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第22回 みらいつくり哲学学校 「第5章 活動(31~34節)」開催報告

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2021.12.2

 

2021年11月30日(火) 10:30~12:00、第22回となる「みらいつくり哲学学校オンライン」を開催しました。

 

偶数回は、ハンナ・アレント著, 清水速雄訳『人間の条件』を課題図書にしています。

 

今回取り扱ったのは、「第5章 活動(31~34節)」でした。

 

まずは31節の内容です。

 

これまでみてきた活動について、アーレントは3つの欠点があると言います。

①活動結果の不可予言性

②活動過程の不可逆性

③活動過程をつくる者の匿名性

 

古代から、活動に代わる代替物を発見したいという誘惑は常に大きくありました。

活動に代わる代替物によって、人間事象の領域から偶然性を取り除き、同時に、行為者が多数いることから必ず生じる道徳的無責任を取り除くことが期待されていました。

活動の災いを避けるために、それに代わるある活動力(製作)を持ち出しています。

活動を製作によって置き代えようとするこの試みは、「民主主義」に反対する議論全体にはっきりと現われています。

 

活動の災いは、人間の多数性という条件から生じています。この多数性を取り除こうとする企ては、公的領域そのものを廃止しようとする企てであると言えます。

 

これを突き詰めると、一人支配(モン・アルキー)という状況になります。

一人支配は多数性の危険を免れるための最も明瞭な解決策で、プラトンも哲人王という言葉を用いて、そのことを表現しています。

 

一人支配とまではいかずとも、少数の人で行われる政治を僭主(せんしゅ)政治といいます。

僭主政治は「市民を公的領域から追放し、市民は私的な仕事に専念すべき」、「支配者のみが公的問題に従事すべきである」と主張しました。これにより、私的な努力や勤勉さを助長しました。

 

暴政の短期的な利点として、安定性、安全性、生産性があげられます。

もろい人間事象から静かで堅固な秩序への逃亡をしたいという考え方は、支配というものを生みます。

人びとが法的、政治的に共生できるのは、ある人間に命令権が与えられ、他の人間は強制的に服従する場合(支配)だけであるという観念があります。

このような観念は、活動にたいする疑念にもとづいており、活動に代わる代替物を発見しようという熱烈な欲望から生じました。

 

活動から支配への逃亡の理論的な説として、プラトンの『政治家』というものがあります。

そこでは、始める(アルケイン)と達成する(プラツテイン)の間に深淵があると述べています。

創始者が自分の始めたことを完成するのに他人の助けを必要とせず、最後まで確実にその行為の完全な主人であるにはどうすればよいかということにも触れられています。

 

ギリシア人の理解として、

支配―被支配=命令―服従=主人―奴隷

というものがあり、そこには活動の可能性がまったくありませんでした。

 

プラトンは人間事象において、活動はいかなる役割も果たすべきではないと述べていました。

「アルケイン」というギリシャ語は、始めることと支配することの両方の意味をもっています。

そうして、「始まり」はすべて支配を正統化するものとして理解されるようになりました。

プラトンの「支配の概念」が長く生命を保っている別の理由は、活動を支配に置き代えたとき、それをもっと真実らしく説明するために製作の分野に事例を求めたからだと言えます。

 

プラトンの考えたイデアという考え方もそのもので、仕事と製作に固有の固さを人間事象の領域に与えるために、活動を製作に置き代えようとしたものであると言えます。

それ以外にプラトンは、ユートピアという考えももちましたが、ユートピア計画が真の人間関係の現実をコントロールできなかったことから、これらのユートピアはすべて失敗しました。

しかし、これらのユートピアは、活動の観念を製作の観点から解釈しているような政治思想の伝統を保持し、発展させるのに最も効果的な手段の一つであったと言えます。

 

暴力は、製作に必ず伴うものです。活動を製作の観点から解釈する政治的計画や政治思想では、暴力がいつも重要な役割を果たしてきたと言えます。

マルクスが「暴力は新しい社会を孕むすべての古い社会の産婆」と述べていたように、自然が神によって「作られる」のと同じように、歴史は、人間によって「作られる」という近代の内奥の確信を結論付けました。

このようにして活動は、うまく製作の様式に変形されていきました。

 

プラトン(とある程度までアリストテレス)の時代には、製作の活動力は活動よりももっと信頼できる固いカテゴリーであることや、それを人間関係の網の目の中に導入することによって、活動の冒険と危険を取り除きたいと考えられていました。

 

次に32節の内容です。

 

活動は、不確かなものだから、これを取り除き、人間事象をそのもろさから救おうとする試みがなされました。そこから、人間事象は、あたかも人間による製作の計画的産物であり、またそうなりうるかのように扱われました。そして、人間の活動能力が自然にたいする態度の中に導き入れられることになって行きました。

その影響で、自然科学というのは、過程の科学となりました。最終段階では、潜在的に元に戻すことのできない不可逆的な「返らざる過程」の科学となりました。

 

活動能力とは、結果が不確かで予言できない先例のない新しい過程を始める能力であると言えます。人間はそうした過程を始める能力をもっているからこそ、自然と歴史を共に過程のシステムとして考えることができます。

近代的思考のこの性格は、歴史科学において最初に前面に現われました。

 

今日の人間は、人間が作ったのではない地球と地球の自然さえ破壊する潜在能力をもつまでになりました。

 

生産過程で用いられる体力は、最終生産物の中に完全に吸収されます。

一方、活動過程で用いられる体力は、行為の結果が拡大するにつれて増大します。

なおかつ、人間は自由であるという能力を持っています。人間関係の網の目を生産し、それによって、紛糾の中に巻き込まれます。

一方で人間は、自分の行ったことの作者であり、行為者であるというよりは、むしろその犠牲者であり、受難者のように見えるとアーレントは述べています。

 

