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第12回 みらいつくり哲学学校 「第3章 労働(16~17節)、第4章 仕事(18節)」開催報告

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2021.7.21

 

2021年7月20日(火) 10:30~12:00、第12回となる「みらいつくり哲学学校オンライン」を開催しました。

 

偶数回は、ハンナ・アレント著, 清水速雄訳『人間の条件』を課題図書にしています。

 

今回取り扱ったのは、「第3章 労働(16~17節)、第4章 仕事(18節)」でした。

 

16節は、仕事の道具と労働の分業というテーマで話が進められて行きます。

労働する活動力は、生命と生命の維持に専念するため、世界のことを忘れ無世界的になります。また、そのような<労働する動物>は、肉体の欲求によって突き動かされます。

それに対して<工作人>は、最も原始的な道具である手を用いて自由に肉体を用いるとアーレントは言います。

 

マルクスの想定した労働者の大衆社会は、世界を失ったヒトとしての人間から成り立っているとアーレントは分析します。

 

マルクスが挙げた、労働する動物というのは

・自分の肉体の私事の中に閉じ込められ、だれとも共有できないし、だれにも完全に伝達できない欲求を実現しようともがいている

・彼は、世界から逃亡しているのではなく、世界から追放されている

という特徴があります。

 

生命は、他のすべての動物種にとっては、その存在の本質そのものであるが、人間にとっては、その生来的な「空虚さへの反発」のゆえに重荷となります。

古代ローマの哲学者であるセネカは「すべての生命は奴隷である」とも述べています。

 

生物学的生命の重荷というのは、生から死までの特殊に人間的な寿命を圧迫し、消費するということを意味し、それは、ただ召使いを使うことによってのみ取り除くことができると考えられていました。

 

そうした中で「労苦と困難」を人間が獲得します。これに対して、生命の必要物と「合体する」快楽というものも存在します。

この二つは、生物学的な生命の円環の中で相互に非常に密接に結びついていて、この円環がユニークで直線的な運動を続ける人間の生活を条件づけています。

 

労働の苦痛と努力を完全に取り除くことは、ただ生物学的生命からその最も自然な快楽を奪うことになるだけでなく、特殊に人間的な生活からその活力と生命力そのものをも奪うことになります。

生命そのものを損なうことなしに取り去ることはできないことから、苦痛と努力は人間の条件であるとアーレントは述べています。

 

「生命のリアリティにたいする私たちの信頼」と「世界のリアリティにたいする信頼」は同じではありません。

世界のリアリティにたいする信頼は、死すべき生命の永続性と耐久性よりはるかに優れている世界の永続性と耐久性から生まれます。

生命のリアリティにたいする信頼は、生命が感じられるときの激烈さ、生命がそれ自身を感じさせるときの衝撃にかかっています。

 

世界における人間の生命力は、生命そのものの過程を超越して、そこから遠ざかろうとする能力を常に含んでいます。とはいいつつも、活力と生命力は、人間が進んで生命の労苦と困難という重荷を自ら背負う限りでのみ保持できるものでもあります。

 

また、労働の道具というものは、大きく改善されていきました。これによって、生命の二重の労働(生命を維持する努力と生産の苦痛)は以前にくらべればやわらげられ、その苦痛は減少しました。

とはいえ、人間は、自分が必然(必要)に従属しているということを知らないとき、自由ではありえません。人間の自由とは、常に自分を必然(必要)から解放しようという、けっして成功することのない企ての中で獲得されるものだと言えます。

この解放への最も強い衝動が「空虚さへの反発」から生じます。

 

労働の努力を和らげることのできる道具や器具は、労働の産物ではなく、仕事の産物であり、使用物の世界の中心にあるものです。

日々の労働を安楽にしようとしても道具には限界があります。

 

人間の労働過程のもう一つ大きな原理として、労働の分業があります。

それは、労働の過程から直接生まれて、専門化の原理とは異なります。仕事の専門化と労働の分業が共通しているのは、組織化の一般的原理のみです。

労働の分業は、二人の人間がその労働力を重ね合わせることができ、「二人があたかも独りであるかのように振る舞う」ことができるという事実にもとづいています。

 

