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第13回 みらいつくり哲学学校オンライン 開催報告

2020年8月6日(木) 21:00~22:30で、第13回となる「みらいつくり哲学学校オンライン」を開催しました。

今回は、みらいつくり哲学学校初の「定時制開催」として、夜間の開催でした。

いつもは仕事で出られない方も含め、普段の約2倍の18名の方がご参加いただきました。

 

奇数回は、大阪哲学学校編『生きる場からの哲学入門』を課題図書にしています。

 

今回から第Ⅱ部「生きる場からの思索と哲学」に入り、第1講の「生と死とおひとりさまを考える」という回を扱いました。

 

レジュメ作成と報告を担当してくれたのは、三重県にある訪問看護ステーションの渡邊さんです。

 

 

「おひとりさま」ということで、高齢者孤独死がトピックとしてあがりますが、意外と「働き盛りの単身者の孤独死」も多いのだと著者はいいます。

 

その後話は「ひとり」と「個」ということについて考えることに及び、哲学者の山折哲雄さんの「ひとり」の哲学という概念が紹介されます。

山折さんによると、「ひとり」と「個」は似ているけれども実はその間には大きな違いがあるといいます。

 

「ひとり」というのは「日本列島の山や森のかなたから吹いてくる風の中に姿をあらわす」のに対して、「個」というのは「どうやら海のかなたの草原や砂漠を渡る風の中からあらわれてくるようだ」といいます。

 

山折さんの他、ヤスパース、古代ギリシアの哲学者、釈迦、ゾロアスター、ユダヤ思想、中国の諸子百家、親鸞、道元、日蓮らにも「ひとりの哲学」がみられると著者はいいます。

 

その後、「自立」「生活術」「統合医療」という話へと展開し、最後には「看取り」の話へと展開します。

 

医療史の専門家である新村拓さんによれば、平安中期においては「医薬」というものが、「延命への望みを起こさせ、往生の障りになると考えられていた」ということです。

また、医師の帯津良一さんによれば、「かかりつけ医は必要だが、看取りに医者は要らない」といいます。

近年の話として、兵庫県尼崎市園田地域では、「安心して看取りができる街づくり宣言」を採択し、「生きる場のコミュニティで最期まで生ききるために、病気も死も個人的なことにしまわないで声をあげ、お互いの声を拾い助け合おうと、看取りを望む人と各専門職との連携を進めているとのことです。

 

まとめとして「人はひとりでは死ねない」とし、下記のように結びます。

 

「自己の価値観による人生設計力と、自分が必要とする援助を表現し要求できる生活自立力を持つこと。望まれるのは、八十歳から百歳までの充実した幸せ感のなかで、生ききること。幸せとは何かは永遠の問いですが、その核心にあるのは自然を愛する心と簡素な暮らし、家族や地域への愛と友情の温もり、そしてそれらへの感謝なのではないでしょうか。」

 

今回は該当箇所の内容があちらこちらに飛んでいたということもあり、何かひとつテーマにあげて議論するというより、それぞれ思ったことを話していく感じでした。

 

途中で、障害当事者であるAさんから、「土畠先生に聞きたいことがあるんですが…」との質問。

Aさんはこの哲学学校の共同主催者として関わってくれていますが、これまでにも「自由」について意見を述べてくれていました。その中心は「自由とは、選択肢があるということ、その選択肢の中から自ら選択すること」という主張でした。

その前提で「(土畠は)医師として、患者さんにどのように選択肢を提示しているのか」と質問してくれました。

土畠としては、その意思決定がその方の生死にかかわるような状況という前提で「すべての選択肢を同じようには提示していない。むしろ、選択肢を狭めるような提示の仕方をしている」と答えました。

「インフォームド・コンセント(IC: Informed Consent)」という言葉をよく聞きますが、「インフォームド」というのは「しっかりと情報を提供された」、「コンセント」というのは「同意」という意味なんです。

決して、「インフォームド・チョイス」(しっかりと情報を提供された上での選択)ではない。医師として、すべての選択肢を同じように提示して、「さあ、どれか選んでください。どれを選んでもあなたの自由です」というのは、するべきではないと考えています。

