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21/7/14
2021年7月13日(火) 10:30~12:00、第11回となる「みらいつくり哲学学校オンライン」を開催しました。
奇数回は、渡邊二郎著『人生の哲学』を課題図書にしています。
今回取り扱ったのは、「第6章 愛の深さ(その3) 愛の諸相」です。
レジュメ作成・報告は、家庭医の大久保先生が担当しました。
前回からもあったようにこの章では、エロースとアガペーの愛はどう関係し合うのか、愛の問題をどのように考えるべきであるのかという点について、考えていきます。
スウェーデンの神学者ニーグレンは、アガペー的愛とエロース的愛の対立を最初に提起しました。この2つの愛は、どちらかが高次というものではないと言っています。
筆者は、2つの愛を共に認める高次の立場はあるか?愛の総合の立場はあるか?という疑問から話を進めて行きます。
アガペーは、人間的な価値尺度による評価などに左右されず、全てのものを分け隔てなく絶対的に許す、神の慈愛を意味します。
人間としての私たちは、祈るのみ。隣人も敵も無条件に愛し、無条件的に自己投与において生きねばならないとします。
エロースについて、ニーグレンは感性的ないし官能的な意味合いを否定し、プラトンはギリシア的エロースの実態としてもっと幅広い意義があると言いました。
エロースは、高次のものを目指して向上努力しようとする自己拡充的、自己肯定的な発展的生命原理の意味合いにおいて成立しました。
この2つの愛は神中心と自己中心の生き方として対立し、両立不可能な確執があります。
とりわけキリスト教的なアガペー的愛の立場に立てば、エロース的愛は罪とされます。
アガペー的愛では、人間は自己滅却と献身的な隣人愛に生きねばなりせん。
筆者は「そのような神の絶対的愛の立場に、本当に立つことができるのだろうか」という疑問を持ちます。
その問いに対して、「自分も本当の意味で活かされ、かつ充実して生きることを許され、また他者も、その存在を承認され、大切にされ、生きることを許されてこそ、初めて、あらゆるものを絶対的に肯定する神の愛が実現されたことになるのではないだろうか」と筆者は述べています。
一方で、これは言うことは簡単でも、行うのは難しい事柄です。他者との共生のありさまが現実の事実でも、愛の理想や当為が成り立つわけではありません。
現実には愛憎の葛藤や、争いや、対立や、さまざまな確執の中へと転落し、愛の問題が容易ならぬ相貌をもって立ち現れてきます。
その時にエロース的愛とアガペー的愛どちらを優先するか、その狭間に立って、もがき苦しみ、具体的な折り合いの付け方に苦慮します。
キリスト教における「愛」とは「生かす働き」、つまり「存在に生命を与える働き」です。
人間は、この愛に生きてこそ、ほんとうに「生きる」ことができ、生命の意味を獲得しうると、筆者は述べます。
隣人愛は、例外なく隣人を愛し、全人類を愛し、すべての人を愛し、敵をさえも愛するものです。
隣人とは自己愛からはるかに遠く隔たったところにあるものとしつつ、他方で、自分自身を正しい仕方で愛することと、隣人を愛することとはぴったり相応しています。
自己愛を放棄することが同時に真の自己愛を教えることに繋がるとキルケゴールは述べています。
また、宗教と道徳と法との間にある、愛の成立場面に異なった位相を区別することが必要だと言います。
宗教と道徳と法が、相互に矛盾するような場合があっても、包括的総合的な視座を打ち立てる努力を怠らず、正しい判断を形成して、誤りなく、人間生活を営むことができるよう努力しなければなりません。
筆者は、「自己の人生を大切にし、愛する者のみが、他者の人生の大切さをも、ほんとうに自覚しうるのである。そうした者同士の間にこそ、真の理解と、愛情が育つのである」とまとめます。
次に、愛の憧れというものについて触れていきます。ここでは、愛の憧れに関連して、7つの分類がなされています。
(1)合一への愛
愛の心の根本には「神秘の合一」への憧れが潜む。愛する対象と一体となり、完全に溶け合い、一つになることこそは、愛の情熱を突き動かす根源的な衝動。
これを想起させる詩句として、「生命の小川(ゲーテ)」「夜の歌(ニーチェ)」「存在と合一(ヘーゲル)」がある。
(2)ロマンティックな憧れ