アーレントは、主権と自由を同一視するという誤りを指摘します。

主権は、非妥協的な自己充足と支配の理念であって、これは多数性の条件と矛盾します。

多数性に固有な「弱さ」として、だれも主権をもつことができないというものがあります。

 

次に33節の内容です。

 

活動の苦境として、活動が始める過程の不可逆性と不可予言性というものがあります。

これに対する救済は、

①不可逆性の苦境から脱け出す可能な救済は、許しの能力

自分の行った行為から生じる結果から解放され、許されることがなければ、私たちの活動能力は、たった一つの行為に限定され、そのたった一つの行為のために回復できなくなる

 

②不可予言性にたいする救済策は、約束の能力

約束の実行に拘束されることがなければ、私たちは自分のアイデンティティを維持することができず、私たちは、なんの助けも無く、進む方向もわからずに、人間のそれぞれ孤独な心の暗闇の中をさまようように運命づけられ、矛盾と曖昧さの中にとらわれてしまう

というものがあります。

 

許しと約束という二つの能力は、ともに多数性に依存し、他人の存在と活動に依存しています。

 

人間事象の領域で許しが果たす役割を発見したのは、ナザレのイエスです。

アーレントいわく、イエスは「神だけが許しの力をもつというのは真実ではなく、この力は、神から来るものではない」と主張しており、人間が神によって許されることを望むなら、その前に、人間がお互い同士許し合わなければならないとされています。

 

罪は日常的な出来事であり、それは諸関係の網の目の中に新しい関係を絶えず樹立しようとする活動の本性そのものから生じます。そのような中で、生活を続けてゆくためには許しと放免が必要です。

 

許しの対義語として復讐があります。復讐は、あらゆる活動に含まれている連鎖反応がその無制限な進路を進むにまかせてしまい、結局、過程に拘束されたままとなります。

復讐は罪にたいする当然の自動的反応であるので、予期され計算することができますが、許しの行為はけっして予見できません。

 

許す力をもっているのは、愛だけです。

愛は、その情熱によって、私たちを他人と結びつけていると同時に分けへだてている介在者を破壊します。

その魔術が続く限り、愛し合う二人の間に挿入される唯一の介在者は、子供=愛自身の産物だけです。

 

子供は、愛する者たちを結びつけ、同時に愛する者たちを分けへだてているという点で世界の代表であると言えます。

 

最後に34節の内容です。

許しには、宗教的要素があり、それが発見されたときに愛に結びついていました。

 

約束の能力が持っている安定力は、西洋の伝統ではよく知られています。

約束というものの発見者はアブラハムで、彼の物語は契約を結ぼうとする情熱的な衝動に満ちています。

 

活動の不可予言性の二重性として、

①不可予言性は「人間精神の暗闇」から生まれている

②活動の不可予言性は、すべての人が同じ活動能力を持つ共同体の内部で、活動の結果を予見することはできない

があります。

 

約束をする能力の機能は、人間事象のこの二重の暗闇を克服することにつながります。

相互の約束によって拘束された多数の人びとがいて初めて、主権というものがリアリティをもちます。

この場合の主権は、未来の不可測性をある程度免れている場合に生まれます。

 

徳性は、活動と言論の様式で他人と共生しようとする意志そのものから直接生まれます。

活動と言論を欠き、出生の明瞭な輪郭を欠いているとしたら、私たちは絶えず反復する生成のサイクルの中で永遠に回転する運命にあると言えます。

 

可死性の法則という、生から死までの間に営まれる生命の最も確実で信頼できる唯一の法則があります。

人間が生まれてきたのは死ぬためではなくて、始めるためであると言えます。

自然の観点からみると、活動は一つの奇蹟であると言え、活動=奇蹟創造能力です。

 

人間事象の領域である世界は、そのまま放置すれば「自然に」破滅します。

それを救う奇蹟というのは、究極的には人間の出生という事実です。

活動の能力も存在論的にはこの出生にもとづいています。それは、新しい人びとの誕生であり、新しい始まりであり人びとが誕生したことによって行いうる活動です。

 

 

今回は、このように活動について分析していました。

 

 

ディスカッションの時間は、

 

今回本文では、「子どもが愛の結果のように言われているが、実際子供のいる参加者はどう感じているか」「アーレントのキリスト教理解について、どう感じているか」というような疑問があがりました。子どものいる参加者はそうは思わないと言っていたり、キリスト教の理解についても違和感があるという人もいたりしました。

活動と製作の違いについて、障害者運動は製作(ゴールや目的があるもの)なのか?という話になりました。それに続いて、教育も活動と製作に分かれたりするという話題や、建築は製作と言われているが活動の要素はないのかという話がありました。

 

 

 

次回、第23回(奇数回)は、12月7日(火)10:30~12:00『人生の哲学』より、「第12章 幸福論の射程(その3) 幸福論の教え 2」を扱います。レジュメ作成と報告は、哲学学校に初回から全て参加してくださっている和田さんが担当します。

第24回(偶数回)は、12月14日(火)10:30~12:00、ハンナ・アレントの『人間の条件』より「第6章 <活動的生活>と近代(35~37節)」を扱います。

 

参加希望や、この活動に興味のある方は、下記案内ページより詳細をご確認ください。

皆さまのご参加をお待ちしております。

 

執筆:吉成亜実(みらいつくり研究所 リサーチフェロー兼ライター)

 

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