その前の前提として、「信頼関係がきちんと構築されている」という状態にしておきたいと思っています。

私が医師として他の選択肢よりもある選択肢のほうがよいと提示したとしても、相手(患者さんあるいはご家族)が「でも先生、私は他の選択肢のほうがいいと思う」と言える、という関係です。

そういう場合はもちろん、当事者の選択を重視しますが、「どれを選べばよいのかわからない」「どう決めても、後で悔やむような気がする」という状況は多くあるように思います。とくに、自分自身の生死に関する意思決定をする「当事者」の場合ではなく、自分の子どもの生死に関する意思決定をする「保護者」の場合に、多いような気がします。

そんなとき、「先生が決めてくれた選択肢を選びます」と言ってもらえるような関係、後になって悔やむことがあったとしても「でも、先生がそうやって決めてくれたんだから、あれが一番よかったんだよね」と思えるような関係、そんな関係が築けたらいいなといつも思っています。

 

そんなやり取りをしていたら、残り10分くらいのところでS先生が入ってきました。S先生と言えば、いつも面白すぎるタイミングで絶妙な言動をしてくれる、稲生会の人気者です。

ということで、それまでの議論を全く聞いていなかったS先生にも同じ質問をしてみました。

S先生は、こんなことを言ってくれました。

 

「お子さんの目線になるか、家族の目線になるか、そのバランスに悩むことがある。自分がどちらに傾いているのか、シーソーの上に乗っているような気持になることがある。看取りについても、『うまく看取るためのストーリー』みたいなものをつくろうとしている自分に気づいて悩むことがある」

 

S先生だけでなく、同じように思っているドクターは多いように思います。

 

医師二人の話を聞いていたAさん、

「これまで、自由とは選択肢が多いこと、その中から自分の意志で選択することだと思っていた。でも、もしかしたら、必ずしもそうじゃないのかもしれないと思った」

と話されていました。

 

ハイデガーの二世代くらい前の時代の哲学者に、ヘーゲルという人がいます。

 

ヘーゲルも「自由」ということについて思索しているのですが、ヘーゲルの言う「自由」とは、「自由自在」という言葉の「自在」のほうに近い、と解説されているのを読んだことがあります。

 

「何の制約もなく、あらゆる選択肢の中から自らの意志で選ぶことができる」

 

というのではなく

 

「様々な制約があり、自らの意志だけで選ぶことができないような状況でも、自分の存在というものが維持されている」

 

ということなんだと。

 

「自由な表現」をしているように見える芸術家でも、決して「制約」からは自由ではない。キャンバスの大きさや、絵の具の種類や、それらを買う資金、作品をつくることにかけられる時間など…。でも、そういう「制約」の中にあってもなお、芸術家自身の「存在」が作品の中にしっかりとあらわれている。

 

そんな状態こそが「自由」であるように思うのです。

 

初めての定時制開催ということもあり、普段とは少し違った雰囲気の中で哲学的な議論ができました。

「せっかく夜の開催だから、アルコールも含めて飲食込みでやりましょー」と呼びかけた手前、土畠はビール飲みながら参加してみたのですが、間違って30分早く終わらせようとして、Aさんからツッコミが入るという…。

普段の診療においても、酔っぱらってなくても(笑)、患者さんやご家族からきちんとツッコんでもらえる関係を築きたいなーと改めて思った夜でした。

 

 

第14回は本日8月11日(火) 10:30~12:00に開催しました…。

もうすぐこちらも報告します。

 

第15回は、8/19(木) 13:30-15:00 『生きる場からの哲学入門』より「若き生活者たちにー学ぶことの意味について」を扱います。レジュメ作成と報告はみらいつくり研究所/医療法人稲生会の学びのディレクターである松井翔惟が担当します。

 

偶数回の次回第16回は、8/25(火) 10:30-12:00『存在と時間』より第6章「現存在の存在としての気遣い」の前半部分を扱います。

 

オンタイム参加できないという方で「録画だけはずっと見ています」という方もけっこう数名いらっしゃいます。

 

ぜひご連絡ください。

 

 

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