2020/04/23 みらいつくり個人誌『探求者』No.001 発行者:本間祐希
昨年10月に息子が生まれ、私は父になり、妻は母になり、3人家族になりました。私は普段、手稲区の中学校で理科教師として勤務し、子供達の成長を日々見つめていますが、やはり自分の息子となると「愛しさ」のギアが何段も違います。そんな愛しい息子の成長を近くで見つめたいと、勇気を出して2019年12月末から3月いっぱいの期間、「育児休暇」を取得しました。今日は、そんな日々に感じたことを書きたいと思います。
6ヶ月になる息子は、好奇心の塊。まだまだ毎朝の世界が新しい様子で、昨日遊んでいたおもちゃも初めて出会ったかのように、一心不乱に口の中に入れて、喜んでいます。昨日は発見できなかった彼なりの新しい発見があるのでしょうか・・・。抱っこをすると、周りの世界をキョロキョロと見回して、一生懸命に私に何かを伝えようとしてくれます。そんな様子を見ていて、ふと、今の彼が根っからの「探求者」であると感じました。新しい発見をする→触る→口に入れる(見つめる)→喜ぶ(伝える)、このプロセスを日々繰り返して、夜には可愛い寝顔で寝ています。
メディア論で有名な英文学者マーシャル・マクルーハンは、こう言っていました。「私は研究者(investigator)である。私は、探りを入れる。私は特定の観点を持たない。探求者は(explorer)は全く首尾一貫していない。いつどの瞬間に自分が驚くべき発見をするのか、彼は決して知らない。(『マクルーハン ホット&クール』より)」この中の「彼」が誰を指すのかはわからないが、自分は「息子」に置き換えて読んだ。
マクルーハンは、世界の全貌がどうなっているか、把握できない未知の世界に自らを投げ込むのではなく、ある程度自分が知りたい世界のなかに入り込み、全身でそれに触れながら探りを入れ、情報を得るという意味で、自らが「研究者」であると自称している。つまり、知ることは、働きかけることであり、学ぶことは、学ぶべき対象とともに自己を変形していくことであると教えてくれる。学ぶことの一般的な所為だ。
しかし現実に、人は全て、意味の確定していない未知なる世界に投げ込まれた存在だと痛感する毎日。もはや、今までに蓄えた知識でやりくりしてうまくやっていけるほど、世界は単純ではない。だからこそ、大人も子どもも、いつどの瞬間に自分が驚くべき発見をするのか知らない「探求者」として生きることができる。日々、目をキラキラさせて世界を見つめる息子を見て、私は彼に「どのような教育を受けさせれば良いか?」「どのような知識を授けたら良いか?」に悩む必要はないと思う。それは、彼に探求をさせる機会を奪い、一方的に探るべき用意された世界を与えている準備でしかない。自分が日々している学校での授業もそう言ったおごりがないか省察します。
私は、決して彼をマクルーハンが言う「研究者」にしたいわけではない。今大切なことは、彼を抱きしめ、彼と同じものを見つめ、ともに同じ「探求者」として未知に飛び込み、戸惑いながら、この不思議な世界に「探りを入れ」続けていくこと。きっとこの「みらいつくり学校」も、そういった共に「もがく探求者」を求めているのではないだろうか。ぜひ、いつの日かうちの息子と一緒に「入学」させてもらいたい。