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2021.6.16
2021年6月15日(火) 10:30~12:00、第8回となる「みらいつくり哲学学校オンライン」を開催しました。
偶数回は、ハンナ・アレント著, 清水速雄訳『人間の条件』を課題図書にしています。
今回取り扱ったのは、「第2章 公的領域と私的領域(10節)~第3章 労働(11・12節)」でした。
第2章公的領域と私的領域の第10節の内容として、
私的なるものと公的なるものの違いは、必然と自由、空虚さと永続、恥辱と名誉などであると述べられています。
つまり、「存在するためには隠しておく必要のあるもの=私的なるもの」と「公に示す必要があるもの=公的なるもの」という違いであるそうです。
人間の活動力は、それにふさわしい場所を世界の中で占めています。それはどういうものかというと、アーレントは善というものを挙げます。
善は、西洋の文明でキリスト教の勃興とともに知られるようになりました。
善の活動力は、
・イエスが言葉と行為で教えた唯一の活動力
・見られ聞かれることから隠れようとする傾向を秘めている
・善は、知られ、公になった途端、善の特殊な性格を失う
・滅ぼされないためには絶対的に隠され、あらゆる現われを避けなければならない
というようなとくちょうがあると言います。
プラトンは、「独居」における自己内対話に思考の本質があり、思考は、あらゆる活動力のうちで最も「独居的」なものであるが、けっして同伴者や仲間を欠いているわけではないと言います。
一方で、善を行う人は、けっして独居生活を送ることはできません。なぜなら、善は他者に対して行うものであるからです。
ここでアーレントは、独居的というものに対して「孤独」という概念をあげます。
善を行う人は、孤独になるそうです。それは下記のような特徴があります。
・他人とともに生きながら、他人から隠れなければならない
・自分のしていることを自分自身が安心して目撃することさえできない
・善行は、どんな人も同伴できず、行われた途端に忘れられなければならない
・記憶でさえ、善の善たる特質を滅ぼしてしまう
それに対して、思考は、記憶されるものであるため、結晶して思想となります。
そして思想は、書かれたページや印刷された本のように、触知できる対象に変形されて、人工物の一部となります。
アーレントは、善行は、けっして世界の一部分になることはないし、それは、生まれ、なんの痕跡も残さず去ることから、この世界のものではないと言います。
アーレントの言う世界は、人工物でできているものです。善行は形には残らないため、世界の一部分になることはないということですね。
独居という生き方は、哲学者の生活様式として、真の生活様式となりうると言います。
哲学は主に一人でいる時間に、行われるものであるからです。
孤独という生き方は、それに比べはるかに一般的な経験です。
孤独は、多数性という人間の条件にあまりにも矛盾しているので、長時間にわたってはとても堪えられるものではありません。
孤独が人間存在を完全に滅ぼしてしまわないためには、善行を目撃する唯一の想像上の証人、神の同伴を必要とするとします。
このような超世界的な宗教の経験は、愛という一つの活動力の経験です。愛の活動力とは、
・世界を見捨て、世界の住民から身を隠す
・世界が人びとに与える空間を拒否し、とりわけ、すべての物、すべての人が、他人によって見られ、聞かれる世界の公的部分を拒否する
ということで、前回も出てきましたが、愛は公的なものにはならないということです。
ここまでが第2章 公的領域と私的領域の内容です。ここからは第3章 労働の内容に移ります。
まずはじめに、労働と仕事の区別を考えます。
イギリスの哲学者ロックは、「仕事をする手」と「労働する手」を区別していました。
古代ギリシアでは、「職人=仕事」と「奴隷や家畜のように自分の肉体をもって生活の必要物に仕える人=労働」という区別をしていました。
古代では、労働に対する軽蔑が強くありました。それは、必然(仕えること)から自由になるための猛烈な努力から生まれたものでした。
労働することは、必然(必要)によって奴隷化されることで、それは人間生活の条件に固有のものと言えます。
人間は生命の必要物によって支配されていることから、必然(必要)に屈服せざるをえなかった奴隷を支配することによってのみ自由を得ることができました。
古典古代では、労働と仕事の区別がありませんでした。
政治理論の勃興とともに、哲学者たちは、観照(ものを眺める、考えこと)をすべての種類の活動力に対置を配置しました。
その後、政治的活動力でさえ必要の次元にまで均質化され、それ以後は必要が<活動的生活>内部のすべての区別に共通する公分母となりました。
近代になると、その伝統をすっかり転倒させました。
