャンであり教育者でもある三谷隆正の幸福論を見ていきます。
三谷は苦難と真生として、
私たちは、この「苦難」を通じてのみ、「真の実在者の実力に触れ、人生において真に力となり頼みとなるものが何であるかを知らされる」。そのとき、私たちは、「ひとたび死して新に生まれかわる」。「斯かる主体的更生または新生なくして、積極的なる幸福の実質に与(あずか)ることはできない」と言います。
また、いずれにしても、「良き健康と清純な家庭と、一生を投じて悔いなき職場と、この三つを併せ持つことは大いなる幸福である」。とも述べており、「しかしそれにもまして大なる幸福は新しきいのちの源に出会うて、新しく造り変えられることである」と三谷には主張します。
「幸福」は「ただ信仰により、超越的創造の主たる神の恩賜(おんし)として、ただただ恩賜として受領するよりほかない」。
そのためにも「真実一途の生活をすること」、「ただただ真実の一本鎗、一切の虚為虚飾を敵に廻して、終始一貫ただ真実を守って生き抜くことだ」と三谷はつたえています。
今回はこのように、幸福についてまとめられていました。
今回の和田さんのレジュメは、「ストア派とは」や「ストイックという単語の意味」などの本文を読んで感じる疑問についての丁寧な解説や、ヒルティの『幸福論』の本文と課題図書の著者の文ではどのような違いがあるのかと言った内容が盛りだくさんでした。
そうした和田さんが挙げてくださったポイントから、ディスカッションでは、ストイックの英語と日本語の意味どちらにもエピクテトスの諦念という価値観はあるように思う。という話や、ストア派とキリスト教との関係性について触れられていました。
論点としては、「自分ではどうしようもないことをどう捉える?」といった話題がありました。また、著者の引用部分のみで済ますのではなく、一次文献(原著)を読むことの重要性についても触れられていました。
そこから、歴史的にその本がどのように扱われていたかは本のサイズなどから分かるという話題があり、なぜかその後は「この出版社のフォントが好き」「この出版社は本が開ききれるから好き」というような本オタクトークにまで発展して行きました。
このように脱線しながらも、今回は本文の内容にとどまらず、哲学と宗教に関連する内容についても話し合うことができました。
これまでの3つの章では、様々な幸福論について触れてきました。皆さんにしっくりくる幸福論は見つかりましたか?
興味を持った方は、原著を読んでみても面白いかもしれませんね。
次回、第24回(偶数回)は、12月14日(火)10:30~12:00、ハンナ・アレントの『人間の条件』より「第6章 <活動的生活>と近代(35~37節)」を扱います。
第25回(奇数回)は、2022年1月4日(火)10:30~12:00『人生の哲学』より、「第13章 生きがいへの問い(その1) 必然性を生きる自己」を扱います。
レジュメ作成と報告は、今年度から哲学学校に参加している益田さんが担当します。
参加希望や、この活動に興味のある方は、下記案内ページより詳細をご確認ください。
皆さまのご参加をお待ちしております。
執筆:吉成亜実(みらいつくり研究所 リサーチフェロー兼ライター)
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