2021年1月14日(木) 10:30~12:00、第35回となる「みらいつくり哲学学校オンライン」を開催しました。
奇数回は、大阪哲学学校編『生きる場からの哲学入門』を課題図書にしています。
今回は、医療法人稲生会の理学療法士、羽根川哲夫がレジュメ作成および報告を担当してくれました。
テーマは、「生活の吟味としての哲学―ソクラテスの弁明を読む」でした。
著者は、古代ギリシアの哲学者プラトンの著書『ソクラテスの弁明』を元に、プラトンの師である哲学者ソクラテスが行なっていたとされる「生活の吟味」について哲学していきます。
はじめに、イタリアの思想家グラムシの「全ての人間は哲学者である」というテーゼや、「ひとつの時代の哲学は3つの哲学の相互関係として存在する」という哲学に関する整理を挙げます。
グラムシの整理する3つの哲学とは、
「(狭義の)哲学者の哲学」
「人民大衆の哲学」
「知識人集団の哲学」
であり、どの立場にいても哲学ができること。それらの相互作用によってひとつの時代の哲学が存在するということを言います。
筆者はグラムシの全員哲学者論と、ソクラテスの生活の吟味としての哲学実践の連続性を確認しようとします。
『ソクラテスの弁明』は、プラトンがソクラテスの死後に執筆した本です。
ソクラテスは、紀元前399年(70歳)に古代ギリシア・アテナイの詩人メレトスによって告発されました。その告発によって行われた裁判では、裁判員たちの投票によって有罪判決が下され、最終的には死刑判決が下されます。
『ソクラテスの弁明』の中では、この裁判でソクラテスが裁判員たちに対して語った弁明内容が描かれています。
メレトスによる告発理由は、「若者を堕落させ、国家が崇める神々を崇めず、別の新奇な神格を崇めることにより不正を犯している」というものでした。
ソクラテスの前提的弁明として、「ソクラテスより知恵のある者は誰もいない」 という神託を受けたことから、ソクラテスはそれを確かめるため、「知恵あるものと思われている人たち」を遍歴し「吟味」するということをしていたといいます。
そこで、ソクラテスは「自分が知らないことについては知っていると思ってもいない点で、相手より知恵ある」と気づきました。
そこから、市中を歩き回り、「知恵あると思われるもの」探し出して「吟味」し、彼らの無知を暴露したことで、多くの人から憎まれたのだといいます。
また富裕の家の若者は、ソクラテスを模倣しました。若者たちに吟味された親たちは、子供を憎むわけではなく、ソクラテスを憎み、ソクラテスが若者を堕落させていると言いふらしたといいます。
また、ソクラテスは無神論者ではなく、神託をもとに「吟味」という活動を行っていることなどから、メレトスの告発内容に真実はひとつもないとします。
この弁明の後に、裁判員の投票によって有罪の判決が下されました。その後、罪状の程度を判断するための投票が行われ、最終的な判決は死刑となりました。
「徳ある人間が正義を曲げて助命懇願するのは見苦しい」とし、ソクラテスはその判決を受け入れました。
……以上が、とても大雑把な『ソクラテスの弁明』のあらすじです。
筆者は、ソクラテスの「吟味」は、外形的には大変執拗なもので、現代人の我々が哲学的対話という場合にイメージするものとはかけ離れていると指摘します。
また、ソクラテス自身の家庭生活、職業生活のネグレクト、家族の不幸や生活破綻は使命の重大さの証拠と誇らしげに語っていることに対して、生活の吟味の足場は生活そのものの中には置かれていないと言います。この超越性は、憑かれた人間の自己幻想ではないかとも指摘します。
弁明の中でソクラテスは自身の活動に対し、政治的な関わりは一切なかったと言っていましたが、 政治に関わる人々の中にはソクラテスの弟子とされる人もいたため、 ソクラテスの政治的関連は一切ないとも言い切れないそうです。
ソクラテスが裁判員たちに行った最後の予言として、「私(ソクラテス)を殺しても君たちに対する若者たちの生活の吟味はずっと多く、ずっと情け容赦ないものになるだろう」というものがあります。
弟子であるプラトンはソクラテスの没後、将来の哲人支配を担う哲学エリートの純粋培養的養成の構想などを掲げていったことから、プラトンをはじめとする弟子たちには、ソクラテスの最後の叫びは一切響かなかったのだといいます。
「提唱は国家哲学、実際は学校哲学であるプラトン哲学が、生活の吟味の激烈な対話的実践に人生を重ねたソクラテスの市井の哲学に代位していった」として、筆者の生活の吟味に対する哲学は締めくくられました。
ディスカッションの内容は、ソクラテスの人物像について考察する時間が多くありました。
「当時のソクラテスはどのように市中の人々を吟味していたのか」という疑問や、「吟味が重要だと人々に伝えるには、もっと良い方法があったのでは?」という意見が出ました。
また、「ハイデガー目線で言えば、ソクラテスは本来的?非本来的?」というもはや恒例、偶数回のハイデガーに関連付けた話題も上がりました。これ以上はやめておこうというほど、それぞれの考察が広がりました。
ソクラテスの「生活の吟味」の方法に対し、「現代での生活の吟味」の方法はどうあればいいのだろうという論点も出ました。
ソクラテスは、他者に自身が無知だと自覚させるために、人前でその人を論破する形で指摘して人々の反感を買いました。
そうではなく、気づきを得られるような方向性で進めていくことが重要ではないかということで、今回は幕を閉じました。
『ソクラテスの弁明』は、2000年以上前のお話ですが、現代にも通ずるものがありました。もし、ソクラテスのような人が現代にいたらどうなるのだろうと思いました。
次回、第36回(偶数回)は、2021年1月21日(木)10:30~12:00ハイデガーの『存在と時間』より、第2篇第6章 時間内部性です。
今年度の哲学学校は、いよいよ次回が最終回です。
一年間、あっという間でしたね。参加して下さった方、YouTube配信・ラジオ視聴の方も、お疲れ様でした。最終回も楽しみましょう!
当日参加だけでなく、希望があればアーカイブ動画も共有できます。ぜひ、ご連絡ください。
皆さまのご参加をお待ちしております。
執筆:吉成亜実(みらいつくり研究所 リサーチフェロー兼ライター)