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2021.8.26
2021年8月24日(火) 10:30~12:00、第14回となる「みらいつくり哲学学校オンライン」を開催しました。
偶数回は、ハンナ・アレント著, 清水速雄訳『人間の条件』を課題図書にしています。
今回取り扱ったのは、「第4章 仕事(19~21節)」でした。
19節の内容です。
仕事(制作)をする人は<工作人>と呼ばれ、その制作は物化であるといいます。
その物には固有の固さがあり、その固さは材料から生じます。
材料は、人間の手が自然の場所から取り出してきたものであるから、人間の手による生産物と言えます。
<工作人>だけが、地球全体の支配者、あるいは主人として振る舞います。
その生産性は創造神のイメージで眺められていました。 その結果、人間が何かを作るというのは、プロメテウス的反逆(創造神の作ったものを壊す)を招くことになりました。
なぜなら、神の創造した自然の一部を破壊した後にはじめて、人工的な世界を樹立することができるからです。
この行為は、暴力で、それは、自己確証と満足を与えることができ、生命を貫く自信の源泉にさえなりえます。
労働と労苦に費やされる生命に訪れる至福とはまったく違い、「労働の喜び」は、たいてい力の暴力的な行使によって感じされる意気込みと関連づけて述べられていますが、
人間は、そのような力によって自然の圧倒的な力に抵抗する自己自身を測定することができ、また、巧妙な道具を発明した結果、人間は、自然の尺度以上にその力を増す方法を知ることになりました。
製作の実際の仕事は、対象を作り上げる際に従うべきモデル(設計図)に導かれて行われます。
製作の仕事を導くもの(設計図)は製作者の外部にあり、実際の仕事過程に先行していると言えます。
近代世界の仕事はほとんど労働の様式に従って行われています。
人間は、最終的な形がどうなるか少しも判らないような対象を生産するための道具になってしまっています。
モデルは、製品が完成しても別に消滅しないことから、完成の後にも存続し、製作の無限の継続に役立ちます。
モデルやイメージの永続性の特質は、永遠のイデア(理念)というプラトンの説に強い影響力を与えました。
このプラトンの教義は、イデアあるいはエイドス(形相)という言葉に霊感を得ている
製作過程は、目的と手段のカテゴリー(※目的ー手段図式)によって完全に決定されています。
製作された物は、生産過程がそこにおいて終わる(End エンド)ということ、そして、生産過程が完成品というこの目的(End エンド)を生み出す唯一の手段であるということ、この二重の意味で最終生産物(エンド・プロダクト)です。
制作によって生まれたものは、世界に留まりうるほどの耐久性をもっています。
製作は明確な始まりと終わりをもっています。この特徴だけでも、他のすべての人間の活動力から区別されます。
次に20節です。
人間は、製作をするにあたり、道具と器具を作りました。
制作のために作られた道具と器具が労働過程で用いられるときには、その世界的性格がはっきりと現れると言います。
器具は、もともと<工作人>が<労働する動物>の労働を和らげるために発明したものですが、それが<労働する動物>によって使用されると、その手段的性格は失われてしまいます。
それは、目的と手段をはっきりと区別することができなくなっている状態であると言えます。
産業革命と労働の解放によって、ほとんどすべての手道具は機械に取って代わりました。
<労働する動物>は文字通り機械の世界に生きています。
道具と機械の決定的違いとして、人間の方が機械に「適合」すべきか、あるいは逆に、機械の方が人間の「本性」に適合すべきかどうかという、明らかに際限のない議論の中に最もよく示されていますが、
人間は、機械を作った途端に、機械の環境に自分自身を「適合させた」のであるとアーレントは述べます。
仕事の道具は、仕事過程が続く間ずっと手の召使いに留まっています。一方、機械は労働者にたいして、機械に奉仕するよう要求し、労働者がその肉体の自然のリズムを機械的運動に適合させるよう要求します。
機械による作業が続く限り、機械過程が人間の肉体のリズムに取って代わっています。
近代のテクノロジーが辿ってきた主要な段階として、
①第一段階:産業革命をもたらした蒸気機関の発明
②第二段階:電気の利用:ただ古い技術や技能を巨大な規模に拡大し延長しただけであるとはいえなくなる。今日になって、私たちは、人間がいなかったらけっして起こりえなかったような私たち自身の自然過程を、いわば「創造」し、解き放ち始めている、
③第三段階:オートメーション:近代の発展の頂点
④将来のテクノロジー?:私たちの周囲の宇宙の力を、地球の自然の中に流し込むことによって成り立つであろう