合一への愛は当然のこと、ロマンティックな憧れの形態を取って出現してくる。
これを端的に表した詩として、「ミニヨンの歌(ゲーテ)」「旅への誘い(ボードレール)」がある。
(3)官能的な愛
「合一への愛」が「ロマンティックな憧れ」を超えて、さらに直情径行、天衣無縫のまま、奔放かつ赤裸々に出現するとき、男女がたがいに口付けし、抱擁し合って、あくことなく互いの肉体を求め合う「官能的な愛」が成立してくる。
これを端的に表したものとして、「万葉集」がある。
(4)リピドー(性)とエロース(生)とタナトス(死)の本能
「官能的な愛」の根深さは、人間における「性の衝動」の根強さを暗示。
フロイトは「性本能のエネルギー」を「リピドー」と呼んで「無意識」裡におけるそれの根源的支配力を強調した。
晩年のフロイトは「性本能のリピドー」をさらに拡大して「生けとし生けるものを一つに結び」「万物を維持」「繰り返し生命の更新を求めかつそれを実現する」「生の本能(エロース)」と捉えるに至った。生の本能に「死の本能(タナトス)」が対立すると見た。
(5)エピクロスの知恵
エピクロスは、いかに人間のうちに快楽原則が作動しているにせよ、かつてギリシアの快楽主義者エピクロスが指摘したように、人間は、快楽の限界を見定め、官能的な愛の次元から脱却していくものであることを、学び知らねばならないとした。
(6)価値への愛
マックス・シェーラーは、人間の「愛憎」の働きのなかには、「価値」の意識が作動いており、「愛」のうちには、「価値」への志向が伏在している。
(7)遠人愛
ニーチェは「隣人愛」ではなく「遠人愛」を説いた。
身近の、卑俗的な、烏合の衆ではなく、「最も遠い者、未来に出現する者」を「愛」し、さらには、「人間への愛」よりも、さらに高く、「事業と目に見えぬ幻影とへの愛」に生きることが肝心。
超え出てゆく人(超人)への愛こそは、あらゆる真摯な情熱の根源であり、すべての高貴なものの出現の源泉であるとした。
この章では、このように様々な角度から、愛を眺めました。
ディスカッションでは、
まず初めに「本文にあったような、清く正しく、自分も他人も愛することができる人はいるのか?」という疑問が挙がりました。なんとなく好き、生理的に苦手、のように愛することを選ぶ事もあるとのことでした。
本文については、章立てがわかりにくかったという話や、「本文では、宗教と道徳と法を区別して描かれていたが、分かれてないと思う」という意見も出ました。
いくつか挙がった論点としては、まず「90歳過ぎの親戚のお葬式で泣いている人がいなかったのはなぜ?」というものがありました。
大往生だったから? 泣いていないというのは愛がなかったから? という疑問から、参加者の中にもお葬式で泣くことはあまりないという方もいたり、キリスト教では明るく送り出すことが多いという話もあったり、愛と涙は関連しないのでは?という意見も出ました。
また、「愛がテーマの作品(映画やドラマなど)は好きか?」という話にもなりました。哲学をしていると思いきや、いつの間にか、それぞれ印象に残った恋愛作品が語られる時間になっていました。
本文に出てきた、「合一への愛」から、映画シン・エヴァンゲリオンを思い出したという声がありました。哲学学校では、度々エヴァが登場します。私もそろそろ見ないといけないなと思っています。
次回、第12回(偶数回)は、7月20日(火)10:30~12:00、ハンナ・アレントの『人間の条件』より「第3章 労働(16~17節)、第4章 仕事(18節)」を扱います。
第13回(奇数回)は、8月17日(火)10:30~12:00『人生の哲学』より、「第7章 自己と他者(その1)交流と対立」を扱います。
レジュメ作成と報告は、みらいつくり研究所 学びのディレクターの松井翔惟が担当します。
8月10日には、夏休み特別編として、哲学学校自由研究を開催予定です。
「美とは何だろうか」というテーマで話し合う時間になりそうです。興味のある方は是非、ご参加ください。
詳細は、こちらのURLからご確認ください。
参加希望や、この活動に興味のある方は、下記案内ページより詳細をご確認ください。
皆さまのご参加をお待ちしております。
執筆:吉成亜実(みらいつくり研究所 リサーチフェロー兼ライター)
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