この一者性(ワン・ネス、種の単一性)という考え方に対して、協業(コオペレーション)というものがあります。

種の単一性という観点からみれば、個々の構成員はすべて同一で、交換可能であると言えます。

 

労働の分業の条件下にある労働過程の主体は、集団的な労働力となります。これを突き詰めていくと、「社会化された人間」というものになります。

 

「社会化された人間」は、産業革命を契機にうまれました。産業革命はすべての仕事を労働に置き代えていきました。

大量生産は、仕事人を労働者に代え、専門化を労働の分業に置き代えることなしには不可能にしました。

 

道具と器具は、苦痛と努力を和らげました。しかし、必要そのものを変えるのではなく、私たちの感覚から必要を隠すのに役立つだけでした。

 

たえず反復される消費欲求によって保証されていることから、労働過程の無限性というものがあります。

自分の周りにある世界の物をますます早く置き代える欲求にかられており、それを使用し、それに固有の耐久性に敬意を払い、それを保持しようとする余裕をもっていない。とアーレントは述べます。

 

世界のさらに広い概念として、自然というものがあります。自然は、世界の真中で進行する生物学的過程であり、世界をとりかこむ自然の循環過程です。

 

永続性、安定性、耐久性は、世界の製作者である<工作人>の理想と言えます。

ですがそれは、豊かさという<労働する動物>の理想の犠牲となりました。

 

次に、17節の消費者社会という内容に移ります。

私たちは消費者社会に生きているといわれています。

労働と消費は、生きていくために不可欠なものとなり、私たちは労働者の社会に生きているようになりました。

 

唯一の例外は、芸術家です。彼らは、労働する社会に残された唯一の「仕事人」だと言えます。

 

今日の労働理論では、労働と遊びを対比して考えています。

 

マルクスが述べた近代における労働の解放は、万人に自由を与える時代をもたらさないだけでなく、反対に、全人類をはじめて必然のくびきのもとに強制するという危険があります。

 

次にアーレントは、オートメーション(機械化)の発達によって開かれた可能性について触れます。

機械化によって、素早く効率的に様々な物を生み出せるようになったことから、昨日のユートピアが明日のリアリティになりました。

機械化が進むことによって、最終的に人間の生命を拘束している生物学的サイクルに固有の「労苦と困難」として残るのは消費の努力だけとなります。

 

その影響で、「余暇」という重大な社会問題が起こってくるとアーレントは言います。

働かなくてもお金や時間が充分にあるとしたら、人はひたすらに消費行動を行うのみであることを問題視しています。

苦痛なき消費や努力なき消費は、生物学的生命の貪欲な性格を変えるのではなく、それを増大させるそうです。

 

将来のオートメーションの危険としては、すべての人間的生産力が、著しく強度を増した生命過程の中に吸収され、その絶えず循環する自然的サイクルに苦痛や努力もなく、自動的に従う点にあります。

 

アーレントは<労働する動物>の余暇時間は、消費以外には使用されず、時間があまればあまるほど、その食欲は貪欲となり、渇望的になると見ています。

 

近代世界では、大衆文化が生まれました。大衆文化においては、不幸というものが普遍化されました。それによって、

①労働と消費の間のバランスが歪められた

②幸福は、消耗と再生の生命過程、苦痛と苦痛からの解放の生命過程が、完全なバランスを保つときにのみ手に入れることができるのに、<労働する動物>がこのような幸福を手に入れようと頑固に要求しているために、この不幸が生じている

というように変化しました。

 

私たちの社会の「コインの表裏」として、「幸福への普遍的要求」と「不幸が広がっている現状」があります。

 

この生命が、消費者社会あるいは労働者社会において、安楽になればなるほど、生命を突き動かしている必要の緊急性に気づくことが困難になります。

 