活動と観照の伝統的順位だけでなく、<活動的生活>内部の伝統的ヒエラルキーさえ転倒させ、あらゆる価値の源泉として労働を賛美するようになりました。
かつては①<理性的動物>が占めていた地位に②<労働する動物>を引き上げましたが、②<労働する動物>と③<工作人>を区別する理論は生み出しませんでした。
この①~③の区別の中で、問題の本質をついているのは、生産的労働と非生産的労働の区別だけだとアーレントは言います。
「生産的労働」と「非生産的労働」の区別のなかには、仕事と労働というもっとも根本的な区別を含んでいます。
労働というのは、歴史が進むにつれて、隠れた場所から、それが組織され「分化される」公的領域へと連れ出されていきました。
マルクスは、労働する活動力そのものが、歴史的環境や、私的領域・公的領域どちらに位置しようが関係なく、それ自身の「生産性」を実際にもっていると述べました。
この生産性は労働の生産物にあるのではなく、人間の「力」の中にある。という、今では当然とされる考え方をマルクスが初めて提唱したと言われています。
マルクスが「労働力」という用語を取り入れたことは、労働それ自体ではなく、人間の「労働力」の剰余が、労働の生産性を説明するようになりました。そのためこの理論は、彼の観念体系全体の中で、最も独創的で革命的な要素となりました。
また、別のカテゴリーとして「肉体作業」と「知的作業」というものがあります。
・いずれも労働過程
・思考は労働よりも「生産性」が低く、思考はそれだけではけっしてなにかの対象に物化されない
・考えることと仕事をすることとは、けっして同時的には起きることのない、二つの異なった活動力
・世界に自分の思考内容を知らせたい思想家は、なによりもまず思考することを止め、自分の思想を記憶しなければならない
それぞれこのような特徴があります。
古代の理論では、労働が軽蔑され、労働者の苦痛の多い努力に不信がありました。
近代の理論では、労働が賛美、労働者の生産性を称賛されるようになりました。
これらはいずれも、労働者の主観的な態度や労働者の活動力に立脚している点では同じです。
世界には、永続性と耐久性が必要です。
それを世界に保証するのは、世界の部分として眺められた仕事の産物です。
生命にその生存手段を保証する消費財は、この耐久性のある物の世界の内部にあり、使用される物は、世界の親しみ易さのもととなり、人間と人間の間だけでなく人間と物の間の交わりの習慣を作り出します。
消費財は人間の生命(労働)に関係していて、使用対象物は人間の世界(仕事)に関係しているということです。
人間事象の事実的世界全体として、
①それを見、聞き、記憶する他人が存在すること
②触知できないものを触知できる物に変形
これらが揃ってはじめてリアリティを得て、持続する存在となると述べます。
人間世界のリアリティと信頼性は、私たちが物によって囲まれているという事実に依存しています。
物は、それを生産する活動力よりも永続的で、潜在的にはその物の作者の生命よりもはるかに永続的です。
人間生活は、それが世界建設である限り、たえざる物化の過程に従っている。として、今回の部分は終わりました。
ディスカッションの時間は、
「生産性というワードを聞くと、障害を思い浮かべる。アーレントは障害について、どのように考えていたのだろう」という疑問や、
「孤独と独居」の違い、「肉体作業と知的作業」の生産性の高さ、「思考を物化すること」などの、本文中に出てきた言葉についての考察が広がりました。
「肉体作業と知的作業」の生産性の高さについては、アーレントの時代と違い、現代ではAIやロボットなどの様々な技術の進歩によって、その優位は反転してるように感じるという意見もありました。
また、「孤独を感じることはあるか」という話題にもなりました。参加者の中には、孤独と感じることもあるという人や、逆にお金を払ってでも一人の空間が欲しいと思うことがあるという人もいました。
聞くところによるとアーレントは、「孤独でなければ、哲学者にはなれない」と言っていたらしいです。
思考も形に残さなければ価値がない、というのは確かにそうだと思いました。何事も形にするのは中々大変ですよね。
次回、第9回(奇数回)は、6月22日(火)10:30~12:00『人生の哲学』より、「第5章 愛の深さ(その2) 葛藤を秘めた人間」を扱います。レジュメ作成と報告は、みらいつくり研究所 学びのディレクターの松井翔惟が担当します。
第10回(偶数回)は、7月6日(火)10:30~12:00、ハンナ・アレントの『人間の条件』より「第3章 労働(13~15節)」を扱います。
参加希望や、この活動に興味のある方は、下記案内ページより詳細をご確認ください。
皆さまのご参加をお待ちしております。
執筆:吉成亜実(みらいつくり研究所 リサーチフェロー兼ライター)
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