アーレントはこのようにまとめています。
テクノロジーは、機械の導入による生活と世界の変形にほかなりません。
道具や用具の手段性は、もっぱらこのような人間中心的な意味で理解されています。
道具製作者である<工作人>が道具や用具を作ったのは、世界を樹立するためであって、少なくとも人間の生命過程を助けるためではありません。
機械は依然として世界と世界の物に役立っているのか、それとも逆に、機械とその過程の自動的な運動は、世界と物を支配し、破壊し始めてさえいるのではないかということをアーレントは問題視しています。
ある対象物を生産するために機械を設計するというのではなく、逆に機械の作業能力に合わせて対象物を設計する、手段=目的カテゴリーの完全な転倒という懸念点があります。
自然の際限のない過程が人間の世界に流入するに従って続く連続的な過程は、人間の工作物としての世界、世界としての世界を破壊するであろう、とアーレントは述べます。
最後に21節です。
<工作人>の哲学は、功利主義につきものであるといいます。
理論的には、有用性(ユティリティ)と有意味性(ミーニングフルネス)の区別を理解しえない功利主義本来の無能力からきています。
有益性(ユースフルネス)という考え方は、職人の社会に浸透している理念です。
労働者の社会における安楽という理念や、商業社会を支配している利得という理念と同様、実際にはもはや有用性の問題ではなく、意味の問題だといえます。
功利主義の難問は、それが手段と目的の際限のない連鎖にとらえられてしまうことです。
<工作人>の世界においては、すべてのものがある効用をもたなければならず、すべてのものがなにかそれと別のものを得るための道具として役立たなければなりません。
このような世界においては、意味そのものは、目的としてのみ、つまり「目的自体」としてのみ、現われます。
しかしこの「目的自体」というものは実際には存在しません。なぜなら、いったん実現されると目的であることを止めるものだからです。
意味というものは、それが達成されようとされまいと、人間に発見されようと見逃されようと、永続的でなければならないし、その性格をなに一つ失ってもならないものです。
<工作人>はただ仕事の活動力から直接生じる手段と目的の観点だけから思考します。
<労働する動物>が手段性を理解する能力をもたないのとまったく同様に、<工作人>は意味を理解する能力をもちません。
こういったことは、無意味性のジレンマと呼ばれ、そこから逃れる方法は、使用物の客観的世界から脱出し、効用それ自体の主観性に立ち戻ることだと言えます。
人間は<工作人>である限り、手段化を行います。
この手段化は、すべての物が手段に堕し、それに固有の独立した価値を失うことと言えます。
最後には、製作の対象物だけでなく、明らかに人間の助けなしに生成する、人間世界から独立した存在である「地球一般とすべての自然力」も、「仕事から生じる物化を提示しないゆえに価値を」失います。
製作経験を一般化してしまうことは、有益性と有用性が人間の生命と世界の究極的標準となるからこそ問題であるとアーレントは指摘します。
今回は、このように仕事について分析していました。
ディスカッションの時間は、奇数回と同様に全員が感想を言ってから論点を探すのではなく、はじめから何か論点を挙げてそれぞれ答えていく形になりました。
まずは、「道具と肉体の関係について」、日常的に車椅子や人工呼吸器を使用する参加者は、道具を支配しているつもりが、いつの間にか道具に肉体を合わせることがあるという本文の内容はよく分かるという話題が出ました。
次に出てきた、「制作、設計図の有無、芸術」などの話では、詩は制作になるのか? 芸術は設計図通りになるものなのか? などの話題が出ました。
「功利主義について」は、良さもあれば悪さもある。効率や目的に縛られず、広い視野を持つことは重要ではないか? 功利主義、生産性というキーワードを思い浮かべる。という話も出ました。
次回、第15回(奇数回)は、8月31日(火)10:30~12:00『人生の哲学』より、「第8章 自己と他者(その2) 世間と役割」を扱います。レジュメ作成と報告は、稲生会の非常勤医師の荒桃子先生が担当します。
第16回(偶数回)は、2週空いて9月21日(火)10:30~12:00、ハンナ・アレントの『人間の条件』より「第4章 仕事(22・23節)、第5章 活動(24節)」を扱います。
参加希望や、この活動に興味のある方は、下記案内ページより詳細をご確認ください。
皆さまのご参加をお待ちしております。
執筆:吉成亜実(みらいつくり研究所 リサーチフェロー兼ライター)
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