実際は、必要(必然)の外部的現われにほかならぬ苦痛や努力がほとんど消滅しているように見えるときでさえ、生命はこの必要によって突き動かされていると言えます。

 

社会は、増大する繁殖力の豊かさによって幻惑され、終りなき過程の円滑な作用に捉えられます。このような社会は、もはやそれ自身の空虚さを認めることができません。

 

次に、第4章仕事の18節に移ります。

 

仕事は、<工作人>によって行われます。<工作人>によって作られる人工物は、安定と固さがなければならないそうです。

この安定と固さがなければ、人間の工作物は、不安定で死すべき被造物である人間に、住家を与える拠り所とはならないからです。

とはいえ、人間の工作物の耐久性は絶対的なものではありません。

 

仕事の1つの例として、耕作が挙げられます。

耕作は、人間にとって最も必要で基本的な労働です。

この作業を続けてゆくうちに労働が仕事に変化することを完全に証明している事例だと言います。

毎年同じ作業を続けるうちに、荒野は耕されて畑になるからです。

 

とはいえ、仕事と労働の区別は極めて明瞭に残っています。

 

・耕作された土地は、使用対象物ではない

・耕作された土地というのは、繰り返し何度も労働しなければ、それを耕作された状態にしておくことができない

からです。

 

土地の耕作の場合、一度生産された物がそのままの形でずっと存在し続ける真の物化は、けっして起こりません。

 

今回はこのように、3章のまとめから、4章のはじめを取り扱いました。

 

 

ディスカッションの時間は、今回はそれぞれの生活に関連する内容だったこともあり、話しやすかったように感じています。

消費や余暇、労働など、本文に登場した言葉に関する話題がありました。

 

「消費」については、若い頃は確かに洋服や様々なものを使い捨てのように買っては捨てるということ繰り返していたが、今は落ち着いているという人や、

反対に物を捨てられず、長い間使うことが多く「消費」という行動が苦手だという人もいました。

 

また、退職された参加者の方は、仕事を辞めてどう過ごすのか全くイメージが湧かなかったが、現在は様々な「余暇活動」を行っており、楽しくてしょうがないという人もいました。

 

「道具」は、労働の負担を減らすことにはなったが、決して人間の代替にはならないという本文の言葉から、AI などの技術発達してきた現在の社会をアーレントが見たら、一体どう感じるのだろうという話もありました。

 

アーレントの言う「労働」という活動を辞めてしまったら、自分がどうなってしまうのかわからないから怖い。という人もいました。

「労働と分業」ということについても、自身の看護師としての経験を踏まえた上で、分業によって生まれたメリットももちろんあるけれど、一方でそれによって失うものもたくさんあるのではないか。という意見がありました。

 

 

この哲学学校の場には様々な立場の方が参加しています。それぞれの目線から見ると、同じ文章でも関心を持つ部分が異なっており、自分とは全く異なった視点からの話を聞くことができます。

 

そういう意味でも、このディスカッションの時間はとても面白いと感じています。

 

 

 

哲学学校は、少しの期間夏休みになります。次回の開催は、下記の通りを予定しております。

第13回(奇数回)は、8月17日(火)10:30~12:00『人生の哲学』より、「第7章 自己と他者(その1) 交流と対立」を扱います。レジュメ作成と報告は、みらいつくり研究所 学びのディレクターの松井翔惟が担当します。

第14回(偶数回)は、8月24日(火)10:30~12:00、ハンナ・アレントの『人間の条件』より「第3章 仕事(19~21節)」を扱います。

 

8月10日には、夏休み特別編として、哲学学校自由研究を開催予定です。

「美とは何だろうか」というテーマで話し合う時間になりそうです。

興味のある方は是非、ご参加ください。

詳細は、こちらのURLからご確認ください。

 

 

参加希望や、この活動に興味のある方は、下記案内ページより詳細をご確認ください。

皆さまのご参加をお待ちしております。

 

執筆:吉成亜実(みらいつくり研究所 リサーチフェロー兼ライター)

 

 

 

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